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先ず明治時代の人口の推移を見てください。注として下段に書いてある事は、後日に若い人が市史を検討される時の資料として、出展先を書いています。後で調査の資料と成ります。
当時は40数ヶ所の村が存在しています。明治22年の村の人口です。
書かれている村の順番は、市史編纂の中で相談して決めた結果です。順番は一番うるさい問題で
した。統計資料では、一定の法則が決められており、揉め事を防止しています。
書かれた中には「大字」と言う言い方が在りました。
明治の人口の推移の中で判る事は、明治8年の資料では、持ち家・借家の区別が行われて居る事です。統計では「大字」の人口は、詳しくは判りませんでした。
長野村の場合は、持ち家64軒、借家44軒です。全体の40%です。他の地区では多くありません。
他には三日市村が、持ち家70軒、借家79軒で全体の52%で特出しています。
持ち家・借家の比率の高いのは、長野・三日市で、生活のあり方が判ってきます。三日市や長野では町場化が進んでいたものと考えられます。
この事は、高野街道の道筋である事です。上田村も同じ事です。
長野村は東・西高野街道が合流していました。街道筋で、長野村は交通の要所でした。特に三日市村には宿場が造られていました。
西代村と長野村の境は「七つ辻」が在りました。東西南北に辻が造られて、人の往来が盛んであった事が判ります。
三日市村の場合は、明治8年の資料で、人口151人(持ち家72軒、借家79軒)の宿場でした。
当時は堺から7里、高野山へ紀見峠の宿へ3里の距離でした。当時は7〜8里が一日の移動距離でした。旅籠・木賃宿が多く、人の往来が激しかった事が判ります。
幕末に成ると、人の往来は、高野山からの帰りが、紀見峠を通らず、和泉山脈の麓で、紀ノ川沿いを通る四国への道が開かれていきました。
三日市宿の人口は、宝暦年間(1751年〜1761年)には215軒在りましたが、嘉永年間(1848年〜
1853年)には115軒と成っています。明治8年(1875年)には151軒でした。
大幅に減少している事が判っていただけたと思います。
家数の中では、旅籠や人足相手の仕事が多かったようです。
後に三日市村は明治以降増加しています。明治22年1902人。明治30年2036人。明治43年2339人。大正4年2395人です。宿場時代には三日市宿だけでは宿駅の義務で在る、人・馬(各25人・匹)の手配が出来なかったので、上田村が1/3を負担してきました。
河内長野郷土史研究会の副会長の松本弘さんが、市史にも色んな資料を提供して頂いていますが、「三日市村の明治事始め」と言う企画で、旅籠を地図に落とす作業を始めておられます。
三日市宿には、北から油屋・魚屋・・菊屋綿屋・鍋屋・紀州屋・米屋・片屋が街道を挟んで、並んで
いました。上田の宿にも北から、人形屋・車屋・金屋・小塩屋・中屋・松屋・五条屋・古手屋などが
在り、良い仕事をされていると思います。
安政3年美作津山藩城主松平氏が高野山詣での時、宿泊された記録が残されています。
地図に過去の町場を残す事は素晴らしい事であると考えます。
河内長野市の場合は、七つ辻や東西の高野街道の合流点である事など、高野街道沿いの町場化が進んだ記録を、残す事が大切な事であると思います。
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