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三笑橋の由来 河内長野郷土を知ろう会 「ふるさとの碑・石仏 第1集」を使用させて頂きました。
中国の故事で、恵遠法師が51歳の時、盧山に登り、宗教教団を造り、阿弥陀如来を祀りました。以来30年間山を一切出ず、俗を捨てると誓いました。所が友人の陶淵明・陸修静とで酒宴をして、帰る二人を送って行った時、話題が尽きず知らぬ間に、虎渓を超えて、しばらくしてその事に気づいて、互いに笑い会ったと言う故事です。
三笑橋命名の由来は、寺からの風景が虎渓似ているからだと言われるが、南岳の長女が健康回復を願って極楽寺に預けられていた時、後日、住職と南岳、娘の三人が笑って話し合えるようにとの願いが込められての命名との事です。
長野地域には、大阪の人が気を持った事に、色々な温泉が在りました。もう一つ早く注目された物に、長野遊園が在ります。市史の編纂では規模が判りませんでした。
明治44年の長野遊園地の図と言うものを見ていただきます。黄金塚・行者岩・諸越橋や箸塚などと松月亭などの旅館が書かれて居ます。長野停車場を中心に、二箇所の入り口を示しています。
又明治41年5月26日の「朝日新聞」には高野山鉄道の社長初め、官民200名を招待して開園された。長野駅東手の小丘3万坪(諸越長者の邸宅跡)を利用して人工的な公園の開園を紹介しています。
当時は京阪神鉄道会社が、遊園地を造ると言う政策が行われていました。その中で新しい経営者の登場で、阪神電鉄に対応して、高野鉄道も同じ考えが持たれていました。
その中では地元の受け入れが在ったと思われます。新聞記事を読むと、地元遊園地期成同盟が作られています。地元は色んな事で協力しています。
有志の寄付金で、施設が準備されて、運営は鉄道会社が行う構図でした。それらは後日長野遊園保障会と成っています。入り口はステーションを挟んで、左側に諸越橋を渡って、鳴滝を経由して箸塚を見て山頂へ出ます。右側は黄金橋を渡り上ると山頂には松月亭などの旅館が在り、広場に出ます。当時の遊園地の全景です。
箸塚に付いては、伝説が残されています。諸越長者の屋敷跡に造られており、河内長野の歴史を調べる上で忘れてはならない物です。
調べられたのは日野小学校の先生で、今道万蔵と言う方で、明治元年の生まれで、30歳で亡くなった方です。河内長野市域の伝説は、全て先生が纏めて残されています。
高野街道を河内長野中心に紹介しています。
わいわいマップhttp://waiwai.map.yahoo.co.jp/map?mid=cuKZ1gfEm9xQIy5M3W1kNum.Tog9G5jnYy.c4Ncy17Y-高野街道記きまぐれ補足用地図
http://sakuratosiro.fc2web.com/koyakaidoukitop/framepage4.html高野街道記もご覧ください。
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