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聖恵法親王
嘉保元年(1094年)〜保延3年2月11日(1137年3月4日)
平安時代後期の真言宗の僧、白河天皇の第五皇子
久安4年(1148年)河内・和泉道を使っています。6/10仁和寺→五条桂河(船)→窪津→松原庄
→岩瀬辺→慈尊院(政所)
片道2泊3日
藤原忠雅・忠親(左近中将)
保元3年(1158年)河内路を使う。9/26京都を出発して、草津・天王寺で泊まり、9/28大野口から
長野→政所まで歩いています。9/29高野山へ登り、9/30政所へ下っています。
10/1長野経由で江口→京都へ帰っています。
母の納骨を行っています。片道2泊3日です。
強行軍の行動ですが、貴族や上皇は歩かなくて駕籠や馬を使用したと思います。
鳥羽上皇などの参詣は、1000人規模の行列で、移動していました。しかし慈尊院からの町石道の
参詣では、歩いて登っています。そして木製の塔婆は建っているのを一つ一つ拝んで登った事が
記録されています。
上皇の参詣は、公家が付いて責任者と成っています。大勢の行列であり、先行の責任者が任命されて、宿や食事の準備をしました。食事の場所は、仮の御殿を作っています。その時の責任者は、
高野街道に荘園を持っている貴族が準備しています。
しかし熊野詣の時は大変であったと想像できます。
出発は桂川との合流点で鳥羽の津と言われています。城南宮(鳥羽離宮)で出発前に禊をする為に何日か泊まっています。
そして窪津(渡辺)今の天満橋付近に上陸して、住吉大社・四天王寺などを参拝しています。
西方浄土の考えが出来ていて、四天王寺の山門も西側(鳥居が海側に建てられています)に残されています。
長野神社付近は元の木場で、神社は木屋堂(こやどう)と呼ばれています。
付近は市場と言う小字名もあります。現在は河内長野市の市街地です。
岩瀬地区でも記録では、休息場所・宿泊場所として記録が残されています。
今年(11/3〜11/12)の「ぐるっとまちじゅう博物館2006」では、この付近の紹介をします。御所の辻・松明屋・地蔵寺・薬師寺などが在ります。
又弘法大師の伝説は、小塩・清水・松明屋などは、伝説が残されています。
弘法大師が歩かれている時、喉が乾いて水を頼んだが、快く飲ませてくれた所は(清水)では、清水が湧き、井戸もありますが、断った所(小塩)は水が出なくなりました。
政所から高野山の大門までは、一里毎に町石道が在って、石製の卒塔婆が建てられています。
政所は慈尊院と言われて、荘園を持ち高野山の管理をしていました。
ここを通るのが、2泊3日の高野山詣での基本ルートでした。
高野街道を河内長野中心に紹介しています。
わいわいマップhttp://waiwai.map.yahoo.co.jp/map?mid=cuKZ1gfEm9xQIy5M3W1kNum.Tog9G5jnYy.c4Ncy17Y-高野街道記きまぐれ補足用地図
http://sakuratosiro.fc2web.com/koyakaidoukitop/framepage4.html高野街道記もご覧ください。
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