高野街道記気まぐれ補足 別館

主に高野街道、河内長野付近を中心に書き込んでいます。こんな事を知っているといった方はご教示頂ければと思います

過去の投稿月別表示

[ リスト | 詳細 ]

2008年05月

← 2008年4月 | 2008年6月 →

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 次のページ ]

龍口明神

龍口明神
 滝畑レークパーク(勤労者のための野外活動の施設・雇用促進事業団の委託)下近くに「龍口明神」は鎮座し、そばの石碑は次のように記しています。
 「太古 滝畑は大きな湖であった そこで住吉明神と和泉大津の穴師明神がこれを河内に流さんか、それとも泉に切って落とそうかと論争にされた その時穴師明神は牛に乗ってこられたが住吉さまは馬で駆けつけられたので早く滝畑に到着し河内に流されたと伝えられいる さざ波を立てていた湖水は干上がって清水付近は広々とした田畑になったり作物が作れるようになった そこで清水の人々はこの御神徳に感謝し、現在のダムサイトに住吉さまをお祀りしたのがこの龍口明神である 毎年半夏生に家々からお重を持寄り この境内で御威徳をたたえてお祀りしてきたが今回ダムのため境内が水没するので昭和五十五年七月二日この処に勧請して懈怠なく例祭を続けている次第である」とあります。
 地形的にみても納得するものがあります。今年は雨が多くダムは満水状態(8月現在)になっていますが、雨量が少なく猛暑が続くとダム湖の岸辺は赤土をむき出し湖底をのぞかせ、昨年などは流入口付近は完全に伏流水となっていました。
 地球温暖化の進むなか何か気がかりで神頼みしたくなる気がします。

高野街道を河内長野中心に紹介しています。
わいわいマップhttp://waiwai.map.yahoo.co.jp/map?mid=cuKZ1gfEm9xQIy5M3W1kNum.Tog9G5jnYy.c4Ncy17Y-高野街道記きまぐれ補足用地図
http://sakuratosiro.fc2web.com/koyakaidoukitop/framepage4.html高野街道記もご覧ください。

中世 ―武士の活躍・商品経済の発達と共に発展―

古代と中世の違いは、中世には日本全国に私有地(荘園)が出来、貴族が出来てきました。鎌倉幕府に成ると武士の力が強くなります。最近では長屋王の貴族の生活が判ってきました。
平安時代には、田畑の経営が流通し始めました。それが貴族の中心と成り、企業の社長のような物です。

個人・地域が伸びてきて、焼き物の世界で良く判ります。
六古窯(常滑・瀬戸・信楽・丹波・備前・越前)が生まれました。
地域の地場産業が瀬戸物を競い合ってきました。

関西の窯跡が、備前・常滑に瀬戸物の生産を奪われて消えていきました。須恵村の大きな
窯跡も潰れていきました。
河内長野の中世を考える上で、高野街道が大きな意味を占めます。
平安時代には貴族が高野山へ参詣する為の道が出来てきました。

古代にはムラが造られて、道が続いていました。高野街道には遺跡が数多く在ります。
又金剛寺への巡礼街道沿いにも遺跡が集中して居ます。

街道沿いにはお宝が見られます。
向野遺跡は、東高野街道沿いの遺跡で、中国で焼かれた焼き物が出土して居ます。
浙江省や福建省龍泉窯で焼かれた陶磁器の青磁が見付かりました。
鉄を加工した遺跡も見付かって居ます。金持ちが、中国伝来の品物を持っていました。

河内長野の木屋堂の跡には、大きな町が在ったことがわかってきました。
河内長野駅前の丘陵地帯には墓が沢山存在していました。
有力者の墓だと思います。墓の中からは、中国からの伝来の白磁・青磁などが出ました。
又備前焼も出ていて、国内外の遠い場所で造られたものが出土して居ます。

又烏帽子形山の公園には山城の跡が在ります。学術調査を昨年から始めて、文化財ボランティアの皆さんにも参加してもらって居ます。
お城と言うと近世城郭を思いますが、ここは織豊時代以前の中世の城郭です。
山の上に堀を巡らしただけのものです。これを中世城郭と言います。

普通では観ることが出来ない貴重な険しい場所に造られた物です。日本の歴史の中でも完全に残された古いものです。
その中世城郭が市内の中心地に存在して居ます。堀の跡も完全に残されて居ます。
出土した遺物の中には、備前焼・美濃焼の茶道具が有りました。

三日市遺跡では、備前焼・常滑焼の甕が見付かって居ます。又中国の焼き物が混じっていました。
又三日市を南下して進むと、千早口駅周辺には、旧薬師寺遺跡が在ります。
そこでも国内外の焼き物が見付かって居ます。
どの遺跡からも見て、当時流通が盛んに行われて、遠くの場所から運ばれてきた事が判ります。

では大日寺遺跡をクローズアップしてみます。
河内長野駅前のノバティー長野北館付近から、石川・天見川の合流点一帯の南側の丘陵地帯に在りました。
河内長野駅前は既に昔から開けて、新しい発掘が出来ませんが、小字名を調べると沢山の木屋堂に関する物が在りました。

その場所に関係する物が出土して、範囲が想定できます。
長野神社は、江戸時代までは、木屋堂の宮と言われていました。
お祀りされているご神体は牛頭天王です。牛頭天王はインドの神様で、中国経由で日本に入ってきて、商業都市の守り神です。

京都の八坂神社も同じご神体です。都市であった機能が判ります。
南北朝の文書に書かれて居ます。H先生の研究で判ってきた事は、木屋堂は、河内長野での軍勢の集合場所でした。
昔の軍人は、普通は個人の家庭で農業を生業にしていて、一度行動が起きると、広い場所に集合して、隊列を組んで出発する必要が有りました。その時は誰でも知っている、広い場所が必要でした。

それでは河内長野がどの様な物で、栄えたかと言うと、河内木材の拠点で在ったという事です。現在は河内長野駅として、既に駅舎が建っており発掘が出来ません。
然し大日寺遺跡が南側に在ります。
その中心地は、平成12年下水ポンプ場の新設工事で発掘調査が行われました。
これも市史には未だ書かれていません。

そこには沢山の墓が出て居ます。四角な穴が掘られていて、棺が埋葬されていました。
埋葬には、屈葬(死者の手足を折り曲げた至勢で埋葬する)・伸展葬(体全体を伸ばしたままの埋葬)・火葬の三種類が在ります。墓の中から土器が出土して居ます。
その中には中国からの貿易陶磁が出て居ます。

中世の墓を掘るとお宝が出てきます。今回も木棺の回りに白磁の陶器でガードした物が出てきました。中には骨が入っていました。


高野街道を河内長野中心に紹介しています。
わいわいマップhttp://waiwai.map.yahoo.co.jp/map?mid=cuKZ1gfEm9xQIy5M3W1kNum.Tog9G5jnYy.c4Ncy17Y-高野街道記きまぐれ補足用地図
http://sakuratosiro.fc2web.com/koyakaidoukitop/framepage4.html高野街道記もご覧ください。

(四)古代(奈良時代・平安時代前半)

河内長野には有力な王が居たと思われます。多分政府の役人の中でも功績が在った人であると思います。

高向遺跡では、国費留学をして、出世した人の名前が残って居ます。高向玄理(たかむくのくろまろ)と言う人で、聖徳太子の時代の人です。
遣隋使に混じって中国へ渡り、法律と政治を学んで帰り、国博士と言う地位まで昇りました。
伝承の地である遺跡跡では、大きな建物の跡が出土して居ます。後の大化改新の時、内政と外交で大きな役割を果たしてきました。

奈良時代に入ると、租庸調の税制が取られ始めますが、河内長野はその時代より衰退が始まります。政府は共産主義と同じように、国が企画を統一して行き、地場産業が育ちませんでした。
人間も激減して、人が住んでいた形跡が無く、富田林の一部として、錦部郡の中心と成り
ました。古代寺院は河内長野には在りません。富田林には真土廃寺が在りました。

農業を中心に考える中でも判ります。
中世の河内長野は、又復活が見られます。鎌倉・室町時代を中心に言われて居ます。
それは平安時代後半からといわれる人も居られます。
そこでは武士が活躍した時代です。



高野街道を河内長野中心に紹介しています。
わいわいマップhttp://waiwai.map.yahoo.co.jp/map?mid=cuKZ1gfEm9xQIy5M3W1kNum.Tog9G5jnYy.c4Ncy17Y-高野街道記きまぐれ補足用地図
http://sakuratosiro.fc2web.com/koyakaidoukitop/framepage4.html高野街道記もご覧ください。

(三)古墳時代(古墳の継続的築造は見られない)

弥生時代の次は、古墳時代です。何処が違うかと言うと、古墳が造られた時代です。
古墳に葬られる人と、葬られない人の階級が出来てきました。
中央には大君・大王が住んでいて、地方には県知事・市長に相当する人が任命されていました。その下には一般の構成員が居た、階級階層が出来てきました。

古墳には、大王の墓と、今の市長に相当する権力者の墓が有りました。
各地には今の市制と同じように、各地に任命されていました。その一つが大師山古墳です。
羽曳野市の御旅所古墳、富田林市の真井古墳など首長墓が在ります。

一般の人の生活は、現在と弥生時代も余り変わりません。多くの人の人員の動員が掛けられて居ます。政府・政権の力で、一つの村では出来なかったような、開拓が行われて居ます。
現在の公共事業と同じような事です。

その結果河内長野市の新しい土地の開発が進んで居ます。それは三日市遺跡です。
天見川と石見川の丘陵地の開発です。
小塩遺跡・西浦遺跡・尾崎遺跡などです。これらは当時の政府の力で開発されたと考えられます。

古墳時代の地域の王様の墓が造られました。大師山古墳は前方後円墳です。
古墳時代は、前期(約1700年前頃)、中期(約1600年前頃)、後期(約1500年前頃)、終末期(約1400年前頃)と分けられます。

古墳時代前期の前方後円墳は全長が約50m.の大きさです。
地域の王様の墓としては、標準サイズです。もう少し上の県知事級の墓は、100m位在り
ました。それを首長墓と言います。

墓の中には、高野槙の木で棺が造られて居ます。その中には内行花文鏡・管玉や鍬形石・
車輪石などの石製品が入っていました。
現在のブレスレットは取り外しが出来ましたが、当時は外す事が出来ませんでした。
その為に、子供の時から首長に成る人は決められていたと考えられます。

内行花文鏡には、文様のある面と反射面が在りました。太陽の光を反射させて使用しました。
大師山古墳からの出土品の大半は東京の国立博物館に保管されて居ます。
古墳時代のムラの様子は、三日市遺跡が中心でした。
そこには弥生時代と違う点が在ります。
住居跡にも見られます。弥生時代の住居は、円形でしたが、古墳時代に入ると。方形に変わって居ます。そして、中央に在った炉が、端の方に移動して居ます。それまでは中央の炉を囲んで食事していましたが、古墳時代に入ると、食事の場所と寝る場所が区分されていきました。

古墳時代に入ると、河内長野では各地で開発が進みました。その結果河内長野が政府と深い繋がりの有る場所と成って居ます。
それが西浦遺跡・尾崎北遺跡です。出土現場では四角形に柱の跡が並んで居ます。そして、地中に埋められた物(竪穴式住居は半地下)ではなく、地上形の建物と成りました。
又古墳時代には全国的な規模で開発が増えてきました。

古墳時代の古墳の作製は前期では、地域の王権が限られていましたが(竪穴式石室)、後期に成ると各村で暮らし始めた豪族たちが、生活も裕福に成って、その人たちが古墳を造り始めました(安価に出来る横穴式石室)。

横穴式石室は、屋根の部分が壊されて、壁の部分のみ残されて居ます。入り口部に石が積まれていて、棺を入れて最後に入り口を塞いで居ます。
日本書紀・古事記にも、黄泉の国の話が神話として残されて居ます。洞窟の中に入ると言うことで古墳が造られました。

市内では三日市古墳群が見付かって居ます。近つ飛鳥付近でも沢山の古墳群が在ります。
出土品の中からは、立派な飾り太刀が出て居ます。
三日市遺跡で見付かった太刀は、関東で見付かった太刀と同じ物です。
多分河内長野に住んでいた首長は、大王の直属の人で、大王の工房で造られた物が、各ムラに贈られた物であると考えられます。

私は何時から河内長野に人々が定住して、生活活動が行われたかを考えると、難しい面が
在りますが、それは2000年前であると思います。
歴史を紐解く上では、埋蔵文化財を切り口にするか。文書を切り口にするか。観心寺などの有形文化財を切り口にするか。と言う事が在ります。

検討する切り口により色んな方法が考えられます。
全ての事を語るには難しい面が出てきます。
そこで本日の私は、埋蔵文化財の面から、話してみたいと思います。当地では弥生時代中期より、定住生活が始まったと考えて居ます。

 弥生時代(交易の中継地として発展)

河内長野を観ると、2000年前に村が出来、発展してきましたが、発展と衰退の時期を繰り返してきました。それは地形に関係していると思います。
弥生時代は水田耕作が始まり、定住生活が起きて居ます。然し河内長野は地形的に丘陵地帯で水田耕作には適した所では在りませんでした。

ご存知のように石川・天見川・加賀田川の河岸段丘が続いており、水田中心の耕作が出来る場所では在りませんでした。天見川と石見川の合流する地点で、石見川の右岸標高約130〜140mに掛けて位置して居ます。
地形的に特異な分野を持っていました。それは周囲の交通です。大和・和泉・紀伊に囲まれた河内長野は、交通の要所を占めており、流通が盛んに行われていた事です。

商工が盛んな時代は、人口が増加して栄えて居ます。農業中心の時代には衰退して居ます。
それは文書などの解析ではなく、埋蔵文化財を観ることで市の発展がわかります。
もう一つ大切な事は、河内長野市史が在ります。読めば詳しい歴史がわかりますが、市史の中には費用の関係で、新しく大きな埋蔵物の発見が追加されていない事です。

市史には未だ変更されていない話を中心に進めてみたいと考えます。
弥生時代に人間の定住が河内長野で始まったのは、今から2000年前の事です。
それ以前の旧石器時代の人が住んだ形跡は残されて居ます。河内長野では旧石器時代の遺跡も見付かって居ます。その後に続く縄文時代の遺跡も沢山出土して居ます。
縄文遺跡としては、塩谷遺跡・三日市遺跡・宮山遺跡・向野遺跡・喜多町遺跡・寺が池遺跡・菱子遺跡が在ります。

花の文化園の駐車場付近での、宮山遺跡では竪穴住居跡が見付かって居ます。それは一万年前の物で、狩猟採取しながら移動していましたので、何代も定住はしていません。
旧石器・縄文人が生活していたかと言う事が判りません。

私は農耕文化が伝わり、定住の後が世代を超えて、人が住んだという事が河内長野の先祖であると考えて居ます。
私が示している地図を見ていただくと、赤い丸印が付いた所が、転々と見られますが此処が遺跡の場所です。南海電鉄線路上・国道170号線に沿っている事が判ります。
特に河内長野駅前付近から南側に拡がって居ます。

その中で特に重要な物が、三日市北遺跡です。河内長野で始まった農耕社会の文化は、九州より伝わり、大阪府下では平野部で拡がってきた物です。年代は3000年前の事です。
当時は八尾遺跡が始まりに成った物です。

河内長野で定住が始まった村は、南海電鉄の三日市駅前に在る、今から2000年前に出来た、弥生時代中期の遺跡跡です。駅前再開発で試掘が行われて、30棟の竪穴式住居跡が出土して居ます。人口は100人から200人の規模でした。それは弥生時代でも大きなムラで在りました。

河内南部の中心的村でした。冷静に考えると不思議な話です。河内長野は段丘が多く、水稲栽培には向いていない土地でした。何故人間が定住したか、合点が行きませんでした。
駅前再開発は6年前に試掘が行われて、新たに2000年前のムラが発見されました。
当時の考古学の教科書では、河内長野には弥生時代のムラは無いと言われていました。

然し実現したムラには、田畑が周りには見付かっていません。生活が何によって行われたかが謎でした。それは地理的条件で、他の村との交流で生計が成り立っていました。
東大阪や和歌山との商業的な繋がりが在った事が、発掘調査で判明してきました。

写真で竪穴式住居の内容を見ていただきます。航空写真を見ていただくと、丸い窪みが見られると思います。弥生時代の竪穴式住居跡の写真です。
半地下式の家が点在して居ます。
発掘では、地面より下の部分のみが残されて居ます。円周内には、四箇所の柱跡が確認できます。中央部に在る穴には、灰や食べ物の後が残されていて、明り取りの穴が在った事が
判ります。

周囲の円周上には、排水溝が設けられていて、水が内部に入らないように工夫されていました。弥生時代の生活は、鉄が充分ではなく、石が中心でした。
稲を刈る石包丁や石の鏃が見つかって居ます。
共に河内長野では採れない石材です。詳しく調査すると、石包丁の石材は、紀ノ川流域で
採取される、緑泥片岩(結晶片岩)と言われる物で、材質は柔らかで、砥石で研いで包丁を作って居ます。これは製品状態で此処へ運ばれて居ます。
磨製土器と言われる物です。

もう一つは、石鏃(セきぞく)や石剣などの材料であるサヌカイトです。生駒山の二上山で採れて、結晶片岩とは逆の性質で、硬い物です。割って使用します。材質はガラスを割ったようなもので、打製石器と言います。二上山付近で採れて此処まで運んできて、加工して
居ます。

又三日市北遺跡を中心にして、お互いが交易で運ばれて居ます。
他に運ばれてきた物に土器が在ります。従来、弥生土器は自給自足と考えられてきましたが、この時代には流通が発達して、専門のムラで造られた物を購入していました。
特に東大阪の生駒山西麓に在った物が有名でした。チョコレート色をした土を使用しています。
三日市北村は裕福な村で、他の村から大量に購入していました。
多分土器を購入する費用は、物々交換で行われたと思います。
そこで弥生時代は、高度に発達した流通経済が行われていました。
三日市北遺跡が交通の要衝で発達したのが判りました。この事は、河内長野市史には書かれて居ません。
土器を大量に購入して、流通させていました。三日市北遺跡は、裕福なムラで、他のムラ
よりそのムラの既製品の土器を購入して居ます。
土器を購入する費用は、物々交換であったと考えられます。
その結果、弥生時代は流通経済が高度に発達していたと思われます。

三日市北遺跡が、交通の要所に造られて、発達したのが判ってきました。これらは市史には、記入されては居ません。現在当時の社会の研究が発達してきましたので、内容が判ってきました。


高野街道を河内長野中心に紹介しています。
わいわいマップhttp://waiwai.map.yahoo.co.jp/map?mid=cuKZ1gfEm9xQIy5M3W1kNum.Tog9G5jnYy.c4Ncy17Y-高野街道記きまぐれ補足用地図
http://sakuratosiro.fc2web.com/koyakaidoukitop/framepage4.html高野街道記もご覧ください。

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 次のページ ]


.
kubira
kubira
女性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

過去の記事一覧

1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

標準グループ

検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事