高野街道記気まぐれ補足 別館

主に高野街道、河内長野付近を中心に書き込んでいます。こんな事を知っているといった方はご教示頂ければと思います

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

私は何時から河内長野に人々が定住して、生活活動が行われたかを考えると、難しい面が
在りますが、それは2000年前であると思います。
歴史を紐解く上では、埋蔵文化財を切り口にするか。文書を切り口にするか。観心寺などの有形文化財を切り口にするか。と言う事が在ります。

検討する切り口により色んな方法が考えられます。
全ての事を語るには難しい面が出てきます。
そこで本日の私は、埋蔵文化財の面から、話してみたいと思います。当地では弥生時代中期より、定住生活が始まったと考えて居ます。

 弥生時代(交易の中継地として発展)

河内長野を観ると、2000年前に村が出来、発展してきましたが、発展と衰退の時期を繰り返してきました。それは地形に関係していると思います。
弥生時代は水田耕作が始まり、定住生活が起きて居ます。然し河内長野は地形的に丘陵地帯で水田耕作には適した所では在りませんでした。

ご存知のように石川・天見川・加賀田川の河岸段丘が続いており、水田中心の耕作が出来る場所では在りませんでした。天見川と石見川の合流する地点で、石見川の右岸標高約130〜140mに掛けて位置して居ます。
地形的に特異な分野を持っていました。それは周囲の交通です。大和・和泉・紀伊に囲まれた河内長野は、交通の要所を占めており、流通が盛んに行われていた事です。

商工が盛んな時代は、人口が増加して栄えて居ます。農業中心の時代には衰退して居ます。
それは文書などの解析ではなく、埋蔵文化財を観ることで市の発展がわかります。
もう一つ大切な事は、河内長野市史が在ります。読めば詳しい歴史がわかりますが、市史の中には費用の関係で、新しく大きな埋蔵物の発見が追加されていない事です。

市史には未だ変更されていない話を中心に進めてみたいと考えます。
弥生時代に人間の定住が河内長野で始まったのは、今から2000年前の事です。
それ以前の旧石器時代の人が住んだ形跡は残されて居ます。河内長野では旧石器時代の遺跡も見付かって居ます。その後に続く縄文時代の遺跡も沢山出土して居ます。
縄文遺跡としては、塩谷遺跡・三日市遺跡・宮山遺跡・向野遺跡・喜多町遺跡・寺が池遺跡・菱子遺跡が在ります。

花の文化園の駐車場付近での、宮山遺跡では竪穴住居跡が見付かって居ます。それは一万年前の物で、狩猟採取しながら移動していましたので、何代も定住はしていません。
旧石器・縄文人が生活していたかと言う事が判りません。

私は農耕文化が伝わり、定住の後が世代を超えて、人が住んだという事が河内長野の先祖であると考えて居ます。
私が示している地図を見ていただくと、赤い丸印が付いた所が、転々と見られますが此処が遺跡の場所です。南海電鉄線路上・国道170号線に沿っている事が判ります。
特に河内長野駅前付近から南側に拡がって居ます。

その中で特に重要な物が、三日市北遺跡です。河内長野で始まった農耕社会の文化は、九州より伝わり、大阪府下では平野部で拡がってきた物です。年代は3000年前の事です。
当時は八尾遺跡が始まりに成った物です。

河内長野で定住が始まった村は、南海電鉄の三日市駅前に在る、今から2000年前に出来た、弥生時代中期の遺跡跡です。駅前再開発で試掘が行われて、30棟の竪穴式住居跡が出土して居ます。人口は100人から200人の規模でした。それは弥生時代でも大きなムラで在りました。

河内南部の中心的村でした。冷静に考えると不思議な話です。河内長野は段丘が多く、水稲栽培には向いていない土地でした。何故人間が定住したか、合点が行きませんでした。
駅前再開発は6年前に試掘が行われて、新たに2000年前のムラが発見されました。
当時の考古学の教科書では、河内長野には弥生時代のムラは無いと言われていました。

然し実現したムラには、田畑が周りには見付かっていません。生活が何によって行われたかが謎でした。それは地理的条件で、他の村との交流で生計が成り立っていました。
東大阪や和歌山との商業的な繋がりが在った事が、発掘調査で判明してきました。

写真で竪穴式住居の内容を見ていただきます。航空写真を見ていただくと、丸い窪みが見られると思います。弥生時代の竪穴式住居跡の写真です。
半地下式の家が点在して居ます。
発掘では、地面より下の部分のみが残されて居ます。円周内には、四箇所の柱跡が確認できます。中央部に在る穴には、灰や食べ物の後が残されていて、明り取りの穴が在った事が
判ります。

周囲の円周上には、排水溝が設けられていて、水が内部に入らないように工夫されていました。弥生時代の生活は、鉄が充分ではなく、石が中心でした。
稲を刈る石包丁や石の鏃が見つかって居ます。
共に河内長野では採れない石材です。詳しく調査すると、石包丁の石材は、紀ノ川流域で
採取される、緑泥片岩(結晶片岩)と言われる物で、材質は柔らかで、砥石で研いで包丁を作って居ます。これは製品状態で此処へ運ばれて居ます。
磨製土器と言われる物です。

もう一つは、石鏃(セきぞく)や石剣などの材料であるサヌカイトです。生駒山の二上山で採れて、結晶片岩とは逆の性質で、硬い物です。割って使用します。材質はガラスを割ったようなもので、打製石器と言います。二上山付近で採れて此処まで運んできて、加工して
居ます。

又三日市北遺跡を中心にして、お互いが交易で運ばれて居ます。
他に運ばれてきた物に土器が在ります。従来、弥生土器は自給自足と考えられてきましたが、この時代には流通が発達して、専門のムラで造られた物を購入していました。
特に東大阪の生駒山西麓に在った物が有名でした。チョコレート色をした土を使用しています。
三日市北村は裕福な村で、他の村から大量に購入していました。
多分土器を購入する費用は、物々交換で行われたと思います。
そこで弥生時代は、高度に発達した流通経済が行われていました。
三日市北遺跡が交通の要衝で発達したのが判りました。この事は、河内長野市史には書かれて居ません。
土器を大量に購入して、流通させていました。三日市北遺跡は、裕福なムラで、他のムラ
よりそのムラの既製品の土器を購入して居ます。
土器を購入する費用は、物々交換であったと考えられます。
その結果、弥生時代は流通経済が高度に発達していたと思われます。

三日市北遺跡が、交通の要所に造られて、発達したのが判ってきました。これらは市史には、記入されては居ません。現在当時の社会の研究が発達してきましたので、内容が判ってきました。


高野街道を河内長野中心に紹介しています。
わいわいマップhttp://waiwai.map.yahoo.co.jp/map?mid=cuKZ1gfEm9xQIy5M3W1kNum.Tog9G5jnYy.c4Ncy17Y-高野街道記きまぐれ補足用地図
http://sakuratosiro.fc2web.com/koyakaidoukitop/framepage4.html高野街道記もご覧ください。

全1ページ

[1]


.
kubira
kubira
女性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

過去の記事一覧

1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

標準グループ

検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事