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(二) 金剛寺多宝塔は八条院の「墳墓堂」
八条院は、保延3年(1137年)生まれて、建暦元年(1211年)亡くなって居ます。
即日仁和寺に葬られて居ますが、一旦埋葬した物を掘り出して火葬にして居ます。
その時の骨と思われる物が、昭和14年(1939年)の多宝塔の解体修理の時、確認されて居ます。
土釜埋納遺構ではなく、壷に入った骨が出て居ます。
金剛寺の多宝塔は最古の物ですが、修理が多くされており、慶長・元禄・昭和と行われて、古いものが残っていませんので、文化財としては原型を留めていないといわれて居ます。
塔の下のところに、アカバラ(漆喰で塗り固められた所)地下2mの所から出てきました。
このお寺は、八条院の墳墓堂で在ると思います。
当時は天皇家の墳墓として使われていました。
堀川天皇は28歳で亡くなりましたが、遺骨が三重の石塔に入れられて居ます。
当時は古墳の形式の土饅頭が造られて居ます。
又白河上皇が76歳で亡くなり、金銅製の壷に入れて、京都の地下鉄竹田駅近くの安楽寿院の境内に埋めて在り、三重塔が在ります。それは天皇陵で在ります。
安楽寿院の南にそびえる木造の多宝塔(豊臣秀頼の再建)が近衛天皇陵で、その西側の法華堂が鳥羽天皇陵、新油小路通を挟んで西側の森が白河天皇陵です。白河・鳥羽天皇陵は、元々は三重塔が建てられていました。
上西門院は生前に火葬にして、花園東稜(法金剛院の奥)に葬られてる様に準備して居ます。
当時の風習では、高貴な人の血に繋がる人は、火葬にして葬られて居ます。
その結果、金剛寺多宝塔の遺骨は、金剛寺に関係している人の分骨であると思われますが、記録は残されていません。
中国の様に墓誌が在ればはっきりしますが、日本ではその記録が在りません。
状況証拠や風習から判断の必要が在ります。
反対に仁和寺には何も在りません。
河内長野市・大阪府が申請すると、皇室の管理と成りますが、現在では手配がされていません。
例えば一休純宋(一休禅師)という人は、酬恩庵(しゅうおんあん)には墓が在り、宮内庁が堂の中で管理して居ます。そして皇統譜(天皇の系譜)に記入されて保管されます。
金剛寺は八条院との繋がりが深い所です。
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