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諸越長者伝説 「高野街道」 河内長野市郷土研究会編を使用させて頂きました。
昔、この川の辺に諸越長者と言う四辺に比びなき富豪が住んでいました。毎日のように住吉浜より
鯛や海産物を積んだ船が、大和川・石川・西條川を遡って、邸前に着くというように、栄耀栄華の限りを尽くしていたが、贅沢にも飽きた長者は「自分は財産はあり余るほど在るが、跡継ぎも無く、家計も衣食住万端まかせ、外出する時も乗り物ばかりで、土を踏んだ事が無く、貧しい人のように、一部屋に寄り添って団欒する事も無い。
飽食暖衣に飽きた自分は、どうすれば貧民と同じような楽しみを味わえる事が出来るか」と合う人毎に話して来た所、ある日訪ねて来た旅の僧が、「貧しい人に成りたければ、毎朝一家の食箸を場所を
一定に定めて、邸外に捨てるようにせよ。その捨て箸が大きな塚をなす頃には、そなたの望みは叶えられるであろう」と告げた。旅の僧は空海でした。
この教えを守った長者が捨てた箸は、十数年後には大塚と成り、僧の言葉通り、長者は無一文に
成り、住む邸も無く、衣食もままならない身と成った。歩いた事の無い体では、土に立って働く力も
無く、他人の門口に憐れを乞う事も恥ずかしくしてならず、夫婦は元の邸の裏山でついに餓死して
しまいました、と言う。今でも河内長野公園の北端に箸塚と呼ばれる所が在ります。
伝説が何処から出たのか判らなかったのですが、先生の話に出ていました。絵図の左下に極楽寺
温泉が書かれて居ます。温泉と遊園地が目玉として売り出されています。
又「忠義能魁 楠氏遺跡録」と言うものが、地元の松蔭堂で刊行されています。
学者先生が書かれた物ではなく、今の言葉で言うと観光案内所の類です。紹介されているのは33箇所の遺跡です。遺跡の紹介の中で、一部楠木正行の四条畷の話は別として、大部分は南河内の
遺跡です。楠公の顕彰が明治30年代から始まりましたが、本格的に成ったのは日露戦争が行われた頃からです。
楠氏紀勝会の会長は、当時の大阪府知事でした。そこで編纂された「楠氏遺蹟志」と比較しても、
違いが在りました。
「忠義能魁 楠氏遺跡録」は一地元の方が書かれた観光案内書です。
楠公の遺跡の他に、隋所に特産物などが書かれています。
天野山金剛寺は天野松茸・境内は桜・楓の名所、観心寺は梅林・桜・ 杜鵑(とけん)・紅葉の名所
鳴滝城跡一帯は蕨・松茸の産地烏帽子形の城跡山下の川岸は大蛍・杜鵑(とけん)の名所として紹介されています。
杜鵑(とけん)とはホトトギスの事です。又「さつき」をさす場合も在ります。
楠氏の遺蹟の他に、天野の松茸やかえでなどの名所とか、梅・ホトトギスなどの自然の風景の紹介がされています。人々に受ける話は、生活に結びついた物であると考えます。
他には広告が沢山書かれています。食堂・旅館などです。今では私は旅館が何処に存在したか
復元できないか考えています。
特に旅館桐徳(長野町天野街道境筋東筋)が何所であったかが判りませんが、天野街道や境筋に興味が在ります。旅館の復元が出来れば、今まで見えなかった街道や町場の復元と成ります。
明治44年「長野付近名勝旧跡案内図」が造られています。松蔭堂から出版されています。
地元の方の長野の名所旧跡を考える意識が読み取られます。
内容を大別すると、旧跡(鳴滝城址・大楠公首塚墓など)9箇所、宮跡・御陵(後村上天皇陵・敏達
天皇観月亭)2箇所、名勝(滝谷不動・予通大師など)20箇所、温泉(汐ノ宮温泉・錦水温泉など
7箇所が出ています。
明治時代の名所・旧跡として創られています。今の段階では忘れられている物が在ります。
旧跡の9箇所の多くが楠木氏関係ですが、楠木正行の時代の物です。
○ 火伏大日寺:場所不明
○ 紅葉滝:観心寺の山中で四筋の滝が在って、松月亭の出張所が出来ていた。
温泉は地面より鉱泉が出た所に旅館が経営されていた。
汐ノ宮温泉・長野温泉は鉱泉でした。三日市温泉は天見川より噴出して、ラドン温泉です。
名勝の中でも、腰上神社(嬉村)に存在したと書かれていますが、富田林市史にも抜けています。
明治5年の段階では、歩道が在って、直った人が絵馬を奉納した事が残されており、腰痛い人の為の神様で在ったようです。
長野の集客は明治末からです。大阪からの関係で、人の集まる遊園地の計画が出来ました。
郊外に日露戦争の最中に温泉掘削が始まっています。
堺市大浜の潮湯などです。
明治40年代の関西では、宝塚温泉(明治20年)、鳴尾百花園(明治38年)、箕面動物園が明治43年開園、玉手山遊園地が明治41年、香里園が明治43年(→移転して枚方遊園地が大正元年)、
新世界ルナパーク(明治45年)、淡輪遊園(明治44年)、浜寺海水浴場(明治39年)など
多くが開設されています。明治40年代のこの様な事が起こったのかと言うと、当時大阪では人口が1171千人と成りました。
レクレーションの要求が起きています。
初期の段階では、大阪市内の三大遊園が在りました。難波:眺望閣(明治21年)八角形の五層の楼閣でした。北野:紫雲閣(明治22年)九層の建物で高さ39m。今宮:商業倶楽部(明治22年)洋館五階建てなどが出来ました。
周辺部で発生した物が、西成区などに追加されて、郊外都市へ広がっていきました。その結果郊外のレクレーションの気風が出来てきました。
長野の場合は、史跡と伝説が多くて、複合の観光地として、突出しています。
大正期から昭和初期に掛けての動きであるが、現在は何もされて居ないので、戦後の期にどのような努力が行われたか考えて欲しいと思います。
高野街道を河内長野中心に紹介しています。
わいわいマップhttp://waiwai.map.yahoo.co.jp/map?mid=cuKZ1gfEm9xQIy5M3W1kNum.Tog9G5jnYy.c4Ncy17Y-高野街道記きまぐれ補足用地図
http://sakuratosiro.fc2web.com/koyakaidoukitop/framepage4.html高野街道記もご覧ください。
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