高野街道記気まぐれ補足 別館

主に高野街道、河内長野付近を中心に書き込んでいます。こんな事を知っているといった方はご教示頂ければと思います

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2008年04月

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500年前の物と断定できるのは、戦国時代に入ると、共同窯の製作方式があったからで、窯の中に色んな製作者が製品を持ち込んで焼いていたのです。
七宝庵(しっぽうあん)と言う庵が在ります。畠山義深は河内の守護職を、息子基国に譲り、この「堂の辻」に庵を造りました。Tさんは「しっちょうあん」と読むように言われています。

この地で亡くなったので、地元の上田村の人は、彼の冥福を祈る為に、法名の増福寺殿を、寺号にしてお寺を造っています。

すいません。次から本題です。

私はふれあい考古館で、肥前の水甕の展示品を見に行きました。現在進行中の烏帽子台の工事で、昔マンションの計画が在りました。バブルがはじける前で、文化財のトレンチが行われました。白磁の土器の破片が出てきました。甲山一帯は遺跡の宝庫です。大阪スタジアムが過去此処にマンションの建築計画を持っていましたが、試作掘りで止めに成りました。

その後、私も土地の表面に何か無いか、土器の欠片を探して歩きました。あぜ道には、土器の欠片とかサヌカイトの破片が出土していました。当時の生活の痕跡の土器が在ると考えていました。甲山一帯で、口径70cmぐらいの水甕が口を開けていました。

多分下の池から、水を汲んで農業用水として使っていたと思います。大きな物は肥溜めとして残されていたのを四個確認しています。立派な土器では在りませんが、山の上にも残されていたので此処の在ったお城に関係が在る物ではと考えていましたが、造成の為にショベルカーで掘り起こしていました。この文化財の調査を河内長野市へ依頼していましたが、聞いていただけませんでした。動きが鈍いのが現状で、残念です。

最近も大きな水瓶が残されており、口径1mくらいで、肥前の焼き物でした。深さが1m以上でした。
それは10年前に発見された物で、Mさんの家の跡でした。表面にコールタールが塗られており、価値が分らず、割られた気配が見られ、700年前の須恵器の流を組む物と思いました。

表面に「村上」の様印が刻まれています。窯印が在るのは戦国時代以前の物と思われるのです。
私の考えでは、城の関係する甕には、一石・二石の大きな甕が出土しています。
池の周りのあぜ道にフエンスが張られて、入り口が出土した状態で埋められていました。

私も毎年、日生・伊部の駅前の備前焼物博物館へ出かけています。
そこで見たのが、500年前の室町時代の窯元の印が入った物が在りました。
そこで城に関する思いをレポートにして纏めていた物が在りました。たまたまT・Mさんと一緒に現物を確認に行きました。Tさんは地元町会で早速話していただけました。

持ち主のMさんの話が聞けました。父親が購入して、家の水甕に使用していた物で、その後畑に出して、水甕として使い、その後肥溜めに成ったそうです。
寄付の話が纏まり、市に供託する事に話が進みました。郷土資料館の入り口で展示されていましたが、肥溜めに使用していたので、匂いが強く現在は収蔵庫に保管されていて、三石入りの大きな物でした。金剛寺で保管されているのは二石入りの甕です。様印の残りが在る、貴重な物が保管できました。

その後、持ち主だと言うおばあちゃんが現れました。自分の家は畠山の家臣で、城を預かっていて、土地をMさんに譲ったと言う事で、所有権でもめましたが、たかが水甕にも歴史が出てくると凄い話と成ってしまいます。お宝だと分ると、初めて色んな話が広がる物です。


地元の方の話を聞いてもいろんな事が在ります。

(三)暮らしの中の信仰

○ 池尻村の氏神は、
牛頭天王社と呼ばれ、西池尻の集落内に在った。現在は、狭間神社として祀られて居ます。
境内には神宮寺である金蔵寺があったほか、融通念仏宗の極楽寺が在った。
又、狭山新宿の浄土宗報恩寺は、狭山藩とも所縁の深い寺院である。
善正寺は現在の狭山駅の南に在り、満願を遂げた西国三十三度行者が出家して、庵を寺とした所から始まります。田中家との関係が深かったが、現在は廃寺に成っている。

○ 狭間神社
江戸時代の池尻村の氏神として祀られていた牛頭天王社(狭間神社)はこの付近に在りました。
明治42年(1909年)に狭山神社に合祀されたが、再びこの地に祀られました。
境内には天和元年(1681年)に奉納された手水鉢などの古い石造物も在る。

○ 信仰と講
講とはある目的の為に集まる集団で、宗教的な講を始めとして、経済的な講や社会的な講に
分類が出来ます。
宗教的な講では、決まった日に祭りを行い、その後共同で飲食などを行う事が多い。
又、伊勢講などの様に、遠隔地へ参詣する物も有りました。講は一般的に増員する事は少なく、新規に参加する事は、難しかった。旧来の住民と新住民との間に軋轢が在る事も有りました。


高野街道を河内長野中心に紹介しています。
わいわいマップhttp://waiwai.map.yahoo.co.jp/map?mid=cuKZ1gfEm9xQIy5M3W1kNum.Tog9G5jnYy.c4Ncy17Y-高野街道記きまぐれ補足用地図
http://sakuratosiro.fc2web.com/koyakaidoukitop/framepage4.html高野街道記もご覧ください。

イメージ 1

(二)むらと水

ため池は灌漑範囲より高い場所に築かれている為、村の中ではなく隣接する村の中に造られる場合もあった。池尻村の田地は村内のため池と隣接する甘山村や半田村にあるため池とによって灌漑されていた。又、池尻村内には東野村などの下流の三か村を灌漑する大満池が有った。
ため池の多くは、谷筋を流れる水を堰き止めて造られる。その為堤防を高くして貯水量を増加させようとすると、池の上流側の田地も水につかる。そのため村境や隣村にあるため池では、しばしば境界争いが起こった。

○ 池尻村の用水
池尻村の地形は東池尻・西池尻集落の間の、狭山池中樋筋が通る低地と、東西の段丘に分類できる。標高の高い田地を灌漑するため池は、より上流に造られるために、池尻村の東を灌漑する新池・櫃池などのため池、村の中央を灌漑する口ばみ池や蓮池、西側を灌漑する西新池など、地形に応じてため池が築かれ、灌漑に利用された。

狭山藩の絵図が江戸時代の中頃作られて居ます。そこには洪水で池の土手が決壊して池が出来ました。「口ばみ池」と言われるもんのです。別名が「御庭池」とも言います。
東除川よりかさ上げして、水路が造られて居ます。

「蓮池」は水路がはっきりしない池です。水が湧いて造られて居ます。
狭山池に土砂が溜まってきた時は、はす池には、水が溜まらないと言われて居ます。

○ 川の利用
池尻村は狭山池の北に位置し、東西を東除川・西除川にはさまれて居ます。このような立地から、狭山池とは暮らしの様々な場面で関わりを持っていました。狭山池水下の村々は、番水を通じて西除川を利用していたが、池尻村は川を耕地として利用した。又製油の為に水車を設置するなど、多様な水利用をしていました。川に接する村ならではの利用方法があった。

○ 大満池と池尻村
大満池は池尻村の北辺に位置して、狭山池中ひの水を一旦貯水して、池の東北に在る牢樋から、中樋筋の村に配水される他、北野田村・南野田村・阿弥村三か村の用水地でも在った。
大満池も貯水量を増すと、上流側の池尻村田地が浸水する為、池尻村と三か村の間で、池の
貯水量を巡る論争が何度か起こった。




高野街道を河内長野中心に紹介しています。
わいわいマップhttp://waiwai.map.yahoo.co.jp/map?mid=cuKZ1gfEm9xQIy5M3W1kNum.Tog9G5jnYy.c4Ncy17Y-高野街道記きまぐれ補足用地図
http://sakuratosiro.fc2web.com/koyakaidoukitop/framepage4.html高野街道記もご覧ください。

イメージ 1

地図の写真を探したのですが見あたらなかったのでまんまを使います。
大阪府狭山池博物館の資料です。

○ 村の暮らし
江戸時代の村には二つの性格が有りました。支配の末端としての村と、人々の生活の名としての村が在ります。年貢は村を単位として集められて、領主に納められました。
年貢を一時保管するために、郷蔵が建てられていました。又村には共有地が在り、その土地の樹木の伐採には厳しい掟が有りました。

池尻村絵図
明治時代の物で、三つの池が書かれて居ます。東西の池尻が書かれて居ます。
狭山陣屋には、蓮池が書かれて居ます。陣屋の東側には大満池が在り、付近を電車が通って
居ます。新池もいくつか描かれて居ます。

北野田駅前付近には、擂鉢池・中池・すずめ池、池尻村の領域であるが、水を流す為に、土地の高い所に池を作って居ます。
その為に富田林村にも池を作って居ます。

洪水や旱魃の時には、税の免除がされていたのが詳しく書かれて居ます。
年貢の免除は、南河内狭山藩として書かれて居ます。
又年貢米を一時貯蔵する為に、池尻の田中家が有りました。
その上に不便で有るので、東池尻にも作るように要求が出されて、二年後に造られて居ます。

しかしその要求に対して、地味なものを造るように、請け書も出されていました。
又村で暮らす上では色んな共同作業が在ります。共有地の松林の下草刈りはしては成らない等、自分たちの決まりを庄屋へ提出して居ます。

火事や非常時の対策の取り決めは「地下定め」と言います。
忙しい時の手伝いや細かい事が取り決められました。
又家督相続では、分家を余りしないように制限して居ます。

正面の絵図は3m以上の絵図です。江戸時代半ばの「加太新田之図面」宝永6年(1709年)6月作成されて居ます。

中心は富田林市内が描かれて居ます。新池・八雲神社が描かれて居ます。
縮尺はめちゃくちゃですが、享保時代に新しく開発された新田の絵図です。
池尻村の東側に接している甘山村の新田開発して出来た物です。

開発は遅れていました。
五軒家の集落が描かれて居ます。ため池の様子が詳しく書かれて居ます。
「甘山村・池尻村領堺之江図」が残されて居ます。又関係の古文書では、甘山村・半田村に
囲まれていて、境界線で揉めていました。万治2年(1656年)に甘山村が池尻村に対して、
土地の境界を訴え出ていました。

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