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今日ちょっと興味深い記事があったので取り上げます。
山城の堀の底に土壁
河内長野の烏帽子形城跡
「敵の移動を阻む」
河内長野市教委は12日、同市喜多町の烏帽子形城跡で、堀の底を横切るように盛りが土壁が見つかったと発表した。塀は戦国時代末期〜安土桃山時代の改修されたもので、敵が堀の中を通路として移動するのを妨げるために築いたらしい。同様の障壁は関西では大阪城でしか見つかっていないという。
市教委によると、烏帽子形城は楠木正成が築いたと伝えられる山城。
本丸近くの堀跡を発掘したところ、堀を横切るように約5メートル間隔で高さ約1.2メートルの土が盛られていた。
同様の障壁は戦国時代、北条氏が支配していた関東の城の約30カ所で発見されているという。
「北条氏とは違う系統の築城技術を持つ専門集団が活躍していた可能性もある」として、来年度以降も調査を継続する。
朝日新聞 208年12月13日
と言う内容でした。大阪城の堀に堀内障壁があるのはわかっていましたが、烏帽子形城と時代が違うなぁと思っていましたら産経新聞に
河内長野市にある烏帽子形城跡で空堀から、敵の侵入を防ぐ障壁が見つかった。
「堀内障壁」と呼ばれる防御施設は同時代に関東地方を支配した北条氏の城跡で多く見られるが、関西での出土は珍しいという。
空堀は二重になっており、横堀の深さ3メートルの地点で、堀内障壁の一部が出土した。高さ1.2メートル厚さ50センチメートルほど盛り土されていたと見られる。表面は滑りやすい粘土質で加工され乗り越えにくいように工夫されていたという。空堀は通路としても使われたため、障壁を作ったと見られる。
市教委によると、堀内障壁は北条氏の城に特徴的は施設とされ、関東、東海地域に多い。1584(天正12)年、秀吉の命では廃城となっていた烏帽子形城を岸和田城主が改修したとあることから、担当者は「改修の際、何らかの方法で北条氏の築城技術が伝えられたのだろう」と話している。
烏帽子形城は、千早赤阪村を中心に活躍した南北朝時代の武将、楠木正成が築いた「楠木七城」の一つと言い伝えられ山城。
産経新聞 平成20年12月13日 大阪河内版
大阪河内版より
こちらの方が納得しますね。
皆さんはいかがお考えですか?
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検索から来ました・・
河内、大和の古道や山を歩いてます。
またこれからも訪問させていただきます。よろしくです。
ポチして帰ります。
2008/12/14(日) 午前 7:06
コウさんおめでとうございます
ご訪問とポチありがとうございます
あまりで歩くことができない私にはうらやましい限りです
高野街道記気まぐれ補足共々よろしくお願いします
2009/1/4(日) 午前 8:45 [ kubira ]