高野街道記気まぐれ補足 別館

主に高野街道、河内長野付近を中心に書き込んでいます。こんな事を知っているといった方はご教示頂ければと思います

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河内守護職畠山氏の系譜

畠山義深→基国(応永13年卒)→家満(永享5年卒)→持国(享徳4年卒)

  藤井寺方面より攻め込んで、大門より坊舎70余在った物の半数35焼失した。寺の大門を焼いても金堂・宝塔・御影堂などの信仰の対象を全て守りぬいた、誇りが在ります。
 僧侶・百姓恐怖極み無しと書かれていて、坊さんと百姓が一体で在った事が判ります。そこには
天野惣中と言う考えが在ります。金剛寺を中心に、周辺の村が共同体を作っていました。
時代の変化が見られます。

今年は特に武士が乱入して、大門・往生講堂・余持仏堂並びに坊・牢に及び消失した。寺僧不在で、高瀬・滝尻に隠居した。阿観上人以来の本山が滅亡した。
後村上天皇は情報を察知して、観心寺より北山経由賀名生へ行幸されている。長野庄の楠木氏が没落した。国見城(現在のサイクルスポーツセンター)立てこもっている。

内乱の状況が良く書き込まれています。禅恵は南朝の立場でなく、自立して冷静に現実を見ています。

○ 正平16年(1361年)78歳 焼失して翌年の4月には無量寿院・持仏堂、7月には堂坊の棟上を行っています。その努力は賞賛に値します。

○ 正平19年(1364年)81歳で円寂されました。

これらの資料は河内長野市史から取っています。和洋漢文ですので読んでみてください。

光厳法皇との関係
正平9年(1354年)71歳の時、9月11日持明院太上(光厳法皇)に「秘鍵談義」をした事が書かれています。法皇は禅宗のお坊さんで「光智」と言う法名を持たれています。
又10月7日にも法皇の前で講義を行っています。

法皇の最後は丹波国の山国で常照皇寺で52歳で亡くなりました。
禅恵は、真言密教の奥義を授けた人ですと書いています。その為に、印信を授けています。
禅宗の僧として「光智」と言うが、真言密教では「恵信」の尊号を受けています。お互いの気持ちが
統合されていたと思います。

法皇が亡くなって、印信が金剛寺に返還されています。亡くなって返却されると言う話は聞いた事が在りません。その為に禅宗のお坊さんとして亡くなったと思います。
金剛寺には、縁が深くて、分骨が行われています。その由縁です。金剛寺と特別の関係であると
思われます。

堺付近を調査すると、高石市に大雄寺が在ります。禅宗のお寺です。室町時代まで在りました。
後醍醐天皇が隠岐から脱出された時、迎えに行ったのが覚明上人です。南朝の「顧問」相談相手として登場しています。金剛寺で、覚明が教義を授けています。名前は出ていますが不明です。
資料が在りません。禅宗の教えを受けた事は判っています。

金剛寺に送られた、光厳法皇は先ほど話した、丹波国山国荘で亡くなりました。常照皇寺で552歳で亡くなりました。桜が有名な所です。時代に振り回されて、禅宗のお坊さんに成っています。現在はお骨は山国稜として残されています。

臨済宗に置いても違いは在ります。宗派が別れていない当時は色々在りました。
二ヵ月後金剛寺に分骨が行われています。河内長野では大切な事実です。
金剛寺の食堂の横に、勤皇の寺と書かれた石碑が在ります。時代の波に流されない、自立の精神が在りました。

禅恵と弟子の資料

建武2年(1335年)52歳 「禅恵御影重宝施入状」
(一) 光明皇后筆大眦婆紗論109巻
(二) 弘法大師御童形時御作土塔一基
(三) 白錫蝋燭一雙(泉州助松沙彌道正)

助松道正野の名前が出ています。
正平3年(1348年)禅恵65歳の時の、正学頭に成って追書きが見られます。
助松は玉物を寄付している事が判ります。
鎌倉時代末期 「御影堂重宝施入状」の内容です。非常に困窮した時に、助松道三が寄付をしています。

金剛寺結縁過去帳

日置六兵衛入道が、元享2年(1322年)5月4日他界 「尼覚円」と逆書きされています。

【四】 禅恵の用いた年号

写経に用いた年号は、大宝(701年)が始まりです。禅恵が写経したのは、南北内乱の時代です。
例えば、1351年の当時は、三種類在りました。
(京都)観応2年  足利幕府が採用 北朝
(畿南)正平6年  南朝
(九州)貞和7年  足利尊氏の子供の直冬が大宰府政権を作り採用

三つの政権が鼎立していた時代です。
そこで河内の禅恵は何を使っていたか検討しました。

鎌倉時代は、南朝(元弘2年を1回) 北朝(正慶1年を2回、正慶2年を2回) 両年号併記を
1回使用しています。

建武政権下では、元弘3年を2回 建武2年を1回使っています。
50歳の時に鎌倉幕府が倒れたので鎌倉寄りの考えが在ったのかと考えます。

53歳から63歳(金剛仏子〜阿闍梨)南朝年号を使っていますが、一回北朝の康永1年を使っています。

64歳〜65歳(権律師・権学頭)正平2年3年を三回、貞和3年4年を8回、両年号を2回使っています。高野山系は自立していましたが、根来寺は北朝の年号でした。金剛寺は南朝が多い。
禅恵は高野山でお経を写していたので、両年号を書いたと考えられます。

65歳〜71歳までは全て南朝の年号正平3年から9年までを7回使っています。

以上を見てくると、禅恵は南朝方のお坊さんと言う、考えが無い様である。政治の動向には左右されない考えが見てて来ます。

私たちは西暦と言う年号を知っています。政府は日本固有の年号を強制しています。
私は平成18年(2006年)言う書き方を基本としてきました。
学校の校長はこれにクレームを付けてきました。

日本の四大紙面では、2006年(平成18年)と書いています。一体化出来ない所に矛盾を感じます。
私は一市民として自立すべきであると考えています。
両年号併記することで、禅恵の考えが在った事であると思っています。

無量寿院の弟子で、快賢と言う方が居られます。後学頭に昇った人です。
42歳の時の奥書にその思想が引き継がれていました。
文中2年、応安6年(1373年)の併記が見られます。
内容は「書写了 依動乱公家武家相交間 両方年号勒之畢」

【三】 禅恵を巡る一級資料

武家政権が終わり、手を組みました。
足利尊氏と弟の足利直義対立しました。正平一統(1351年)10月から11月に足利尊氏と後村上
天皇とが合体しました。しかし翌年2月には破綻しています。
後村上天皇は、武家を信用していませんでした。北畠親房に任せて京都に入場を待ちました。

二代将軍の時、崇光天皇を拉致して、光厳・光明と一緒に、賀名生より河内金剛寺に連れ込んだ。
正平9年(1354年)71歳の時の奥書に、北朝の三院が金剛寺来住と書かれています。
東西6km、南北3kmの範囲の中に送られてきた事が判りました。禅恵は歓迎していません。

正平9年〜13年に至る間、後村上天皇が賀名生より入山しています。一方上皇たちは、観蔵院に
居住されています。天皇が居られる間に、山木皆失った、坊舎損失した、と書いています。

○ 正平10年(1355年)72歳 殊更物騒に成り、騒がしい事を嘆いています。

○ 正平11年(1356年)73歳 後村上天皇は、摩尼院に住居して、光厳・光明・崇光の三院は、観蔵院に住んでいました。寺中坊々一宇も残さずと書かれているように、天皇を守るために、南朝方の
宿舎に使用されています。

○ 正平12年(1357年)74歳 正学頭・法印と成る。10月9日文観坊殊音(しゅおん)が改名して
小野僧正弘真が亡くなった。禅恵は自分の先生として、仰いだ人で、国師で護持僧と成った人です。金剛寺では代表的な人物です。南北朝時代に東寺の一長者で、醍醐寺座主で在った人です。禅恵と一緒に金剛寺に来ましたが、80歳で亡くなりました。金剛寺境内に墓所が在ります。

先帝・当今二代に渡っての国師であり、門弟隋一の者として認められた。真言密教の免許皆伝を受けています。印信(印可)を受けました。

真言立川流
平安時代末期左大臣阿闍利仁寛によって始められた真言密教の流派の一つ。
醍醐寺座主・東寺長者を歴任して後醍醐天皇の信任が厚かった文観弘真(1278〜1357年)によって、後に教義・理論が大成されたと言うが、資料が十分残っていないので、その実態は謎が多い。

教義の基本は、真言密教の即天成仏の教えを、男女二根の交合でもってユガとする(精神の統一
修行によって絶対者と合一)と言うもの。男と女、日向と日陰、胎蔵界と金剛界の様に対比するものである。合体こそが極楽往生出来ると言う、邪教的な分派が多く出来ました。

後醍醐天皇が一番信任されて人でした。

○ 正平13年(1358年)75歳 後村上天皇が金剛寺に行宮されて5年が経ちます。皇居として使用されている間に山林坊舎が著しく損失しています。この5年間で山林を切りつくし、坊舎の土地も無くなってしまった。

○ 正平14年(1359年)76歳 学頭・法印・大和尚と成る。天皇が行宮して6年が経ちました。
山木全て切り払われてしまった。坊舎破損している。寺僧が逃げ出している。騒がしくて学問が
出来ない。

正平14年12月23日後村上天皇は、観心寺へ移幸された。
足掛け6年の間、ありがたい事は何も無かったと言う気持ちが連ねられています。

○ 正平15年(1360年)77歳 畠山国清による、金剛寺焼き討ちが始まりました。
畠山氏は室町幕府の関東執事であった。河内・和泉の守護を兼ねていました。

【二】 南北朝内乱をめぐる一級資料

南北朝内乱を金剛寺で経験して、しっかり記録に残しています。
彼の記録は、その後修正もされていて、法則があったようです。
後醍醐天皇による建武政権が出来て、独裁政権と成り、足利尊氏が反乱を起こした時期である。

奥書の記入は、53歳から始まっています。

○ 一番最初の記録は、建武2年(1335年)金剛資であった、53才の時、書かれています。
建武3年正月10日 後醍醐天皇は京都より比叡山へ入られた。新田殿が足利尊氏と合戦している。新田は負けたが、楠木正成は、足利を追い出して、西宮で合戦して、兵庫へ追い出した。
足利軍は備後の鞆の浦に戦線を下げた。
5月には勢力を盛り返して、兵庫へ攻め上がり、楠木正成が討ち取られた。

建武政権の崩壊から、湊川合戦から楠木正成の戦死まで記録されている。
足利尊氏は、北朝の光厳上皇(後醍醐天皇により退位させられた)の弟である、光明天皇を
担いで、尾道付近で「院宣」を貰い、九州より本体を上京させた。5月の湊川合戦で勝利した
ので、後醍醐天皇は吉野へ移動した。その後、南北二朝の異常事態の始まりである。

○ 延元元年(1336年)紗門に成る。8月25日の笠置合戦に付いて書かれています。都や地方で
合戦が行われて、人民は不幸である。父親が戦死して、子供は討たれている。内乱で一家分断されてしまった。仏閣寺塔が焼かれ、内裏も民家も消失している。内乱が始まり不幸が起こった
と嘆いています。

後醍醐天皇の時世の二年間に付いては、禅恵は書いて居ないので、建武の親政に対しては、
自立していたと思われます。
面白いのは表現の中に「南無阿弥陀仏」と書いてあり、当時の僧は皆さん唱えていたと思われ
ます。合戦で戦死した、「三世一切衆生往生極楽」と願っています。

○ 興国6年(1345年)権律師・権学頭である。元弘元年より興国6年までの15年間は、動乱が止みませんでした。金剛寺の文殊院も延元2年、和泉の守護代都築が率いる北軍が乱入しての戦いで焼失した。北の無量寿院に移住した。現在の便所のすぐ横の塔中である。
そこで弟子を育てています。

金剛山を挟んで、楠木正行と細川顕氏の対戦が行われていました。
槙尾山には大ヶ塚惟政が守り、横山の盆地の宮里城には北朝方の都築量空が守っていました。
大門阪を超えて攻めてきたので、金剛寺へ逃げ込んだので、塔中が焼かれています。
これが天野合戦(延元2年)の一つです。
「心苦悩乱、先世の罪業か、特に又今生の因業か」と言わせています。

○ 正平3年(1348年)65歳 河内四条(四条畷)で楠木正行が足利師直に討たれています。
金剛寺と楠木氏の関係は、何の関係も無く、淡々と史実だけ書かれていて、弔う気持ちが無い事が読み取れます。

正平6年(1351年)68歳、権律師・正学頭に成りました。足利直義と足利家の執事師直の仲が悪くなりました。賀那の帝(後村上天皇)は五条に、篭っておられました。足利直義は関係を修復しようと考えた、反対の執事の師直は追放された。執事の師直は、西宮で上杉勢に殺されています。
   足利直義と賀那の帝(後村上天皇)関係が修復できたので、15年間の動乱が収まった。
観応の撹乱と言われるもので、禅恵は歓迎している事が判ります。

中世の人間として、鎌倉時代末より室町時代の生き様を、いろんなポイントで見てみたいと考えます。
時代を生き抜いた人「禅恵」に焦点を合わせて、お経の「聖教」に付いて話してみます。


【一】 金剛寺の学僧「上乗坊禅恵」の経歴に入ります。

お経の中で、聖教が残っています。大般若経・一切経が残されていますが、そのうち7〜8割を禅恵が写経した物で、他のお寺(久米田寺・根来寺など)から借りてきて写経して金剛寺に残されています。貸した根来寺には、現在原本が残されて居ないので、金剛寺に研究者が勉強に来ています。

内乱の最中に、お経を買い集めて学問所としての金剛寺としての隆盛を築きました。
写経したお経の一番最後には「奥書」が書かれています。

それを調べると貴重な事が判ります。先ず年代に付いては、二つの書き方が在ります。
「春秋」:生まれてこの方の年齢
「夏臈(げろう)」:出家して具足戒を受けて以後の修行年齢

参考までに奥書を見ていただきます。
学頭法印禅恵77歳 後村上天皇が観心寺より北山へ行幸 東条(長野) 楠木一族 国見城に引きこもる。と書かれています。
奥書に詳細が書かれており、個人の日記が書かれて残されています。
禅恵は全ての奥書に、色んな事を書いています。中には個人の喘息の事や個人の身近な問題が
書かれています。中には歴史上で重要な事も書いて在りました。

資料1には読み砕いて書いてありますので判り易いと思います。奥書の1/5が集められています。
一級の資料です。日記には「具注暦」と言うものが在ります。
巻物として年間の吉兆が書かれています。本来の日記としての日記は殆ど在りません。
具注暦の端に記録されて残されています。

お経の奥書に書かれて残されている物は、内乱がどの様に考えられていたかが判ります。

では禅恵の経歴を見ます。
○   弘安6年(1283年)誕生  参考資料として文保3年(1319年)春秋36年、夏臈19年又、春秋40年夏臈23年、と書かれていて差し引くと誕生日が計算できます。生まれは多治米村で、久米田池のそばに在ります。多治米寺(安楽寺)が菩提寺であると考えられます。

○   正安2年(1300年)得度(法名了賢)
17歳で出家して了賢と名乗っています。当時の久米田寺(西大寺系の真言律宗)の長老は、明智坊盛誉。伝法師匠の元で具足戒を受けたのだと思います。

○   嘉元2年(1304年)勉強の場として金剛寺を進められて、修行の場を金剛寺へ入山して、禅恵と
改名しています。

○   延元元年(1336年)当時足利尊氏の反乱が起きています。禅恵は53歳に成っていましたが、
「金剛資」・「紗門」と言う肩書きの無い僧でした。

○   興国6年(1345年)62歳の時「権律師」「権学頭」に成りました。

仏教の僧綱制には僧位・僧官が在ります。
僧官には、僧正・僧都・律師の三綱と言う役職が在ります。又僧位には、法印・法眼・法橋が在ります。「権」が付くと補助的な役割です。両方を持つのが普通です。

金剛寺のトップは、正(左)学頭で、次が権(右)学頭ですが、現在は「座主」と言われています。
禅恵は、62歳で権律師と成り、65歳で正学頭と成っています。69歳で学頭法印を受けています。
学問を蓄えてきたかいが認められて来ました。74歳で大和尚(だいわじょう)を授けられています。
天台宗では和尚(おしょう)と言います。

○   正平15年(1360年)77歳で権少僧都・学頭法印・大和尚位に付いて、学問僧としては最高の
位に付いています。

○   正平19年(1364年)円寂(えんじゃく)81歳で亡く成りました。

西代神社神楽

西代神社神楽 境内に二間半四方の舞場を設け緋の絨毯を敷き、四方に斎竹を立
て注連縄を張ります。神楽は、ナリモノ(笛、太鼓など)、舞方(頭舞と後舞)、後見役で構成されます。一人で二役三役を兼ねたり、また舞方も総ての曲を舞えないので分担して舞います。
 二代の西代藩主、本多忠統は西代大明神(西代神社の社名は明治に変わった)を崇拝し、土地・御輿・石造物などを寄進し、領民の郷土芸能である西代神楽を奨励したが、亨保17年(1732年)に伊勢神戸へ転封の時の送別のために西代大明神で奉納されたのが始まりとされています。この神楽の推移はその後消息不明になりましたが、弘化4年(1848年)に、西代村の松本主計と大道富三により再興されます。明治初期に松本吉三郎が伊勢太神楽を取り入れ、従来の曲と合わせて舞曲を整理統合し今日の形になりました。
 西代神楽は伊勢太神楽の流れを汲み、9舞1曲の10種類で構成され、獅子舞(悪魔祓いと招幸)と放下芸(曲芸的)に別けられます。 鈴の舞、四方掛、肩の舞、花の舞、銜え間、歌剣、吉野舞、神来舞、白獅子(以上は獅子舞)、玉の舞(放下芸)があります


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