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(三)古墳時代(古墳の継続的築造は見られない)
弥生時代の次は、古墳時代です。何処が違うかと言うと、古墳が造られた時代です。
古墳に葬られる人と、葬られない人の階級が出来てきました。
中央には大君・大王が住んでいて、地方には県知事・市長に相当する人が任命されていました。その下には一般の構成員が居た、階級階層が出来てきました。
古墳には、大王の墓と、今の市長に相当する権力者の墓が有りました。
各地には今の市制と同じように、各地に任命されていました。その一つが大師山古墳です。
羽曳野市の御旅所古墳、富田林市の真井古墳など首長墓が在ります。
一般の人の生活は、現在と弥生時代も余り変わりません。多くの人の人員の動員が掛けられて居ます。政府・政権の力で、一つの村では出来なかったような、開拓が行われて居ます。
現在の公共事業と同じような事です。
その結果河内長野市の新しい土地の開発が進んで居ます。それは三日市遺跡です。
天見川と石見川の丘陵地の開発です。
小塩遺跡・西浦遺跡・尾崎遺跡などです。これらは当時の政府の力で開発されたと考えられます。
古墳時代の地域の王様の墓が造られました。大師山古墳は前方後円墳です。
古墳時代は、前期(約1700年前頃)、中期(約1600年前頃)、後期(約1500年前頃)、終末期(約1400年前頃)と分けられます。
古墳時代前期の前方後円墳は全長が約50m.の大きさです。
地域の王様の墓としては、標準サイズです。もう少し上の県知事級の墓は、100m位在り
ました。それを首長墓と言います。
墓の中には、高野槙の木で棺が造られて居ます。その中には内行花文鏡・管玉や鍬形石・
車輪石などの石製品が入っていました。
現在のブレスレットは取り外しが出来ましたが、当時は外す事が出来ませんでした。
その為に、子供の時から首長に成る人は決められていたと考えられます。
内行花文鏡には、文様のある面と反射面が在りました。太陽の光を反射させて使用しました。
大師山古墳からの出土品の大半は東京の国立博物館に保管されて居ます。
古墳時代のムラの様子は、三日市遺跡が中心でした。
そこには弥生時代と違う点が在ります。
住居跡にも見られます。弥生時代の住居は、円形でしたが、古墳時代に入ると。方形に変わって居ます。そして、中央に在った炉が、端の方に移動して居ます。それまでは中央の炉を囲んで食事していましたが、古墳時代に入ると、食事の場所と寝る場所が区分されていきました。
古墳時代に入ると、河内長野では各地で開発が進みました。その結果河内長野が政府と深い繋がりの有る場所と成って居ます。
それが西浦遺跡・尾崎北遺跡です。出土現場では四角形に柱の跡が並んで居ます。そして、地中に埋められた物(竪穴式住居は半地下)ではなく、地上形の建物と成りました。
又古墳時代には全国的な規模で開発が増えてきました。
古墳時代の古墳の作製は前期では、地域の王権が限られていましたが(竪穴式石室)、後期に成ると各村で暮らし始めた豪族たちが、生活も裕福に成って、その人たちが古墳を造り始めました(安価に出来る横穴式石室)。
横穴式石室は、屋根の部分が壊されて、壁の部分のみ残されて居ます。入り口部に石が積まれていて、棺を入れて最後に入り口を塞いで居ます。
日本書紀・古事記にも、黄泉の国の話が神話として残されて居ます。洞窟の中に入ると言うことで古墳が造られました。
市内では三日市古墳群が見付かって居ます。近つ飛鳥付近でも沢山の古墳群が在ります。
出土品の中からは、立派な飾り太刀が出て居ます。
三日市遺跡で見付かった太刀は、関東で見付かった太刀と同じ物です。
多分河内長野に住んでいた首長は、大王の直属の人で、大王の工房で造られた物が、各ムラに贈られた物であると考えられます。
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