高野街道記気まぐれ補足 別館

主に高野街道、河内長野付近を中心に書き込んでいます。こんな事を知っているといった方はご教示頂ければと思います

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【二】 南北朝内乱をめぐる一級資料

南北朝内乱を金剛寺で経験して、しっかり記録に残しています。
彼の記録は、その後修正もされていて、法則があったようです。
後醍醐天皇による建武政権が出来て、独裁政権と成り、足利尊氏が反乱を起こした時期である。

奥書の記入は、53歳から始まっています。

○ 一番最初の記録は、建武2年(1335年)金剛資であった、53才の時、書かれています。
建武3年正月10日 後醍醐天皇は京都より比叡山へ入られた。新田殿が足利尊氏と合戦している。新田は負けたが、楠木正成は、足利を追い出して、西宮で合戦して、兵庫へ追い出した。
足利軍は備後の鞆の浦に戦線を下げた。
5月には勢力を盛り返して、兵庫へ攻め上がり、楠木正成が討ち取られた。

建武政権の崩壊から、湊川合戦から楠木正成の戦死まで記録されている。
足利尊氏は、北朝の光厳上皇(後醍醐天皇により退位させられた)の弟である、光明天皇を
担いで、尾道付近で「院宣」を貰い、九州より本体を上京させた。5月の湊川合戦で勝利した
ので、後醍醐天皇は吉野へ移動した。その後、南北二朝の異常事態の始まりである。

○ 延元元年(1336年)紗門に成る。8月25日の笠置合戦に付いて書かれています。都や地方で
合戦が行われて、人民は不幸である。父親が戦死して、子供は討たれている。内乱で一家分断されてしまった。仏閣寺塔が焼かれ、内裏も民家も消失している。内乱が始まり不幸が起こった
と嘆いています。

後醍醐天皇の時世の二年間に付いては、禅恵は書いて居ないので、建武の親政に対しては、
自立していたと思われます。
面白いのは表現の中に「南無阿弥陀仏」と書いてあり、当時の僧は皆さん唱えていたと思われ
ます。合戦で戦死した、「三世一切衆生往生極楽」と願っています。

○ 興国6年(1345年)権律師・権学頭である。元弘元年より興国6年までの15年間は、動乱が止みませんでした。金剛寺の文殊院も延元2年、和泉の守護代都築が率いる北軍が乱入しての戦いで焼失した。北の無量寿院に移住した。現在の便所のすぐ横の塔中である。
そこで弟子を育てています。

金剛山を挟んで、楠木正行と細川顕氏の対戦が行われていました。
槙尾山には大ヶ塚惟政が守り、横山の盆地の宮里城には北朝方の都築量空が守っていました。
大門阪を超えて攻めてきたので、金剛寺へ逃げ込んだので、塔中が焼かれています。
これが天野合戦(延元2年)の一つです。
「心苦悩乱、先世の罪業か、特に又今生の因業か」と言わせています。

○ 正平3年(1348年)65歳 河内四条(四条畷)で楠木正行が足利師直に討たれています。
金剛寺と楠木氏の関係は、何の関係も無く、淡々と史実だけ書かれていて、弔う気持ちが無い事が読み取れます。

正平6年(1351年)68歳、権律師・正学頭に成りました。足利直義と足利家の執事師直の仲が悪くなりました。賀那の帝(後村上天皇)は五条に、篭っておられました。足利直義は関係を修復しようと考えた、反対の執事の師直は追放された。執事の師直は、西宮で上杉勢に殺されています。
   足利直義と賀那の帝(後村上天皇)関係が修復できたので、15年間の動乱が収まった。
観応の撹乱と言われるもので、禅恵は歓迎している事が判ります。

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