|
銅鐸、意外な起源
朝日新聞2008/4/7より書き写しています。
弥生時代に登場し、時代の終わりと合わせるように姿を消す銅鐸には謎が多い。農業の祭りに使われたとされるが、なぜ使われなくなったのか、なぜ地中に埋められたのかもよく分からない。「いつ、どこで生まれたのか」も謎の一つだったが、意外な地に起源があるとする新たな仮説が登場した。
「ようやく見つかりましたが、全く予想しない場所でした」。国立歴史民族博物館教授の春成秀爾(考古学)が3月、定年退職記念の講演会で示したのは、石川県小松市の八日市地方遺跡で出土した木製の杵だった。弥生時代中期始めのもので、菱形の周囲に斜めの線を重ねた文様が刻まれている。もっとも古い時期の銅鐸に特有の文様と同じだという。
銅鐸は近畿から中国地方を中心に全国で約470個が確認されている。日本で独自に発展したことから、弥生時代の社会を考える手がかりとして重視されてきた。
もっとも古い時期の銅鐸は3点ある。2点は出土地が分かっているが制作した遺跡と時期は不明。歴博館長を努め銅鐸研究の第一人者だった故佐原真さんは、分布域の分析から「近畿中央部」で弥生時代前期末に誕生したと推定。一報、九州で中期後半に生まれたとする異説もあった。
木製の杵に
そうした考えや論争は04年に名古屋市の朝日遺跡で出土した3センチほどの石片により新しい段階を迎えた。放射性炭素測定で紀元前4世紀中〜後半、弥生中期始めのものとわかり、刻まれた文様から最古の銅鐸の鋳型と判断された。この遺跡で銅鐸が誕生したことを示唆するが、近畿から持ち込まれた可能性も否定できなかった。
佐原さんや春成さんらの研究で、銅鐸は中国の鈴が朝鮮半島を経由して伝わったらしいことが分かっている。中国でも朝鮮でも文様はないが、日本で作り始めると文様が現れる。この文様が、どこで銅鐸が生まれたかの鍵を握ると考え、春成さんはその系譜を探した。土器では見つからず、対象を広げ、見つけたのが小松の杵だった。時期も朝日遺跡の鋳型と一致した。
銅鐸を作る技術も材料も、日本にはなかった。この二つの遺跡の出土品から材料と技術を持った人が朝鮮から濃尾平野にやってきて、北陸の集団も関わり生み出した との仮説を春成さんは描き出した。「金属の音と光沢は特に近畿や山陰で人気を集め次第に近畿で作るようになったのでは」と西日本で多く見つかる理由を推測する。
この見解に、奈良文化財研究所の難波洋三・考古第一研究室長は「考古学者が悩んできた朝日遺跡の鋳型について初めて説明の付く仮説が登場した」と評価する。
独自の進化
銅鐸の源流とされる中国の鈴は人の腰や家畜の首に付けるものだった。朝鮮ではシャーマンが衣服につけたらしい。日本では、1メートルを超すまでに巨大化。江戸時代に茶の湯が盛んになると、花器などに転用し珍重された。戦後は、神話に変わる歴史の一ページとして弥生時代は注目され、銅鐸は教科書に欠かせない存在になった。時代より意味を変えながらも、銅鐸は人を引きつけてきた。
春成さんもその一人。育った兵庫県で多く見つかる銅鐸に導かれるようにして中学生の時に考古学を志した。それから半世紀余、銅鐸は常に研究テーマだった。「ある程度は解明された」と思っていたところに朝日遺跡の鋳型が登場した。「驚きましたが、銅鐸は近畿の文化だと思っていたら見えなかった像が浮かび上がってきました。謎はまだ多い。これからも追求を続けたいものです」と語った。
|