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河内長野市では、一昨年市史の編纂作業が終了しました。後は年表と索引が残っています。
最初から長い年月が過ぎてしまいました。人の変化も合ってやっと終わった状態と成りました。
その間には色んな事が起きて、考える期間も持てました。
河内長野市を振り返ってみている時です。編纂の事業は5名の先生方とやってきました。
私は昭和4年(1929年)の生まれで、若いときから参加してきました。
年月を経て70代の後半に差し掛かっています。河内長野市にはご迷惑を掛けてきました。
5人で市史の編纂を行うのは、非常に少ない人であると思います。
市史を造る上でどの様に見ているかと言うと、他の市史を見る時、全ての項目で何が知りたいかと
言う事で、目的が表示される事が必要であると考えます。
現在の市史を見る中で、村の名前が書かれているかです。どの様な村が存在していたのか知る上では、人口の問題が在ります。
近世以前では、人口の資料は残されていませんが、明治以降ではないことは在りません。
その中で案外多い人口の問題は、子供の事が判らない事が在ります。
小学校が幾つ在って、生徒が何人いたかが判りません。
どうしてその様な事が起きるかと言うと、編集事業に携わる人が多いからです。
基本的には乗せる必要が在ると考えます。村の住民たちは知っている事です。
人口の推移は知らなくては成らないが、河内長野市の場合は、5人で焦点にずれが出ている事です。土地勘に秀でている人の集まりであれば良いが、月一回の会合では、土地勘を得る事が大切で在った。時間が掛かったのは、初期の計画から遅れた事でした。
河内長野市は大阪市外域でも面積が広い所でした。明治時代には84ヶ村在り、近世段階で見ると39ヶ村が在りました。39ヶ村を知る事は、村の名前と立地条件を知る必要が在ります。
一番最後に出たのは、明治以降では20年代に統合されて村が減っています。
私の仕事は、夫々が分担して、仕事をしてきましたが、幾つかの市史編纂に携わってきました。
河内長野市は大阪府下では最も文書が残っていませんでした。それは役場の物が無くなった、
結果です。村の方々の協力で所有者の文書を見せてもらいました。
河内長野市の場合は、個人の文書が良く残されています。三日市村では大阪府下では、最も多く
残されていました。長野村では町村合併で、文書は残されていませんでした。
文書は一度失えば帰ってきません。現在では市史編纂室で保管されています。
例えば、文化財としては指定される物は、仏像・絵画などで、文書が文化財として指定される事は
在りません。
従来文書類は文化財とは考えられて居ません。全体のレベルから言うとたくさん残されているので
制度として、何か保存の方法を考えて、引き継いで欲しいと考えています。
市史の編纂では、文書を読んで記録すべきですが、文書の読み方に個人差が出てきます。
その為に、理解の仕方が違う事も在り、その後の世代で、市史の中身も違う観点で検討が出来ると
思います。他の町村でも比べても、長く文化財として残して欲しいと思います。
今後若い世代の研究家が、新しい理解の仕方で、新しい見方が出てくると思います。
市史の中で文書が文化財の重要な位置を占めてくると思います。
時代が変わり、人が変わり、理解の仕方も変わってくると思います。
高野街道を河内長野中心に紹介しています。
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