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中世 ―武士の活躍・商品経済の発達と共に発展―
古代と中世の違いは、中世には日本全国に私有地(荘園)が出来、貴族が出来てきました。鎌倉幕府に成ると武士の力が強くなります。最近では長屋王の貴族の生活が判ってきました。
平安時代には、田畑の経営が流通し始めました。それが貴族の中心と成り、企業の社長のような物です。
個人・地域が伸びてきて、焼き物の世界で良く判ります。
六古窯(常滑・瀬戸・信楽・丹波・備前・越前)が生まれました。
地域の地場産業が瀬戸物を競い合ってきました。
関西の窯跡が、備前・常滑に瀬戸物の生産を奪われて消えていきました。須恵村の大きな
窯跡も潰れていきました。
河内長野の中世を考える上で、高野街道が大きな意味を占めます。
平安時代には貴族が高野山へ参詣する為の道が出来てきました。
古代にはムラが造られて、道が続いていました。高野街道には遺跡が数多く在ります。
又金剛寺への巡礼街道沿いにも遺跡が集中して居ます。
街道沿いにはお宝が見られます。
向野遺跡は、東高野街道沿いの遺跡で、中国で焼かれた焼き物が出土して居ます。
浙江省や福建省龍泉窯で焼かれた陶磁器の青磁が見付かりました。
鉄を加工した遺跡も見付かって居ます。金持ちが、中国伝来の品物を持っていました。
河内長野の木屋堂の跡には、大きな町が在ったことがわかってきました。
河内長野駅前の丘陵地帯には墓が沢山存在していました。
有力者の墓だと思います。墓の中からは、中国からの伝来の白磁・青磁などが出ました。
又備前焼も出ていて、国内外の遠い場所で造られたものが出土して居ます。
又烏帽子形山の公園には山城の跡が在ります。学術調査を昨年から始めて、文化財ボランティアの皆さんにも参加してもらって居ます。
お城と言うと近世城郭を思いますが、ここは織豊時代以前の中世の城郭です。
山の上に堀を巡らしただけのものです。これを中世城郭と言います。
普通では観ることが出来ない貴重な険しい場所に造られた物です。日本の歴史の中でも完全に残された古いものです。
その中世城郭が市内の中心地に存在して居ます。堀の跡も完全に残されて居ます。
出土した遺物の中には、備前焼・美濃焼の茶道具が有りました。
三日市遺跡では、備前焼・常滑焼の甕が見付かって居ます。又中国の焼き物が混じっていました。
又三日市を南下して進むと、千早口駅周辺には、旧薬師寺遺跡が在ります。
そこでも国内外の焼き物が見付かって居ます。
どの遺跡からも見て、当時流通が盛んに行われて、遠くの場所から運ばれてきた事が判ります。
では大日寺遺跡をクローズアップしてみます。
河内長野駅前のノバティー長野北館付近から、石川・天見川の合流点一帯の南側の丘陵地帯に在りました。
河内長野駅前は既に昔から開けて、新しい発掘が出来ませんが、小字名を調べると沢山の木屋堂に関する物が在りました。
その場所に関係する物が出土して、範囲が想定できます。
長野神社は、江戸時代までは、木屋堂の宮と言われていました。
お祀りされているご神体は牛頭天王です。牛頭天王はインドの神様で、中国経由で日本に入ってきて、商業都市の守り神です。
京都の八坂神社も同じご神体です。都市であった機能が判ります。
南北朝の文書に書かれて居ます。H先生の研究で判ってきた事は、木屋堂は、河内長野での軍勢の集合場所でした。
昔の軍人は、普通は個人の家庭で農業を生業にしていて、一度行動が起きると、広い場所に集合して、隊列を組んで出発する必要が有りました。その時は誰でも知っている、広い場所が必要でした。
それでは河内長野がどの様な物で、栄えたかと言うと、河内木材の拠点で在ったという事です。現在は河内長野駅として、既に駅舎が建っており発掘が出来ません。
然し大日寺遺跡が南側に在ります。
その中心地は、平成12年下水ポンプ場の新設工事で発掘調査が行われました。
これも市史には未だ書かれていません。
そこには沢山の墓が出て居ます。四角な穴が掘られていて、棺が埋葬されていました。
埋葬には、屈葬(死者の手足を折り曲げた至勢で埋葬する)・伸展葬(体全体を伸ばしたままの埋葬)・火葬の三種類が在ります。墓の中から土器が出土して居ます。
その中には中国からの貿易陶磁が出て居ます。
中世の墓を掘るとお宝が出てきます。今回も木棺の回りに白磁の陶器でガードした物が出てきました。中には骨が入っていました。
高野街道を河内長野中心に紹介しています。
わいわいマップhttp://waiwai.map.yahoo.co.jp/map?mid=cuKZ1gfEm9xQIy5M3W1kNum.Tog9G5jnYy.c4Ncy17Y-高野街道記きまぐれ補足用地図
http://sakuratosiro.fc2web.com/koyakaidoukitop/framepage4.html高野街道記もご覧ください。
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