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江戸時代には太平記読みと言う職業が在ります。戦争が続く中で、書かれたもので、祈りの希望が在りました。そこには「判官びいき」の考えが在りました。
北条の大軍を引き付けて持ちこたえて、赤松氏などの決起を促して、倒幕が出来ると思っていました。
楠木正成は、勝たなくても、赤坂の城に引き付けて、守り抜けば良いと考えていました。
移動スーパー的な動きをしていました。
種や食料は、石川・大和川が東大阪付近で、長谷川 佐保川・初瀬川と使って船で運べました。聖徳太子の時代にこの辺には歓楽街が在りました。海拓榴市(つばいち)は桜井市金屋辺りに在りました。三輪山麓を流れる初瀬川流域の交通の要衝に在りました。
この辺りは昔の国道一号線に当たる「山辺の道」や飛鳥に続く「盤余(いわれ)道」、竹之内街道へ伸びる「横大道」、伊勢へ続く「初瀬街道」が集まっています。
仏教伝来の碑には552年百済王より、欽明天皇へ金銅仏像一体、若干の幡蓋(ばんがい)や経論が献上されています。
国道165号線を下ると名張平野に出ます。黒田の標識が在りますが、ここも東大寺の荘園が在ったところです。
楠木正成は、財産を貯えて、下・上赤坂城を築きました。
昨年は千早赤阪村の教育委員会で、二回の発掘調査が行われました。発掘されて出土した
資料は、千早赤阪村郷土資料館で保管されています。
北条軍が攻めてきた時の、城の塀の傍の18人が発狂したので正成が首を切っています。
「首切り場」が残されていました。
その後北条氏の滅亡が起きました。
講義録を作成してみて驚いたのは、向井先生は口から出任せの話をしており、裏づけの資料をホームページで調査した結果、色んな修正をして作成しました。こんな講演会は初めてでした。
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