高野街道記気まぐれ補足 別館

主に高野街道、河内長野付近を中心に書き込んでいます。こんな事を知っているといった方はご教示頂ければと思います

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観光の概念には変化が在る。明治時代に入ると、何処の市域に人が集まったかと言うと、大きな変化は三日市村です。三日市村が大きく変化する中で、錦渓温泉が在ります。
錦渓温泉と錦渓温泉油屋は、別に考える必要が在ります。
そこには、長野遊園と温泉との関係が難しかった様です。

新聞の資料を見て、明らかに成りました。大阪朝日新聞で発見しました。
錦渓温泉の、油屋に付いては、近世の段階から、高野山への参詣の御用宿として、人が集まって
来ていました。絵が残されています。近世の油屋と明治の油屋を混合しているようです。
明治時代以降旅館の経営が一変しています。

三日市村は明治時代に大幅に変わりました。明治23年三日市村の隣の小塩(風呂谷)に鉱泉が
湧き出ました。油屋の主人が竹筒で引いてきていました。鉱泉で赤みを帯びた物でした。
当時の朝日新聞には、烏帽子形山麓から出泉した。大阪で調査したら鉱泉と判った。無色・無臭で塩味を帯びています。沸騰させるとアルカリ性に成ります。

大阪の高橋病院での調査では、呼吸器系・皮膚病・泌尿器系に効果が在ると回答されています。
明治23年以降油屋が大きく変わりました。
それは錦渓温泉の名前を使い始めました。山科宮が高野山参詣からの帰りに立ち寄られて、命名されています。南河内には温泉がたくさん在ります。大阪朝日が報道して客が集まってきました。

河内長野では当時「蛍」「松茸」が特産でした。
電車は柏原までしかなく、そこから富田林を通って、人力車で河内長野へ入っていました。
温泉としては、後に高野鉄道が直結して、更にサービス料金を造り、河内長野へ人を運びました。
観心寺・楠公首塚・金剛寺・光滝寺を観光ポイントとしました。

南海線は大正3年南へ延びました。新しい建物が造られました。明治41年6月の朝日新聞には、油屋の紹介記事が「三日市は寂々揚々たる寒村であった」で在りました。
個数は300人の村と成り、当時の中心であった富田林を凌駕したと書かれています。
明治8年の150人と比べても倍増しています。錦渓温泉が地域に力を与えました。

古野に極楽寺が在り、温泉が在りました。元々極楽寺の温泉は、温泉寺として、有名で在りました。
病を治すために人々が入湯に来ていました。
明治30年代に極楽寺温泉は、大阪に宣伝されて、大阪・堺で広告が打たれました。
明治末には富田林よりの鉄道と高野山登山鉄道の開通で、人が多くなりました。双方が集客に力を入れました。
現在極楽寺には、当時の面影が残されています。寺の山門を西へ行くと、南海高野線の越線橋の
そばに、「三笑橋」の石碑が在ります。藤沢南岳の石碑です。明治末に温泉が開かれた時、渡辺霞亭・藤沢南学などの文学者がよく来ています。
大阪の方から文人が来ています。中国の盧山の虎渓に、良く似た風景でありそれで作られていました。裏側の幼稚園の墓地の中に渡辺霞亭の碑が在ります。



高野街道を河内長野中心に紹介しています。
わいわいマップhttp://waiwai.map.yahoo.co.jp/map?mid=cuKZ1gfEm9xQIy5M3W1kNum.Tog9G5jnYy.c4Ncy17Y-高野街道記きまぐれ補足用地図
http://sakuratosiro.fc2web.com/koyakaidoukitop/framepage4.html高野街道記もご覧ください。

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