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中世の内乱による行政がらみの絵図・合戦の支配図を、説明していき
ます。
資料としては、南北朝期のものは在りません。
右下に「河州千早城之図」が在り、赤坂千早城の古い物で、堺市立博物館の所蔵です。
織豊期の物です。金剛山や篠嶺(葛城山)が描かれています。
城の配置では、上赤坂城には平野将監が詰めています。当時は悪党と書かれています。
これは新しい資料です。楠木の本城は、下赤坂城です。現在の赤坂中学校の付近です。楠木正成は詰めており、前城に当たります。横の神宮寺城・金胎寺城は、敵をかく乱させる為の城です。
龍泉寺は、当時は城として使われては居ませんでした。畠山内乱の時から城としての役目が、持た
されています。一方嶽山城は、孤立した城で、逃げ場が無い城でした。
南北朝の戦いでは、相手をその場から追い出すことで、無駄な戦死者は出していません。兵を温存してその力を借りて、支配する事が主な目的でした、烏帽子形城などでは、その様子が良く見て取られます。その後戦国時代に入ると、皆殺しの殺し合いが中心と成りました。
金胎寺城は観心寺領に成っています。赤坂城の奥城は国見城です。付近には枡形城・猫路山城が在ります。国見城の奥には楠石塔も在りました。
手前には神宮寺城が在りますが、神宮寺正房が詰めていました。八尾の方に村が在り、恩地家の
出身です。石川の東条の水越峠に在る、楠木一族の人です。
絵図では城跡は、凸の記号で描かれています。城の周りの樹木は伐採されており、山の表面には
何もありませんでした。建物に使う象形的な物を描いています。
城跡は竹やぶか、落葉樹の木が在るだけです。その後杉や檜が植林されました。
左側には城郭図を示しています。全国の城郭図が25年前に発見されて、その一枚に上赤坂城が
在りました。上赤坂城は金剛山の下に在って、二重の郭が残されています。地早赤坂村によって
4〜5年前に発掘が行われています。平野将監がこもって居ました。国見城まで続いています。
中間には高屋城図を上げています。古市にある町が東高野街道を取り込んで、城郭が造られて
います。広島市立中央図書館に保存されています。又大阪の個人の所有品にも見られます。
本丸は、応永年間に安閑天皇陵を取り込んで造られていました。東高野街道が城内を走って
います。
富田林寺内町経由で高野山へ続いている高野街道を取り込んで、右側には石川が描かれています。守護の畠山氏の居城として使われていました。現在は堀跡と土壁が少し残されているのみです。
入り口付近では、竹之内街道と東高野街道が交差しています。
同じような構造は、烏帽子形城が西高野街道を取り込んで、山の麓に曲げて街道が造られています。三日市町の町へ遠回りしています。そこには城と道の関係が在ります。
上には「将軍義稙(義材)河内ノ軍・明応二年(1493年)御陣ノ図」が在ります。大乗院尋尊が聞き
取りして描いています。門跡としてこの戦いに参加していました。福智院文書として二点の絵図が
残されています。
現地の合戦は、明応二年(1493年)2月に陣が張られて、6月まで戦いが続きました。その結果、
明応が戦国時代の始まりであると言われています。
左下には、正覚寺屋形と書かれた所に、将軍義材・畠山政長・尚順などが居ました。政長は敵対する基家討伐の為に、義材に河内親征を要請した。
又右中央部には古市・高屋城(誉田屋形)が描かれており、畠山基家が陣を張っていました。
基家は頼長の倅で、その下には大和の国衆が集まっていました。義材に不満を抱き始めた日野
富子や赤松正則を抱きこみ、京都でのクーデターが起こりました。細川氏が同僚の畠山政長を
攻め立てました。その結果、倅の尚順は紀州に逃げています。
堺北の庄には大内氏が陣を張り、和泉・堺南の庄には赤松氏が陣を張っています。
甲斐の庄の葛野口付近にも陣を張っています。観心寺付近は政長軍の本陣が在った所です。
基家軍が勝利したので、根来勢は逃げ帰っています。
当時の配陣の様子を描いた物で、有名な物です。細い線は道路で、右側には、大和川が描かれています。左右に走っているのは、小栗街道です。戦国時代の物です。
高野街道を河内長野中心に紹介しています。
わいわいマップhttp://waiwai.map.yahoo.co.jp/map?mid=cuKZ1gfEm9xQIy5M3W1kNum.Tog9G5jnYy.c4Ncy17Y-高野街道記きまぐれ補足用地図
http://sakuratosiro.fc2web.com/koyakaidoukitop/framepage4.html高野街道記もご覧ください。
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