|
近世・江戸時代以降の国絵図は江戸時代初期に出来ています。
慶長年間・正保年間・元禄年間・天保年間の四段階に分かれています。それは全国的な検地が
行われたものです。農民の生活が苦しくなり、土地開発が行われています。幕府が命じて検地を
行ってます。
村絵図郡絵図→国絵図の段階で造られています。中世は荘園が対象でしたが、江戸時代には
天下人として、領主が誰で在れ、国単位で年貢を決める為に行われてきました。
河内国では慶長年間の国絵図は残されていません。
慶長10年(1605年)の和泉四郡絵図です。
南葵文庫で造らせた物が東大図書館に残されています。紀州は徳川家の管轄です。
豊臣秀頼が片桐勝元に命じて105か村、石高13万石を調べて絵図にしています。郡絵図を造らせて、それから国絵図に合わせています。各村には石高が記録されています。
又この絵図は、差別用語の村名も書かれており、扱いが注意が要ります。
私は差別の厳しさを示す物として、当時の資料としては大切な物と思います。歴史を勉強する中では、必要を感じています。
例えば、信田(太)には、「カハた村(皮田村)」が書かれています。当時は南王寺村に含まれて
居ますが、一部差別されている地帯が在りました。
泉南地区にはこの他二箇所在り、近世以降に残されていました。被差別部落として地図に記入されています。彼らは馬・午の死体を処理する人達でした。皮の利用を目的として、なめし皮を造る場所を
一箇所に集めて管理していました。道の往来の激しい所に配置されていました。
豊臣政府が始めた、牛馬の皮を集めさせて生業としていました。当時の身分階級は、士・農・工・商・エタ・非人に順ですが、「エタ」の人は生涯差別されています。非人は這い上がる事が出来ました。
当時の実体を良く理解してください。
他には、「舞村」「志く村」「細工村」が鳳地区には在ります。地域の差別村で、大道芸人や宿の提供者が住んでいる所で、被差別部落とは違います。「細工村」は竹細工をして、土地が無いので、売り歩いて生計を立てる人達が住んでいました。
熊野街道沿いには、「取石宿(とりいし)」と言う中世の非人宿が在って、分解して独立していきました。非人宿(取石)が高石市に存在しています。歴史的な表現としては、非人宿を「賎民宿」と訂正しています。近世以降には村には成っていません。
絵図から読み取れるので注意してください。
|