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(二) 5〜6世紀の南河内の耕地開発
池島・福万寺遺跡の位置を示しています。
大阪湾の初期の水田を示しています。左側が大阪湾で、弥生時代の初めには、生駒山の麓で、
石切の辺りに在って、そこまで水が来ていました。ここからも弥生時代の遺跡が出ています。瓜生堂遺跡・若江遺跡・山賀遺跡が在ります。南には長原遺跡などで弥生時代の早い時期に水田が開発されています。
大和川は生駒山地より流れ出た水を利用しました。当時の大和川は東北へ流れて恩智川の川筋に沿って大阪湾に注いでいました。川の低地に沿って遺跡が残っています。
八尾空港の付近に志紀遺跡が在ります。水田の遺跡跡が見られます。
池島・福万寺遺跡は、大阪府下でも1980年代以降から発掘が続き、現在も続いています。
水田面の地図を示します。20年前からの発掘が続いています。
恩智川の改修と遊水地の工事で続ける事が出来ています。
当時から開かれていた水田の面が広い範囲で弥生時代の水田が在ります。
静岡県の登呂遺跡の水田は特殊な例です。
最近の調査では、水田の「畦」が見られます。生駒山麓では東が高く、西が低くなっています。
高地を整理して、水田の開発が行われていました。
地図で黒く塗られていた物は、水路や土手で仕切られている所です。
左側の流路は白抜きで表示しています。東南から西北へ水が流れています。水を取る場所では、
水路の中に「堰」が造られています。人工的にどの様にして水を抜いたのかが判りました。
ここでは250mの範囲で水田が造られていました。この様な広範囲の水田は、ここだけです。
又福岡県板付遺跡は、福岡空港の近くに在って、飛行機からも見えます。初めに九州北部に稲作の技術が入ってきました。そこが最初の遺跡跡です。
南から北へ水路を設けて、堰が造られていました。排水溝から出た水を灌漑する工夫が見られます。
水路から井関を設けて、内側へ水を配る工夫が日本へ早くから入ってきたと思います。
勝山遺跡は薄墨色で書いてあるのが堤防です。東から西へ川が流れています。4世紀の古墳時代に始まっています。川幅は10mを超える物で、木材を合掌形に組んで、水を堰き止めて水位を上げて配水をしています。
わが国に入ってきた稲作の農法は灌漑用水に堰を設けて、水を取っていた事です。
中国・朝鮮半島で高い技術として完成していました。日本ではその結果高度の稲作が始まりました。
5〜6世紀に入ると、南河内での工事は、崇神・垂仁天皇と呼ばれる時代に始まっています。
河内・大和を中心に、池・溝が開かれていきました。内容は日本書紀・古事記に出ています。河内・大和に出来た池はその当時開発された事が出ています。
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