高野街道記気まぐれ補足 別館

主に高野街道、河内長野付近を中心に書き込んでいます。こんな事を知っているといった方はご教示頂ければと思います

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中世の人間として、鎌倉時代末より室町時代の生き様を、いろんなポイントで見てみたいと考えます。
時代を生き抜いた人「禅恵」に焦点を合わせて、お経の「聖教」に付いて話してみます。


【一】 金剛寺の学僧「上乗坊禅恵」の経歴に入ります。

お経の中で、聖教が残っています。大般若経・一切経が残されていますが、そのうち7〜8割を禅恵が写経した物で、他のお寺(久米田寺・根来寺など)から借りてきて写経して金剛寺に残されています。貸した根来寺には、現在原本が残されて居ないので、金剛寺に研究者が勉強に来ています。

内乱の最中に、お経を買い集めて学問所としての金剛寺としての隆盛を築きました。
写経したお経の一番最後には「奥書」が書かれています。

それを調べると貴重な事が判ります。先ず年代に付いては、二つの書き方が在ります。
「春秋」:生まれてこの方の年齢
「夏臈(げろう)」:出家して具足戒を受けて以後の修行年齢

参考までに奥書を見ていただきます。
学頭法印禅恵77歳 後村上天皇が観心寺より北山へ行幸 東条(長野) 楠木一族 国見城に引きこもる。と書かれています。
奥書に詳細が書かれており、個人の日記が書かれて残されています。
禅恵は全ての奥書に、色んな事を書いています。中には個人の喘息の事や個人の身近な問題が
書かれています。中には歴史上で重要な事も書いて在りました。

資料1には読み砕いて書いてありますので判り易いと思います。奥書の1/5が集められています。
一級の資料です。日記には「具注暦」と言うものが在ります。
巻物として年間の吉兆が書かれています。本来の日記としての日記は殆ど在りません。
具注暦の端に記録されて残されています。

お経の奥書に書かれて残されている物は、内乱がどの様に考えられていたかが判ります。

では禅恵の経歴を見ます。
○   弘安6年(1283年)誕生  参考資料として文保3年(1319年)春秋36年、夏臈19年又、春秋40年夏臈23年、と書かれていて差し引くと誕生日が計算できます。生まれは多治米村で、久米田池のそばに在ります。多治米寺(安楽寺)が菩提寺であると考えられます。

○   正安2年(1300年)得度(法名了賢)
17歳で出家して了賢と名乗っています。当時の久米田寺(西大寺系の真言律宗)の長老は、明智坊盛誉。伝法師匠の元で具足戒を受けたのだと思います。

○   嘉元2年(1304年)勉強の場として金剛寺を進められて、修行の場を金剛寺へ入山して、禅恵と
改名しています。

○   延元元年(1336年)当時足利尊氏の反乱が起きています。禅恵は53歳に成っていましたが、
「金剛資」・「紗門」と言う肩書きの無い僧でした。

○   興国6年(1345年)62歳の時「権律師」「権学頭」に成りました。

仏教の僧綱制には僧位・僧官が在ります。
僧官には、僧正・僧都・律師の三綱と言う役職が在ります。又僧位には、法印・法眼・法橋が在ります。「権」が付くと補助的な役割です。両方を持つのが普通です。

金剛寺のトップは、正(左)学頭で、次が権(右)学頭ですが、現在は「座主」と言われています。
禅恵は、62歳で権律師と成り、65歳で正学頭と成っています。69歳で学頭法印を受けています。
学問を蓄えてきたかいが認められて来ました。74歳で大和尚(だいわじょう)を授けられています。
天台宗では和尚(おしょう)と言います。

○   正平15年(1360年)77歳で権少僧都・学頭法印・大和尚位に付いて、学問僧としては最高の
位に付いています。

○   正平19年(1364年)円寂(えんじゃく)81歳で亡く成りました。

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