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上田墓地の開祖(行基碑)と畠山義深の墓
古墳文化が渡来する前は日本の葬法は死体は汚れた物として山野や海辺に捨て、死体の霊だけを先祖霊として崇祀した。
その後大陸より渡来し、上流の支配層が巨大な古墳を築造し、死体や記念物を尊重する気風が順次高まってきた。その後仏教では死者の霊は万億土に去り再び現世に戻ることはないとしながらも、その霊を供養するための供養塔を現世に設けた。これが現在の墓または祖形になった。
では上田墓地はいつ頃できたのか。天保十四年(1843)「河州錦部上田村明細帳」に次のように記録されている。・・・略・・・1,墓地壱ヶ所 村山方の内 上田村 喜多村 小塩村右三ヶ所 但し、非地里三軒家舗四畝六歩御余地 右の墓ハ天平年中(729〜748)行基開基也 實歴年中(1751〜1763)迄凡千年ニ及ぶ 行基松有之・・・略・・・とあり、この墓は歴史は奈良時代に遡る。僧である行基は東大寺大仏造営に大変協力し、その功績により大僧正に任ぜられた人で、奈良、河内を行き来していたという。行基は上田墓地のある場所(小字名を別所または三昧)に立ち寄り納経(お経を土に埋める)し、開基記念として松樹を植えたという。松の樹は現在六地蔵をお祀りしてある裏の小高い土盛りの場所に植えられ、納経の場所には宝筺印塔を建立(墓入り口正面石塔)した。行基松は明治初めまで存在したが、老樹のため枯れた。この行基松の横に室町時代越前、河内党を守護していた畠山義深(国清の弟)が守護職を息子基国に譲り、上田の小字七實庵に隠居した。その後49歳で此の地で他界した。上田の村人は義深の死を悼み、上田墓地の開基の場所(行基松の前)に埋葬し、五輪塔を建立した。
この墓石は現存していますが、石質が悪く風化のため、ほとんど当時の原形を留めておらず丸い石が三基重ねられている状況である。上田墓地はこの宝筺印塔及び畠山義深の五輪塔を中心にして、死者が順次葬られてきたが、一般村民が墓石を建て供養するようになったのは近になってからで、これ以前一般の石塔はない。近世以降一般の埋葬はこの石塔を取り巻くように一石五輪塔(五輪を象った小さな石塔)を立てるようになった。江戸時代に入って、上田村の有力者が上田墓地全体の霊を供養するため陸地蔵を畠山義深の墓石の前に寄進し、村人は先ず自分のご先祖の墓にお参りする前に行基の宝筺印塔を拝み、又義深の墓を拝むと同時に六地蔵にお詣りをした。昔から獣が墓を掘り起こしたりするため、埋葬した墓地の上に、い垣(竹を組んだ獣除けの墓囲い)を河内では置くことになっていたが上田墓地は行基及び義深さんが獣等より、いつ・・・。
つづきはいずれうpします。中途半端ですみません。
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