高野街道記気まぐれ補足 別館

主に高野街道、河内長野付近を中心に書き込んでいます。こんな事を知っているといった方はご教示頂ければと思います

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日野の口碑1

以下の文章は
久保弥三冶翁の述からの抜粋であります
久保弥三冶翁は今年(昭和四十七年当時)八十歳の高齢ではあるが、今なお壮者をしのぐ健脚の人である。
日野に生まれ、日野に育ち、日野を愛し、日野に生きる郷土愛の権化とも言うべき人である。しかも若い頃から、この地方の民話伝承に興味を抱き、常にこの採集に意を用い記憶し続けてきた人であった。云々
とあります
しばらくのお付き合いをよろしくお願いします

日野の由来
 日野は大昔、下ノ畑と呼んでいた。滝の畑を上の畑と呼びこの二つの畑村には真中に何れも湖があった。
 その頃の天子様が瀧の一番狭い処を切り開いて開拓して、田地を作るように奨励されたそうである。
 又この天皇は信仰に篤い御方で、天野から日野にかけて多数の寺を造られた。この天皇は御幼名を大あまの皇子と申したそうである。
 天野の地名もこの御名から出たのではなかろうかと云う説もある。
 日野の観音寺も、その頃は天野山のお寺の続きで村堺にあったそうで天野山の奥の院であった、それで天日山観音寺と今もよんでいる、日野と云う地名は、それから後、日野氏在住したことによって地名となった由である。
 開田によってきり拓かれた百合ノ滝も汐滝も名題の大瀑ではなくなり低い小瀑になって終わった、昔ながらの滝を想像すると相当大きな瀑布であった事と思われる。
 滝ノ畑の湖を木材、炭等の産物を舟で運搬した。その荷揚げ処を今なお荷越しと呼んでいる、それは切開いた滝の処である。これらの物産を河内方面に運搬するのは不便なので、おもに和泉に流れていた。
 泉州との交通の方が楽で、天野、日野、滝畑と、和泉の界にあった国見城の兵糧は、西ノ山の峯つづき塩降り峠より送っていたと云われる。塩降りと云う名は牛馬に塩を負わせて城に送る途中、木の枝に塩俵が引掛り破れて塩がこぼれるままに運んで行ったのを後ろから来た人が「塩が降った」と笑ったので塩降り峠と呼ぶようになったのだと云われている。
 これはその頃滝畑の梶谷の大老の話で今から70年程前、80才のお爺様から聞いたとの事である、そして舟の出る処を舟居と云った。
 その頃福玉山光滝寺も今より高い所にあったそうで、現在のお寺の上の山ノ峯に近い中腹に、その境内が残っていると云われいる。
 槙尾山の奥ノ院と云うから本当かも知れない、私は未だこの山中に行った事がない。
 当村から爪楊枝の材料を取りに行った人達から聞いたのであるが、大きな段地がありそれが光滝寺の境内だと話された。
 日野もその頃は、駈下り坂と北峯の端の処に釣橋を架け高向に行く道の要所であった。この橋詰を越路と云う。
 話は横にそれたが大海人の皇子が天皇になられて建立された寺々がそれから後、国中戦争となり、敵に廻り味方となって軍兵の宿舎になり屯所に利用された為に、殆ど焼かれて無くなったらしい、100以上もあった天野の寺も、30近い日野の寺も運命はおなじであった。
 今ある寺はその後建てられたものらしいし、復興の出来ないままに地名として残っている処は彼方此方に、多くの跡をとどめている。
 例えば日外寺、寺田、名召、南光寺、大日田、古坊、坊垣内、瀑寺、庫坊、堂下、堂上、宮城、釈迦岳、堂山、焼森山、黒岩堂等が数えられる。
 なおこの他に庵、行者屋敷、塚堂も有名である。
 日野には国中戦争が激しくなった頃には寺より城が沢山できた、是も例をあげて見ると日野谷城、宮城、汐之山出城、松尾城、峰山出城、笹尾城、高良城、国見城、阿多庫城等がある。時代が違うのかも分からないが、此城地に縁のある地名も亦多く残っている。阿多庫城の下の坂を兵站坂、馬繁ノ段、杉谷、松尾城には北の台、打越、日野谷城には米通い坂、下々谷、駆下坂、笹尾城には一ノ坂、二ノ坂、届み坂、追待城、この他にも待ノ谷追駈谷等の地名は各所にもある。


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