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日野の寺院
昔豪族の中には公卿や武将で、中央での争いに敗れた者とか、落伍した人達で自分等の同志同類と党を結んで連れ立ち、山伏、野伏姿をして、山深い不便な土地を選んで一時的に世を忍んで身を潜め何々党、何々組と称して互いに連絡を取っていた。
そうして旗揚げをする時節を待つため姿を隠し、何処かで同志の旗揚げがあれば馳せ参じ加担した。再起出来なかった連中は遂に、その地に土着して百姓となって暮らした。
山間の不便な村や部落にはそうした伝説が多いところであろう。皆それ相当に曰く因縁、話が今に伝承して残っているのもその結果であろう。山間に住めば馬匹を飼うにも便利であったであろうし、自分達の食糧も不自由ながら何とか成り立ったであろうから、一応の安定は見られるので、態と不便な土地を求めて、隠れ住んだものらしい。
主流筋の者は、時来り旗揚げする時は必ず自分によく似た人かその兄弟縁故の者を身代わりとし、その替玉の人を四、五人も拵らえてあった。
それで戦争をして敗けた時主将の首は敵に取られるが一つしかない筈の首塚墓が二つもあったり多いは四つ五つともあるのはその為であろう。
本物の総大将は一番後方に居り、戦時には本陣内にあって、出先の第一線には身代わりの大将が指揮をとり、敵を欺く為には偽造本陣まで造ったそうである。
中央から落伍して、山間に逃れた公卿や武将達は同志の安全や、非業な最後を遂げた人々の追善の偽神社を造り、お寺を建て、神仏を祭って被護を受け、人馬の英気を養い時節を待った。
自分一代でうまく成功しなかったならば二代、三代先でも良かったと云う昔の人は随分と気永なものであったらしい。
時節は必ず来る、因縁は廻って来る、因果はきっと報うと信ずる心が強かったのであろう。それで神仏に祈り報願のため、神社を建て、火行水行までして朝夕の礼拝を欠かさず日中は農耕に励み自活したいた。
小さいながらも自宅は寺であり、お宮であった。大きな寺には七、八人も同居して住んでいたらしい。
日野にも、日野党と云って五人を一組とする五人組で六組を組織し、その主領の人で日野36人衆と云ったそうである。この36人衆がお寺を持っていた。
何某は何寺を持っていたと云うまでは、解らないが、推察の出来るものもある。この推察出来るお寺と僧侶の系統を、私に話して下さった古人が、それであったと述べておられた。
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