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文化財を見ながら、三日市付近を通って行った話をします。
慈尊院の話から始めます。
弘法大師空海は、宝亀5年(774年)讃岐の国多度津で父は豪族佐伯氏の出で、母は中級の官僚の娘でした。空海には二人の弟が居ました。
15歳で、桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった、母方の叔父である、阿刀大足に付いて
論語・孝経・史伝・文章を学びました。
18歳で京の官立の大学に入り、官僚と成るための勉学をしました。大学での専攻は明経道で、
春秋左伝・毛詩・尚書などを学びました。
求聞持法を授かって、大学を中退して、紀伊・四国の山々を巡って、記憶力の増進を図りました。
経験の元で、宇宙と一帯と成り、宇宙より与えられた命を磨き、真言密教を求め始めました。
永貞元年(805年)長安の西明寺に入り、密教の第七祖である、唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降、約半年に渡って師事した。学法灌頂・金剛界の灌頂を受けた。伝法阿闍梨位の灌頂を受けた。
恵果和尚が60歳で入滅されたので、日本へ帰りました。
国費留学は20年の期限が在ったが、2年で切り上げて帰っています。その時インド以東の真言密教を持ち帰っています。
恵果和尚は東の国日本へ帰り、密教の布教を行うように遺言していました。
当時遣唐使の船が、唐に入っていて、その船で帰りました。大同元年(806年)の事でした。
真言密教を持ち帰って、弘仁6年(816年)修禅の道場として高野山を開き、山の整備をしました。
同時に弘仁12年(821年)四国香川県の満濃池の補修を命じられて、決壊が止まらなかった、
護岸工事を成功させました。
庶民の為の『綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)』と言う、教育の門戸を開き、勉強学校を造り、
画期的な社会福祉・慈善事業を始めています。
仏教が社会福祉を目的にしたのは、鎌倉時代の仏教以降だと言われていますが、平安時代の始めに空海が日本文化の為に活躍を広げています。
承和2年(835年)3月21日入定しました。
空海を愛して信仰して、高野山を信仰してきました。1200年の歴史の中で、文化を育てて、高野山から発信してきました。
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