高野街道記気まぐれ補足 別館

主に高野街道、河内長野付近を中心に書き込んでいます。こんな事を知っているといった方はご教示頂ければと思います

無題

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全40ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

誠に勝手ながら『日野の口碑』は高野街道気まぐれ補足に異動します

今まで有り難うございました

又違った記事を気まぐれでこちらにあげたいと思います
よろしくお願いします

聖観音と天誅組志士
 七の森の西ノ谷山田を、日野オクバタと云う。奥端の西上の山地を堂山と呼んでいる。堂山より南の高ン土をタコラと云う。ここは高良城のあった処である。美濃出の上段に田中屋敷跡ががある。ここは日野の冨豪で田中雅太郎氏と云った家の跡で、日露戦争頃に破産しその子孫は現在泉州岸和田市に住んでいる由である。この田中氏が、個人で2辰僕召詢派な聖観音様を屋敷の北の端の処に三間(5.4叩忙楊鳴の堂内で祀っていたが、大阪堂島の米相場に手を出し失敗して、家財共にこの観音様も差し押さえられ売られてしまった。お堂の正面に濡縁があって格子扉が嵌め込んであった。床高45臓憤貅楔淦)内陣90臓併絢棔飽未僚茲茲蟶彙鼎忘舛辰討られるので伸し掛かるような感じを受けた。観音様を持ちだして帰る時背後にあった天蓋を見て傷んでいるが修繕すれば良いと云っていた。是を見てきた私の父は「ア、日野の観音が」と謎のような言葉をはき「あれであったのか」と申し「滅多な事を人に話すでない」と云った事を思い出す。村から預かったのか、買っていたのか又当時の寺の檀家であったのか、それは解らないが、日野にあった在家には珍しい立派な観音様この時限りで日野から消えてしまったのである。観音寺の御本仏と考えても決して遜色はない立派な仏像であった事は私も知っている。
 お堂は河合寺に売って宝物殿になっているが、それを取り毀す時私も父と共に手伝いに行った、河合寺から毀しに来た村人の内に、私の伯父もいたからである。お堂の行先きはそんな訳で知られているが観音様を買った人もその行先きも解らない、村を出て行く観音様も是を見送った私の父も嘆くのは当然であろう。
 それから後、お堂の跡より夜更けになると真白な着物を着た、3値召蠅砲盡える大入道が現れて宙に浮いたようにフワリフワリと南にある田中屋敷跡の方に向かって行きフワァと消えてしまうのを見たという人あって、田中邸に幽霊が出るという噂が高まって、村中騒いだが、又いつの間にかその話しもきえてなくなったが、一時は非常な騒ぎであった。この田中雅太郎氏の先代田中弥三冶氏は、維新の天誅組に入っていたが先陣に出た連中は、大和の五条代官所を乗っ取り旗揚げをしたが、幕軍に包囲され、血路を開いて十津川に遁走したので弥三冶氏は遂に出陣しなかった。が後に神戸藩より唐丸籠で迎えに来られ、その裁きを受けたが、放免なって無事に生還した。討幕派の名士達がよく往来し、桐野利秋が二、三ヶ月も潜んでいたと祖父の弥冶兵衛が話していたそうである。この祖父は田中弥三兵衛氏とは従々兄弟であったので、服臣のように天誅組の人々との交信を密かに携えて往来した人であるから祖父よりの伝承は間違いない。そんな関係で田中氏破産の時も雅太郎氏が拙宅に来たり呼ばれて行った父を思い出す。この田中弥三冶(弥惣兵衛)が伊勢神戸に送られる際、私の祖父弥冶郎(弥冶兵衛)を呼び「俺が今度、神戸に行けば生きて再びお前と逢う事はあるまいから冥土の土産に、何か呉れる文句はないか」と申したので祖父弥冶郎は後記の狂歌を即座に詠んだのを弥三兵衛が腰の矢立を抜いてかきとりそれを片身に、唐丸籠に乗って伊勢神戸に送られた。後この狂歌が役に立って御救免になり無事に帰る事が出来たと非常に喜んだと云う話であった。弥三兵衛はその後は何事にもあれ、弥冶兵衛弥冶兵衛と云って頼りにして呉れたと祖父弥冶郎も喜んでいたと云う。その狂歌は「にごり出たので吉川切れて共に田中に土砂かかる」と云うのである。

(註)にごり||水郡(にごり)紀州藩に自首して出た 吉川冶太夫||伊勢神戸藩士長野村代官を切って壺井村で自刃した。

一の森から七の森
 松葉の辻より、南に一、二丁行くと美濃出と云う地名がある。一番かかりが田中秀雄氏の宅で、この家の南は山の尾端になっていて丁度真上あたりに、七の森と云う森があった。大きな古い木が四、五本残してあった。日野には一の森から七の森まで七つの森があったと云うが、いずれも皆霊験あらたかで、うかつに不浄なことをすれば即座に腹痛を起こすと云って恐れた。今は一の森と云う紅葉ノ滝の上に白髪大明神を祀る処以外、森は全くなくなった。
 二の森と云って前田の某氏宅地の辺りに四坪位の小さい塚があった森と云っても古い柊木が一本あっただけで二十年頃壊されて今はなくなったいる。
 三の森は寺田の端の処にあったが川の瀬変わりでとうの昔に流れておわった。四の森と名のつく所は広いので権現の森か、行者屋敷の森か、片袖の森か、この辺一帯の川縁に森の大木らしいのが一、二本ある、この川縁に明治三十年頃、村道を造った時に、森地、屋敷地等を切り下げて道路にしたので道端に数本残っていたのを覚えているが現場はどこか定かでない、この辺と思われるのは向井滝蔵氏の御子息宅の上手井路端に、五か六かの森があったと思うがそれも川に落ちて道框となっている。これを六の森とすれば、五のもりは四の森の中にあることとなる。
 七の森も何様か埋葬した処であったらしい。前田にあった塚は、高さが四尺(1.2叩飽未捻澤舛砲覆辰討い拭D佑料阿帽場があり私達は相撲を取って遊んだ位だから30嵳召蠅發△辰燭任△蹐Α七の森に極若い頃行った事があるが狭い階段になっていて、林に山桃の大木と杉、檜数本あったかと思う位で他に何もなかったが今は森もなくなった。

高野街道記気まぐれ補足もよろしくお願いします
わいわいマップも併せてお願いします

河内長野 喫茶atease高野街道を応援しています

 お寺の行事と宗旨
 長い冬も過ぎて春先になると涅槃法要を観音寺で行い粳団子を造って釈迦を祀り是を撒く。団子は一年中保存して置いても黴ははえない。頭痛の薬になると云って重宝がられた。
 お盆は施餓鬼法要をして経木流しをし、十六日の晩に繰上げ、観音の盆踊をした。日野一般の宗派は最初真言宗であったが、その後天台宗に変わり、融通大念仏宗になった時もあるが延命寺の檀家となって元の真言宗に戻ったのである。その時の国司・郡司域は領主の都合に依ったものであるらしい。
 明治五年に廃寺となったのが延命寺の末寺と扱われた日野の寺は延命寺より寺歴が古いのであるが村の共有物のようになった為衰微の一路をたどったのであろう。近江の膳所藩より分家した伊勢の神戸藩主本多氏が延命寺に従属させたのである。
 日野には五百余石の殿様年貢が高過ぎたのである。近郷の他領より見れば高過ぎる年貢は村民を貧しくさせ、お寺にまで手が届かなかったのも無理ではなく信仰心厚かったからこそ今日迄よく保存出来たと云わなければならない。

デカラカ餅と森と川
 明治維新頃まで毎年正月十五日の門松上げドンドが終わりお鏡開きを済ましてから村民一同が、大堂に集まり法要を行う、御酒を頂いてから裸祭りを始める、全員裸になって縁側に腰を掛けて、デンデンタノシイ、デタモノタノシと大声上げて互に押し合い押し出された者達は、お餅を搗きに廻る、搗いた餅は平に伸ばしてその上に小豆の餡をのせて端よりつまみ上げ固く握って油であげる。これがデカラ餅である。この餅を仏像に供えて後、帰る時各自が貰って行く、デカラ餅は疫病を患ったときにいただいて食べると病気が治ると云う有難いお供物であったが、維新後はなくなった。  
 塚ン堂の塚は阿弥陀如来を祀るまで崇高な墓所であった。シンノウ森と云ったが死の森だ、四位の森だ、篠森であると皆勝手な解釈をするが、親王森と云う人や真野森と書く人もあって説は定まらないが廟所か墓所であったことは事実である。
 いつの時代か向井邸に見えた気高い身分のあるお方が高橋坂で殺されたが、その遺骸を葬ったと云う説もある。高橋氏の一族で堺に住んでおられる孫三郎様が先祖の墓地としてお盆には必ずお参りされ、同氏の死後も子孫の方が毎年続けて墓参されている。
 この塚ン堂の裏に坊様の石塔が十数基今も建っている。二十八年頃この堂に住んでいた向井末松氏方を訪れた時、如来様の横に三十四、五も白木製の位牌があるので拝まして貰った事がある。丈の高いのは45属未ら60其瓩い發里發△辰燭皆坊様の位牌らしく何某闍梨の霊と書いてあったので同氏に此位牌を観音寺に納めた下ださらんかと頼んだが、氏は「私はおまつりする約束があるから」と断られた。その後阿弥陀如来様を売りこの位牌を全部川原で燃やしてしまったと云うことを伝聞し惜しいことをしたと残念な思いをした。
 川の辺りは以前原始林であったらしい、と云うのは谷口の橋の辺りに、川底の青地に木の株が真黒に変色して直径3叩憤貍罅砲發△觝本が残っている。これは私一人だけでなく川へ遊びに行った人は皆見ておられることである。森下久松君もこれを見た一人である。根株であるからには地上では相当な大木であったに相違ないと話し合った。
 私等子供時代から若い頃、この川筋には昼でも河鹿(蛙)が沢山棲んでいたので鳴き声を聞いた、夜になるといよいよ川筋が騒々しかった、友人との話し声も聞き難い位であった、蛍の出る頃は丁度川の上を提灯行列のように青い光が点滅して周囲が明るい位見事であった。
 気分の勝れない時川辺に立つと自然と気分が澄み和んで来た位である、此川は以前、川見様の処から河端氏、勇佐氏、河浦氏の住居の辺りを流れていた事であるが、大水害毎に川の瀬が変わって現在の処まで東寄りになり替わったもので、前記諸氏の方面を河原と云う小字名になっている。昔の地形を今から考えると想像にも及ばないが、古人の話のように概況の地勢は残っていると思う。

全40ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事