高野街道記気まぐれ補足 別館

主に高野街道、河内長野付近を中心に書き込んでいます。こんな事を知っているといった方はご教示頂ければと思います

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 「かへらじとかねておもへばあづさ弓 なき数に入る名をぞとどむる」
 韻律の美に乏しい日本の詩歌で、頭韻を印象的に用いた例といえば、大納言公任の「たきの音は」と、子規の「柿くへば」の二つが代表作とされるようだが、如意輪堂の扉に刻まれたこの歌のカ音とナ音を二つずつ句頭に連ねた調べのなだらかさも、その例に加えてよいのではあるまいか。
 一九三五年生まれの私は、楠木正行の作とされるこの歌を、小学生時代から記憶にとどめた最後の世代ということになろう。
 奈良で九年を過ごす幸いに恵まれていた当時、吉野山の奥千本からの帰りに如意輪寺に寄り、宝物殿に納められた扉板に目を凝らしたが、そこに残る文字が、かすかに読み取れるのは、正行の時代よりは新しいものであるように思われた。
 正行が自らこの扉に歌を記した事実がないとしても、太平記の成立は正行の死後数十年を出ない時期とされるようだから、「かへらじと」の歌が正行の作として伝えられたのも、かなり早い時期からのことには違いない。
 しかし、これを正行が出陣に臨んで詠んだとすれば、仮にも将たるものの心構えとして、詞にすべきではない思いを述べたことにならないだろうか。
 大方の太平記の研究者は、この歌を物語の虚構とし、史実とは認めないようである。
 ただ父子二代にわたって不本意な合戦を強いられ、「恨みを朝廷に含み、大敵に向かって死を決した」といわれる正行の心情が、この歌の字句に近いものであったことは、おそらく事実であろう。
 玉砕を期した合戦に臨んで、正行は、ただ敵将と刺し違えることを目ざした。
 太平記によれば、楠木勢が湊川で足利方を蹴散らし、直義の馬をつまづかせたように、正行も師直の本営に迫り、大将すでに危うく見えたとき、主の鎧をつけた師直の近臣が「高武蔵守これにあり」と名のって討ち取られ、正行は長蛇を逸したという。
 しかし、歴史の皮肉は、その師直と直義を互いに相容れぬ仇敵とし、彼らは正行の死後、三年目と四年目の同月同日に、それぞれ悲惨な最期を遂げた。

 太平記は正行の討死に続いて、師直の軍勢が吉野に押し寄せ、行宮を焼き払ったことを記すが、このとき蔵王堂とともに兵火にかかった天神の社について、その由来を語り、承平の昔、日蔵上人が吉野山の岩屋で修行中に頓死して、十二日後に生き返るまでの間に、地獄で鉄の湯に煮られている醍醐天皇にめぐり会い、泣く泣くの仰せ言に「朕が地獄に落ちたのは、無実の菅丞相を追放した報いに外ならぬ故、上人娑婆に帰り給はば、丞相の廟を建て、朕の苦患を救ひ給へ」とあったので、蘇生後の上人がこの社を建立したという。
 この話は太平記の創作ではなく、醍醐天皇の死後ほどなくあらわれた「道賢上人冥途記」という書物に起源があり、古くから知られた説話であるらしく、蔵王堂境内の案内板にも、天神勧請の由来として記されている。
 菅公の霊の祟りがいかに怖れられたかを語る説話に違いないが、また古人が、天子といえども過ちを犯せば、それが権臣に惑わされた結果であっても、地獄に落ちる場合もあるとして、あやしまなかったことを示すとも言えよう。
 高が大臣の一人を誤って追放したくらいの落ち度で、天皇が地獄に落ちるなどとは、平成の世の文部省を跳びあがらせるに足りるだろう。
 太平記が忠君愛国の美談集だなどというのは、甚だしい誤解である。
 後醍醐天皇の空手形の乱発をわらった「カクバカリタラサセタマフ綸言ノ汗ノ如クニナド流ルラン」という落首一つをみても、そのことは知れるはずだ。

 林直道著「日本歴史推理紀行」という本を読んで、足利二代将軍義詮が、足利氏の敵であった楠木正行の氣節を追慕し、死に臨んで、かねて佛道の教えを受けていた僧黙庵を招いて、永眠の地を正行と同じくすることを望み、その遺言に従って、右京区嵯峨の宝筺院という寺に、義詮の墓が正行の首塚と並んで建てられているという話を知った。
 歴史上の足利義詮は、武将としても政治家としても、すこぶる影が薄く、酒色にふけって命を縮めたとそしられ、NHKの大河ドラマ「太平記」でも、甘やかされて育った無能な二代目という役どころを振られた形で、義詮にして霊あらば、さぞ不満を禁じ得ないであろうと思われるが、もしこの話が信じられるものであれば、その人物を見直すことができると共に、敵からそれだけの尊敬を得た正行の評価も高められ、当時の武士一般の倫理観についても、必ずしも知られていない面が現れてくるのではないか。
 そういう関心に引かれて、晴天に恵まれた秋分の日に嵯峨の地をめぐり、小楠公菩提寺という案内板を掲げた宝筺院の閑静な庭の奥で、正行を弔う五輪石塔と義詮のために築かれた宝筺印塔の前に立つことができた。
 確かに二つの塔は左右に並んで建ち、その前には重々しい門があって、開かれた石の扉の右側には菊水の紋、左側には二つ引き両の紋が刻んであり、楠木、足利両氏の惣領が、恩讐を越えて共に休らう姿を示している。
 しかし、寺の窓口でもらった刷り物によれば、この墓域が整備されたのは明治以後のことで、その前の様子について知る手がかりは見当たらなかった。
 この一帯が応仁の乱以後の兵火を全く無事に免れたとは、おそらく言えないだろう。
 ここに義詮の供養塔があるのは事実だとしても、正行の首塚があるというのは信じられるのだろうか。

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