高野街道記気まぐれ補足 別館

主に高野街道、河内長野付近を中心に書き込んでいます。こんな事を知っているといった方はご教示頂ければと思います

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大王家の基盤は、奈良盆地に在ったと言う説が、少なくはありません。
奈良盆地の南側に5世紀の古墳の小さな物が在ります。西南部の葛城一帯です。
大和政権の基盤である、大和東南部には、大・中の物が少なく、私は近藤先生の説は、成り
立たないと考えます。

古墳は何処に造ったかと言うと、原理原則的には、古代人も我々も、お墓はその人の生まれ
故郷に造るのが普通です。その人の本拠地に造るのが大原則です。

紀小弓宿弥(きのおゆみのすくね)は、朝鮮半島で亡くなっています。
雄略天皇の時、高句麗が新羅を攻めた時、新羅の要求で援軍したが、新羅が約束の貢物を
贈って来なかったので、紀氏・曽我氏を派遣した。紀氏はそこで病死しています。それは日本書紀に出ていまが、海外から遺骸を運び、生活圏である淡輪に墓を造っています。
淡輪には2基の大きな古墳が在ります。5世紀の大豪族の墓です。

和泉・西稜は、200m級で、又淡輪・ニサンザイは、これも200m級です。多分この辺を支配した紀氏の墓と考えられます。かって紀氏が本拠地としたのは、紀伊国で紀伊の南部に勢力を持っていました。

基本的には、古墳時代の人々は、豪族の本拠地に墓を営んでいます。大阪平野にも、大阪平野南部・南河内の勢力が、大王の権力を握ったと思います。
王朝の変更ではなく、各地の首長の連合体で政権が運営されていて、畿内の政治勢力の連合体で、盟主が交替した物だと思います。

これは4世紀時代、奈良盆地の勢力が、大阪平野部の勢力と、政権の交代をした結果だと思い
ます。古市古墳群の成立は、南河内の政権が、大王の地位に付いたと考えるのが妥当であると思います。

それに関連して、大和王権は、日本列島の中でも畿内の大王権を握っていました。
大和王権の地域的な基盤は、古代時代での考えが畿内地域を指すのだと考えられます。
しかしこの考えは、資料を基にきっちりした研究を進めた物では在りません。
私は大王権の基盤は、大和川水系を考えています。
資料2の左上の「畿内における大型の分布」を見て頂くと、100m級以上の古墳は、古市古墳群・、百舌鳥古墳群、佐紀古墳群、東の大和・柳本古墳群、西の馬見古墳群と五箇所を数えます。
淀川水系には、三島野古墳群のみです。
古市古墳群には5基・百舌鳥古墳群には3基・佐紀古墳群7基・大和柳本古墳群6基・馬見古墳群5基の200m級の大王の墓が在ります。大和と河内では合計18基の古墳が在ります。

これに含めて奈良盆地には、20基の古墳が点在しています。
河内から和泉に掛けて11基在ります。200m以上の古墳が31基の多くを数えます。
所がこれに対して、北の淀川水系には、三島野古墳群の中に継体天皇稜といわれる1基のみである。

数で比べると大和川水系には、31基、淀川水系には、摂津・山城で1基しか在りません。
これは古墳期前期初頭より見られます。



高野街道を河内長野中心に紹介しています。
わいわいマップhttp://waiwai.map.yahoo.co.jp/map?mid=cuKZ1gfEm9xQIy5M3W1kNum.Tog9G5jnYy.c4Ncy17Y-高野街道記きまぐれ補足用地図
http://sakuratosiro.fc2web.com/koyakaidoukitop/framepage4.html高野街道記もご覧ください。

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