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(三) 女院女房による「院主職」相伝
女房は、天皇に使える女官です。紫式部は、中宮彰子の女房、 清少納言は、中宮定子の女房でした。金剛寺は三宝院伽藍が在ります。御影堂・五仏堂・薬師堂など一段高い伽藍が造られて居ます。ここの主として、院主が居られました。
阿観が初代で、多くの弟子の中から、大弐局の浄覚が継ぎました。その後二年で妹である覚阿
(六条局)が継ぎました。三人とも八条院に仕えてきました。
四代目は、浄阿と言い姪に当たります。朱雀局でした。更に五大目は、悟入も姪で、中納言局でした。ここまでの五代は女院女房が続きました。
しかし、ここは尼寺では在りません。四人の女房が、ここで住み着いていれば、尼寺と成っていたと
思われます。
(四) 女人の金剛寺住山とその制限
覚阿はここで住もうと努力したが、お寺の坊さんたちと争ったが負けました。
お寺の方では、一番のトップは、学頭と言い、左学頭(正)・右学頭(權)でした。
初代は覚心と言い,阿観の弟子の中でトップの人でした。院主が勝手な事をしたので、激しい争いが起きましたが、仁和寺の判断で退けられました。
その為に院主は寺の外(京都)に住んだので、寺外院主と言われて居ます。
女性院主は五代目で終わり、六代目からは門跡寺院の興福寺から出て居ます。
大乗院門跡と言われます。
鎌倉時代まで寺外院主が居ました。近世に成ると座主と言われるように成りました。
高野山のトップは「検校」です。法印検校と言います。本来は金剛峰寺の「座主」が兼務されて居ます。東寺のトップは、「長者」と言われます。
代々女院が続いて、女房の血縁関係が続きました。
又家柄は、俊盛・長房・李能と親子三代が八条院の別当として勤めました。
浄覚・覚阿は、顕盛の子供ではないかと思われます。
長実の家柄がここでも続いて居ます。
その中で、中世の前半まで、庶民の信仰が有ったかについて
一般庶民のお寺参りは、室町時代以降である。
鎌倉時代前期の「金剛寺掟法」は仁和寺の所蔵として残されて居ます。
法律として残されています。その結果牢屋も残されて居ます。
衆議評定を持って判定している。その中には一山寺院として、治外法権が在りました。
内容を観ると面白い
(1)女人住山、三日を過ぐべからざる事
女人宿泊の条件としては、御影堂参籠、親子の病気、或いは病気治療、或いは仏事参籠、この事に付いては何日泊まっても良いが、例え親子一族でも、四日以上住む事は出来ません。
この掟を叛いた者は、裁判で判定すると、決められています。
このような掟が沢山残されて居ます。穏やかな雰囲気で、尼寺でない事が判ります。
(2)牛馬狼藉を停止すめき事
牛や馬の放し飼いで、下里地区では狼藉が無いように飼育してください。
房中とは、塔中の事で、そこに乱入した場合は、一日風呂焚きを命じて居ます。
温室とは、サウナ風呂のことです。どのお寺にも在ったようです。
(3)山内より村々に触れが出されて居ます。
材木・竹・薪などを出荷してはいけません。勝手に販売したら、米二升を罰金として支払います。
(4)陀羅尼倦怠の事
毎月20日陀羅尼経を読む事を怠けると、清酒ならば二瓶子、濁り酒ならば四瓶子の支払いを決めて居ます。
当時清酒が出ていた事が判ります。天福2年(1234年)の事です。
10世紀の記録の延喜式にも「清酒」が出て居ます。
罰金としてお酒を出す事が珍しい書き方です。
鎌倉時代の比較を観ると、一瓶子と言うのは、5合〜7合に相当します。
清酒が濁り酒の倍との評価を考えると、鎌倉時代では、清酒一瓶子が、濁り酒五瓶〜七瓶子
に相当していました。
風呂焚きやお金や、酒が罰金として示されている事は、都市としての機能がされていた事を示して
おり、豊かな産物が生産されていたと思います。
等など、建暦元年(1211年)と天福2年(1234年)の金剛寺定書き写しが、残されて居ます。
高野街道を河内長野中心に紹介しています。
わいわいマップhttp://waiwai.map.yahoo.co.jp/map?mid=cuKZ1gfEm9xQIy5M3W1kNum.Tog9G5jnYy.c4Ncy17Y-高野街道記きまぐれ補足用地図
http://sakuratosiro.fc2web.com/koyakaidoukitop/framepage4.html高野街道記もご覧ください。
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