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東高野街道を使って役人が行き来しました。紀見峠を「御坂(みさか)」と言うのは、官道の峠道に
名前が付けられてきました。国司が交代して行き来する時は、ここで送ったり迎えたりする最終の
場所でした。高野山が開かれても最初から不便無く、行き来が出来ました。
空海が出て高野山が修行・兼学の場として造られてから、平安末期の西方浄土の考えと相まって、貴人達の高野街道を使っての高野参詣が盛んに成りました。
「平安時代の高野参詣年表」が、堺西高等学校の堀内和明先生の努力で造られています。
鳥羽上皇南山遷幸(せんこう)
平治元年(1124年)10月の登山を最初にして、大治2年(1128年)10月後白河法皇や覚法親王
(高野御室)と一緒に、又長承元年(1132年)の都合三回高野山へ登山されています。
特に長承元年(1132年)には、河内路を使っています。
京都→鳥羽→天王寺→高野山へ7日間の往復でした。初めは大和道(東大寺のお参り)を使って
いました。河内道は下高野街道・中高野街道を使っています。記録が残されています。
京都を出て鳥羽からは、天王寺まで船を使っています。そこには淀川の水運を利用しています。
高野街道を河内長野中心に紹介しています。
わいわいマップhttp://waiwai.map.yahoo.co.jp/map?mid=cuKZ1gfEm9xQIy5M3W1kNum.Tog9G5jnYy.c4Ncy17Y-高野街道記きまぐれ補足用地図
http://sakuratosiro.fc2web.com/koyakaidoukitop/framepage4.html高野街道記もご覧ください。
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