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月輪寺跡と十三仏板碑
流谷集落の奥に薬師堂があります。これが「月輪寺跡」といわれる所で現在集会所が建ち、その前の小堂に「十三仏」が祀られています。
地元で「ガチリン寺」と呼ばれる当寺は、由緒等は不明ですが、野作薬師寺に「河州にしき平流谷村月輪寺什物 寛政六甲寅七月 世話人」と刻された鰐口が軒に懸けられてあり、寛政六年(1794)には存在したことは明らかです。 また、小堂の「十三仏板碑」は、三つに割れた状態で道端に放置されていましたが、平成六年(1994)修復され小堂に納められました。
高さ約88cm、幅約335cm、厚さ約7cmの花崗岩の正面に十三仏像が浮彫されており、側面に「承応二年(1653)十月十五日」の記念銘と20人の信者名が刻されています。が、風化や損傷があって判読できない部分もあります。
しかし、その中に「テロウ」「シタニ」とキリスト教の洗礼名らしい片仮名の名があり、40数年ほど前拓本をとったときは驚きました。
承応二年は徳川家康が慶長十七年(1621)キリスト禁教令を発してから41年後にあたり、当地でも教徒ががいたあかしで、キリシタン迫害をのがれるため仏教との改名にまじって建てた供養塔と思われます。
ちなみに当市のキリスト教信仰は烏帽子形城主であった甲斐庄正治が信者であったことはしられており、城内には約200人の信者がいたとされ、更に月輪寺より移された遺物の中にキリシタンに関連するとみられるものが郷土研究会の元会長故澤田源太郎氏により発見されています。(野作薬師寺)いうなれば当地はキリスト教との結びつきはかなりあったとみられ、山深い立地もその要因になったかも知れません。
[註]十三仏
十三仏は、初七日から三十三回忌までの13回の追善供養のときに、不動明王、釈迦如来、文殊・普賢・地蔵・弥勒菩薩、薬師如来、観音・勢至菩薩、阿弥陀・阿?・大日如来、虚空蔵菩薩を順次拝む信仰で、生前に死後の冥福を祈る逆修供養のために仏画や石碑などに造られました。
起原は平安時代、承安元年(1171)ごろともいわれ、一般には南北朝時代に行われだしたとのことです。
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