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大王を支える豪族も、大和と河内です。
表2「相嘗社の分布」では、国家的祭祀の新嘗の祭りを行なっています。
新嘗の祭りは、新しく収穫したお米を、食べる儀式です。収穫感謝祭です。
又相嘗の祭りは、新嘗の祭りの直前に行なわれる儀式です。
新嘗社の分布を見て頂くと、延喜式に見られる、平安時代の資料が在ります。本来は令集解
「釋云」に見られる大宝律令の規定で、7世紀〜8世紀に行なわれています。
天皇が神様と一緒に食事する行事は、山城:なし・大和:9社・河内:1社・摂津、住吉:
2社・紀伊:4社が在ります。
畿内では、相嘗めの祀りに預かるのは、大和:9社・河内:2社である。
淀川の北には、1社も在りません。直木孝次郎先生は、河内と大和であると考えられています。
その結果、文献資料では、大和王権は、畿内ではなく、大和と河内であると示しています。
大和政権の中で、権力が移ったと見られます。
大阪平野部に大王墓が現れるのは、4世紀に突然出現したのでは在りません。
資料1の「畿内における大型古墳の編年表」によると、前期初頭、河内には無く、4世紀に入り玉手山古墳群が出来ます。又松岳山古墳が、南河内に出来、百舌鳥古墳群に乳の岡古墳が出来ました。
その後有力な古墳は、4世紀〜5世紀に成ると大王墓の古墳が出来ます。
資料3には「柏原市南部における古墳・古墳群・寺院跡の分布」を示しています。
河内長野市から流れ込む石川と奈良盆地から流れる大和川の合流点に、古市古墳群が在ります。
東側には玉手山古墳群があり、現在は開発されています。
そこには前期の前方後円墳が在ります。一号墳は100mの規模です。
安福寺と言うお寺で出土した、割り竹石棺は、讃岐石で造られていました。木棺から石棺へ
前期二段目の4世紀初頭の物と考えられます。
三代に渡り、大きな墓が造られて来ました。
松岳山古墳は150m級の物で、埴輪が古い時代の物です。一部副葬品を調べて、前期の終わりと思われます。
4世紀には玉手山古墳群の1・3・7号墳と言う物が、続けて造られています。
4世紀の時点では、南河内の勢力が大きく成ってきています。
その後大きな力を握って、造られていくように成ったと考えています。
奈良盆地に根拠を持つ大王家が、墓だけを移したのではなく、河内の勢力が支配してきた結果です。当時東南アジアの情勢でも大きな変化が起きています。
朝鮮半島では、騎馬民族が南下すると言う、大きな移動が起こっています。
その結果、新羅・百済は、国家存亡の危機を迎えております。
新羅は生き残る為に、高句麗に下り、百済は高句麗と戦う為に、倭国を見方に引き入れて戦う事を考えていました。倭国も鉄器の供給を考えて、誘いに乗って朝鮮半島へ出かけています。
4世紀〜5世紀の古代の大王の碑文に書かれています。
高句麗の南下に伴って、勢力争いが倭国の人々にも、海を渡り騎馬軍団と戦っています。
その結果、馬の文化を取り入れて、日本でも馬を生産して、馬具を造り、騎馬戦術を学んで
います。
国際情勢の中に遭遇して、大和の王権も対応できず、邪馬台国時代から自由に外交を行なってきた、和泉・河内の勢力が活躍の場を得たと思います。
その結果大和王権が対応できなかった事で、宗教的中心の指導体制が崩れて、外交的手腕が
必要と成り、河内の活躍が出来たと思います。
高野街道を河内長野中心に紹介しています。
わいわいマップhttp://waiwai.map.yahoo.co.jp/map?mid=cuKZ1gfEm9xQIy5M3W1kNum.Tog9G5jnYy.c4Ncy17Y-高野街道記きまぐれ補足用地図
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