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又元弘の話に戻ります。
文永の役(1274年10月)の後、弘安の役(1281年7月)が起きます。
前の戦に懲りて元軍は、主力部隊を江南より選択しました。景徳鎮の陶磁器を、輸出する港が有る
地方です。日本軍は再度神風で勝ちました。
亀山天皇は敵国調伏の激を香椎の宮に納めて居ます。
江戸時代には「太平記読み」と呼ばれる講釈師で、現在の講談師の走りが在りました。
辻々に「今日は正成出ず」と張り紙が出ていたようです。それは、「正成が今日の話には出ます」との張り紙でした。その時は、講釈場は満員と成りました。
NHKの大河ドラマでは、「太平記」が有名です。
スタッフは、足利尊氏は真田広之、後醍醐天皇は片岡孝夫、楠木正成は武田鉄矢、北畠親房は
近藤正臣、北畠顕家は後藤久美子などでした。
北畠顕家は足利軍と戦いました。父親は北畠親房です。親房は公家と武士を兼ねていましたが、武士に対しては、苛めて居ます。彼の墓は、賀名生の皇居跡である、堀家の近くに墳墓が残されて居ます。後醍醐天皇が逃げて行った所です。彼もまた吉野で亡くなって居ます。
塔尾陵が残されていて、「玉骨ハ喩ヒ南山ノ苔ニ埋マルトモ、魂魄ハ常ニ北闕ノ天ヲ望マン」と遺言したと伝えられている。
後醍醐天皇は、何を望んでいたのか考えた。私は出来るかどうかの判断が出来ず、思い込みが強かった人であると思います。
後醍醐天皇は、96代の天皇(1318年〜1339年)です。60代の醍醐天皇(延喜の治)、62代の村上天皇(天暦の治)と言う、昔の天皇親政の理想の政治形態に心を動かされて、始められたと思いますが、60代から96代への、世の中が大幅に変わっている中で、武士が力を
付けてきているのに気が付かなかったと思います。
後鳥羽上皇は、武士が力を持ってきた中で「承久の乱」を起こして居ます。
天皇親政の乱は、始めは関東の武士団をビビラセル効果は在りましたが、北条政子が立ち
上がり、「幕府以前、貴族朝廷の時代は、武士たちは悲惨な生活を強いられた」と、頼朝公のお陰であると、激を飛ばして居ます。
中心に成る人が居て、軸が出来ると武士団は、一斉に立ち上がり、京都へ進軍しました。
その結果、朝廷側は敗退して、幕府は後鳥羽天皇を廃位した。
後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ、土御門上皇は土佐へ流されました。
三人共に流刑地で亡くなって居ます。
高野街道を河内長野中心に紹介しています。
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