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(四) 重厳上人と片桐且元の改修
鎌倉・室町時代に入ると重厳上人が出てきて改修が行われました。
建仁2年(1202年)石棺で樋管を改修しました。堤の高さは10.2mまで大きく成りました。
今年は重厳上人の没後800年と言う事で、奈良国立博物館で5/28まで「大勧進 重厳」の展覧会が行われました。狭山池博物館からも重厳の改修碑が出展されました。
平成の改修で、北堤の護岸工事に使われていた石碑は発見されました。
重厳上人も社会事業に貢献されていました。石碑には行基菩薩の徳をたたえて、改修工事を行った事が刻まれています。
特に東大寺の南大門の作成と、国宝の運慶・快慶の仁王像を奉納しています。
山口県から関西へ掛けての大きな工事を行われています。
重厳の改修碑から判った事は、改修工事の仕事内容が克明に刻まれていました。
「謹んで三世十万の諸仏・菩薩に申し上げます」に始まり、「狭山池はその昔行基菩薩が64歳の時、天平3年辛の歳に初めて堤を築き、樋を伏せました。しかし年月を経る内に、崩れてしまいました。」
「ここに摂津・河内・和泉の狭山池下流にあって恩恵を受けるのは、50余りの郷の人々の要請により、建仁二年の年の春より修復を計画した。」
「2月7日初めて土を掘り、4月8日に初めて石樋を伏せ、4月24日に工事を終えました。」
とか書かれていました。
その後、壊れて石碑も捨てられて、護岸工事の材料として使われていました。
工事は2月の水が不要なときから計画して、4月に完了して、5月の田植えの時期には完了させていた突貫工事でした。特に摂津・河内・和泉の三箇村からの要請で、沢山の人を集めた事が判ります。
又50余りの村に水が配られていた事が判ります。
平成の発掘で判った事は、石棺のリサイクルで護岸工事の中に石碑が発見されました。
書かれた内容から、木管が石棺に変えられた事です。
「良く坊さんが石棺を使用して罰が当たらないのか」と言う質問です。
本来は墓を暴いたのでは無く、当時の古墳群を農業用地に、開発したとき出土したものが流用されたと思われ、再利用できるものは使うと言う考えが在ったと思います。
片桐且元は、近江の国の生まれで、豊臣秀吉に使えた。関が原の戦いでは秀頼を助け、徳川家康との調整役でした。狭山池とは、河川流域に水を配る重要な拠点であり、高級官僚が関わってきました。
木製枠工
取水塔の西側から出土していますが、慶長13年(1608年)改修時に造られたと思われるが、樋を
伏せる時の、オープンカットされた部分の補修に使われたと考えられます。一部地震との関係も充分
考慮する必要が在ると思われます。又、伏見大地震は1596年に起きていて、狭山池の堤にも、地震の跡が残されています。
それだけ狭山池は、農業用水としての役目を持っていました。
現在は農業用水としてのみならず、治水ダムとしての役割を持っています。
水を多く溜める為に、平成の改修は行われました。又底の泥を排出しています。
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