高野街道記気まぐれ補足 別館

主に高野街道、河内長野付近を中心に書き込んでいます。こんな事を知っているといった方はご教示頂ければと思います

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河内長野市は東・西高野街道が合流して、三日市宿が在り、高野山とは縁が深いところです。
又観心寺、天野山金剛寺と空海との縁も深いものが在ります。
特に槙尾山施福寺は、空海が1200年前に真言密教を習得して、大宰府から京都へ向かいましたが、平城天皇により、京都への退去命令(闕期の罪)がだされました。その一時期、施福寺で過ごして
います。

俊乗坊重厳は平安時代の終わりに、東大寺の再建を行いましたが、狭山池の改修も行っています。
建仁2年(1202年)の事です。各地に『別所』と言う資材・資金の中継基地を造りました。又高野山には新別所専修往生院を造り、聖の規律を図りました。
高野山との長い歴史の中で関わってきたことが判ります。
本日は高野山の魅力をスライドで見ていただきます。

大同元年(806年)平安時代、空海が中国に留学して、唐より帰朝後、密教の道場として高野山を
開きました。承和2年(835年)が伽藍の完成を待たず生涯を閉じられました。奥の院で入定され
ました。延喜21年(921年)東寺長者観賢の奏上で醍醐天皇より『弘法大師』の諡号が贈られて
います。

真言宗では宗祖空海を『大師』と崇敬して、その入定は死でなく、禅定に入っている物として、
高野山奥の院御廟で、空海は今も生き続けていると信じられています。
この様に存在して、人々を救済することがだと言われています。
天皇・貴族・庶民に至るまで、高野山を霊場として参詣してきました。

西・東高野街道のルートは、人々が通った道です。
高野山には1200年の歴史が在ります。様々な人々が宗派を超えて、お寺を造っていきました。
江戸時代は2/3の大名が、奥の院のご廟の近くに墓石を造っています。
天下の霊場として、名をはせています。日本有数の霊場です。

室町時代の頃、NHKドラマで山内一豊が活躍していた時、イエズス会のザビエルやフロイスが、
高野山に対して、日本有数の大きな寺で、日本全国から参詣者が来ていることが、当時のローマ
法王庁に連絡されていました。
2002年7月7日高野山は、大峯・吉野熊野三山(速玉・那智・青岸渡寺)や紀伊半島で、人々が
訪れる霊場として世界遺産に登録されています。

(五)  西除川を取り巻くため池群の役割

推古天皇の時代から歴史的な段階を踏んできたので、改修工事に先駆けて、大阪狭山市が発掘
調査を行いました。
沢山の土木工事の跡が出てきて、堤防に納められていたので、池の周りが、タイムカプセルとして
造られていました。

下流域には沢山のため池が在り、水は子池・孫池に溜り、水路で配られていて、ネットワークが出ています。

                                         以 上

(四) 重厳上人と片桐且元の改修

鎌倉・室町時代に入ると重厳上人が出てきて改修が行われました。
建仁2年(1202年)石棺で樋管を改修しました。堤の高さは10.2mまで大きく成りました。
今年は重厳上人の没後800年と言う事で、奈良国立博物館で5/28まで「大勧進 重厳」の展覧会が行われました。狭山池博物館からも重厳の改修碑が出展されました。

平成の改修で、北堤の護岸工事に使われていた石碑は発見されました。
重厳上人も社会事業に貢献されていました。石碑には行基菩薩の徳をたたえて、改修工事を行った事が刻まれています。
特に東大寺の南大門の作成と、国宝の運慶・快慶の仁王像を奉納しています。
山口県から関西へ掛けての大きな工事を行われています。

重厳の改修碑から判った事は、改修工事の仕事内容が克明に刻まれていました。
「謹んで三世十万の諸仏・菩薩に申し上げます」に始まり、「狭山池はその昔行基菩薩が64歳の時、天平3年辛の歳に初めて堤を築き、樋を伏せました。しかし年月を経る内に、崩れてしまいました。」

「ここに摂津・河内・和泉の狭山池下流にあって恩恵を受けるのは、50余りの郷の人々の要請により、建仁二年の年の春より修復を計画した。」
「2月7日初めて土を掘り、4月8日に初めて石樋を伏せ、4月24日に工事を終えました。」
とか書かれていました。

その後、壊れて石碑も捨てられて、護岸工事の材料として使われていました。
工事は2月の水が不要なときから計画して、4月に完了して、5月の田植えの時期には完了させていた突貫工事でした。特に摂津・河内・和泉の三箇村からの要請で、沢山の人を集めた事が判ります。
又50余りの村に水が配られていた事が判ります。

平成の発掘で判った事は、石棺のリサイクルで護岸工事の中に石碑が発見されました。
書かれた内容から、木管が石棺に変えられた事です。
「良く坊さんが石棺を使用して罰が当たらないのか」と言う質問です。
本来は墓を暴いたのでは無く、当時の古墳群を農業用地に、開発したとき出土したものが流用されたと思われ、再利用できるものは使うと言う考えが在ったと思います。

片桐且元は、近江の国の生まれで、豊臣秀吉に使えた。関が原の戦いでは秀頼を助け、徳川家康との調整役でした。狭山池とは、河川流域に水を配る重要な拠点であり、高級官僚が関わってきました。

木製枠工
取水塔の西側から出土していますが、慶長13年(1608年)改修時に造られたと思われるが、樋を
伏せる時の、オープンカットされた部分の補修に使われたと考えられます。一部地震との関係も充分
考慮する必要が在ると思われます。又、伏見大地震は1596年に起きていて、狭山池の堤にも、地震の跡が残されています。

それだけ狭山池は、農業用水としての役目を持っていました。
現在は農業用水としてのみならず、治水ダムとしての役割を持っています。
水を多く溜める為に、平成の改修は行われました。又底の泥を排出しています。

群馬県の水田風景
田の大きさが1.5mの大きさでしたが、火山灰地帯の為に水の溜り難い所でした。水が抜け易いので、小さく区分されていました。水が抜け易い為に仕切りを入れて、早いうちに全体に水が行き渡る様に考えられています。早い時期に青森県まで稲作が広がっていた事が判ります。

1981年・82年の発掘では、弘前で弥生時代の中期の遺跡が出て、当時稲作が行われていた事が
判ります。当時寒冷地に強い稲が造られていました。
火山灰に埋められていたので、網目状に畦が出土しています。
水田感慨は稲作には大切な事です。

見て頂いているのは、エジプト文明の中で、ナイル川の中腹にルクソールと言う場所があります。
センネンジェムの墓の壁画には、色彩鮮やかな灌漑農法の絵が描かれています。
絵の下段には周囲に水路が描かれて、果樹園の実が実っています。絵の中央部と最上段にはパピルスを刈っている場面と、小麦の収穫の場面が描かれています。これは紀元前2000年前の絵です。
農業は洋の東西を問わず描かれてきました。

狭山池について
西除川(天野川)と今熊川(三谷川)の合流点に造られています。東は羽曳野丘陵と西は泉北丘陵の谷筋を流れています。その北側に堤防を造り水を溜めました。コントロールとして必要な樋を造り、
水を抜きました。堤防には東・中・西の三箇所に樋が造られています。

616年に造られた堤防は、5.4mの大きさで築かれています。水門を開けると北へ水が流れ出ます。
出来た当時の堤防は300mの長さでしたが、現在では更に大きくなり500mの幅と成っています。
水を抜く樋が設けられていて、田に水を季節によって配っています。

もう一つの大切な事は「除げ(よげ)」と言うことです。集中豪雨で雨が多く降ったりした時は、池の
水が満水となると。堤防が壊れますので、余分な水を逃がす為の避難場所で、西余川が造られて
います。昔は西岸の所に造られていましたが、今回の回収では更に西南の方へ移動しています。
池の回りは遊歩道が造られて、一周3km在りますので、皆さんジョギングを楽しまれています。

「西除げ」を遡ると天野川に合流します。もう一つ「東除げ」も在りました。元は丘陵地帯を流れていた、物です。人工的に水を配水する為に設けられています。これらは大きな労力を投じて造られています。

谷池を造る上でも、土木的な高度の必要がありました。
天野川が狭山池に流れ込み、狭山池から下の方は、西余川を造ったので、西除げの延長上の天野川が1735年(亨保20年)西除川と呼ばれています。
現在でも西除川(天野川)と言われていますが、行政的には西除川と呼ばれています。一級河川の大和川の支流として示されています。

狭山池は7世紀の初め人工的に造られました。造られた当時は判りません。
1703年大和川が堺方面へ人工的に造られました。それ以前は、狭山池の水が大阪まで配水されていました。池より北の範囲で利用されてきました。
池の決壊などが在ると改修されてきました。

行基菩薩は、東大寺の廬遮那仏(るしゃなぶつ)を造営されました。
社会事業に注力して、橋や灌漑池・農業用水など事績を上げて認められて、大仏まで造る人に
成りました。狭山池では、60cm堤を高くしました。盛り土には敷葉工法が使われています。
奈良時代にも何度かの改修工事が行われています。
732年(天平4年)狭山下池が作られました。これは現在の太満池です。
762年(天平宝字6年)律令国家と成り、池の高さが9.5mまで大きくなりました。池の面積は変わっていません。

(三)  狭山池の築造と行基菩薩の改修

狭山池の場合は、平成の改修で発掘された結果、616年(推古天皇16年)の段階で築造されたと
思われます。
発掘調査で判った事は、北へ流すために造られたヒューム管の役目を果たす「木樋」が出て、材質の高野槙の木で造られていました。10mの長い大きな丸太を刳り貫いていて、同じ材質で蓋も造られていました。

「樋」を年輪年代測定法で調査した結果、推古天皇の時代に生えていた木である事が判りました。
最近では、色んな木の年輪を収集して編年が造られています。年輪は一年毎に違いが在り、正確な年代が計測できます。
木材のサンプルは、過去の古い時代の建造物で、「井戸枠」・「曲げわっぱ」などからも判ります。
15cmの「曲げわっぱ」が在れば、50年間の歴史が判ります。

狭山池の樋から、616年の木樋が出てきました。その頃、狭山池の樋として埋められて、堤防が完成した事が判明しました。
5〜6世紀に造られたと日本書紀・古事記に書かれていた物が、不明でしたが616年(7世紀初め)と判明しています。

その後南河内の発掘が進んできていますので、色々はっきりして行くと思われます。
5〜6世紀は河川の氾濫が多く在りました。水田耕作は水を引いて、配る事であり、難しい事はありませんでした。狭山池の様に、流れている川の谷部に堤を造って、樋を埋めています。そこには考えのシステムが出来上がっていた事が判ります。

私は7世紀に成って始めて出来たシステムで在ると考えます。
大きな谷を仕切っての灌漑が起きたと思います。河川管理の考え方が、平野部での灌漑を中心に
行われてきた結果と思います。従来の河川の利用は、丘陵部への水を配る事は出来ませんでした。
水田開発は出来なく、普通は畑作が行われてきました。

7世紀に成ると谷池と言う堤防を造って、下流の畑へ水を配る考えが出てきました。
又同じ時期に、羽曳が丘の丘陵地帯のように、レベルが上の土地にも水が配られ始めました。
写真で見て頂くのは、佐賀県唐津湾の風景です。玄界灘の面して、砂丘が出来た裏側に、朝鮮
半島から伝来してきた水田耕作の後が見られます。砂丘地帯の裏側の丘陵に水田稲作が起きて
います。丘陵地帯の比較的水が確保されやすい所での参考です。

唐津市の稲畑遺跡は、2500年前の水田耕作である。
福岡県の板付遺跡も同じような遺跡です。日本では縄文時代の終わり頃、出現しています。
又、稲作が行われた時の土器の写真です。収穫した米の収穫品を入れる甕、米を炊くための甕、
など当時の日常生活の用品です。

弥生時代の初期の遺跡として、7〜8年前京都大学構内で発掘された弥生時代の水田跡です。
田の寸法は2m×3mの長方形の幅で水田が並んでいました。
地面の高低差に合わせて並んでいます。田の表面は荒れていますが、人が歩いた跡です。
田の中を生き生きと歩き回る人の声が聞こえるような風景です。透き上げをする様子が想像でき、
当時の人間の活動が判ります。

八尾空港の喜志遺跡は、弥生時代の後期の水田跡です。
畦の高さが、5〜10cmぐらいで、本来畦と言う物は、人間が通る物と思われていますが、当時の
考えは、田に水を張るために造られています。
田の寸法が大きすぎると、広い水面を造るために困難で、小さく3m四方の寸法が採用されたと
考えます。

写真で転々と白い物が残されていますが、稲の株の跡です。今の様にきれいに並べられて植えては居ませんでした。扇形に植えられていたと思います。
移植栽培が行われたのは、種まき形の田植えでは、雑草と区別がしにくいので、田植えの風習が
起きました。

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