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			<title>高野街道記気まぐれ補足 別館</title>
			<description>高野街道記気まぐれ補足　本館より少し違った資料を当たって見たいと思います。御近所にお住まいのＫさん他、かわちながの観光ボランティアの皆さんからも色々資料を頂いております。特にＫさんには本館別館共にお世話になっております。このブログをお借りしてお礼申し上げます。そしてドライアイと戦いながら古い書物を文章に起こしていますので時間がかかりますが、気長に見守ってください。また本館のほうもよろしく
追伸　高野街道記気まぐれ補足用地図も用意してあります。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kouyakaidou</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>高野街道記気まぐれ補足 別館</title>
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			<description>高野街道記気まぐれ補足　本館より少し違った資料を当たって見たいと思います。御近所にお住まいのＫさん他、かわちながの観光ボランティアの皆さんからも色々資料を頂いております。特にＫさんには本館別館共にお世話になっております。このブログをお借りしてお礼申し上げます。そしてドライアイと戦いながら古い書物を文章に起こしていますので時間がかかりますが、気長に見守ってください。また本館のほうもよろしく
追伸　高野街道記気まぐれ補足用地図も用意してあります。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kouyakaidou</link>
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			<title>「日野の口碑」は高野街道気まぐれ補足に異動します</title>
			<description>誠に勝手ながら『日野の口碑』は高野街道気まぐれ補足に異動します&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今まで有り難うございました&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
又違った記事を気まぐれでこちらにあげたいと思います&lt;br /&gt;
よろしくお願いします</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kouyakaidou/28098432.html</link>
			<pubDate>Thu, 18 Jun 2009 08:03:10 +0900</pubDate>
			<category>大阪府</category>
		</item>
		<item>
			<title>河内長野　『日野の口碑』１３</title>
			<description>聖観音と天誅組志士&lt;br /&gt;
　七の森の西ノ谷山田を、日野オクバタと云う。奥端の西上の山地を堂山と呼んでいる。堂山より南の高ン土をタコラと云う。ここは高良城のあった処である。美濃出の上段に田中屋敷跡ががある。ここは日野の冨豪で田中雅太郎氏と云った家の跡で、日露戦争頃に破産しその子孫は現在泉州岸和田市に住んでいる由である。この田中氏が、個人で2辰僕召詢派な聖観音様を屋敷の北の端の処に三間（5.4叩忙楊鳴瞭夏發買っていたが、大阪堂島の米相場に手を出し失敗して、家財共にこの観音様も差し押さえられ売られてしまった。お堂の正面に濡縁があって格子扉が嵌め込んであった。床高45臓憤貅楔淦）内陣90臓併絢棔飽未僚茲茲蟶彙鼎忘舛辰討られるので伸し掛かるような感じを受けた。観音様を持ちだして帰る時背後にあった天蓋を見て傷んでいるが修繕すれば良いと云っていた。是を見てきた私の父は「ア、日野の観音が」と謎のような言葉をはき「あれであったのか」と申し「滅多な事を人に話すでない」と云った事を思い出す。村から預かったのか、買っていたのか又当時の寺の檀家であったのか、それは解らないが、日野にあった在家には珍しい立派な観音様この時限りで日野から消えてしまったのである。観音寺の御本仏と考えても決して遜色はない立派な仏像であった事は私も知っている。&lt;br /&gt;
　お堂は河合寺に売って宝物殿になっているが、それを取り毀す時私も父と共に手伝いに行った、河合寺から毀しに来た村人の内に、私の伯父もいたからである。お堂の行先きはそんな訳で知られているが観音様を買った人もその行先きも解らない、村を出て行く観音様も是を見送った私の父も嘆くのは当然であろう。&lt;br /&gt;
　それから後、お堂の跡より夜更けになると真白な着物を着た、3値召蠅砲盡える大入道が現れて宙に浮いたようにフワリフワリと南にある田中屋敷跡の方に向かって行きフワァと消えてしまうのを見たという人あって、田中邸に幽霊が出るという噂が高まって、村中騒いだが、又いつの間にかその話しもきえてなくなったが、一時は非常な騒ぎであった。この田中雅太郎氏の先代田中弥三冶氏は、維新の天誅組に入っていたが先陣に出た連中は、大和の五条代官所を乗っ取り旗揚げをしたが、幕軍に包囲され、血路を開いて十津川に遁走したので弥三冶氏は遂に出陣しなかった。が後に神戸藩より唐丸籠で迎えに来られ、その裁きを受けたが、放免なって無事に生還した。討幕派の名士達がよく往来し、桐野利秋が二、三ヶ月も潜んでいたと祖父の弥冶兵衛が話していたそうである。この祖父は田中弥三兵衛氏とは従々兄弟であったので、服臣のように天誅組の人々との交信を密かに携えて往来した人であるから祖父よりの伝承は間違いない。そんな関係で田中氏破産の時も雅太郎氏が拙宅に来たり呼ばれて行った父を思い出す。この田中弥三冶（弥惣兵衛）が伊勢神戸に送られる際、私の祖父弥冶郎（弥冶兵衛）を呼び「俺が今度、神戸に行けば生きて再びお前と逢う事はあるまいから冥土の土産に、何か呉れる文句はないか」と申したので祖父弥冶郎は後記の狂歌を即座に詠んだのを弥三兵衛が腰の矢立を抜いてかきとりそれを片身に、唐丸籠に乗って伊勢神戸に送られた。後この狂歌が役に立って御救免になり無事に帰る事が出来たと非常に喜んだと云う話であった。弥三兵衛はその後は何事にもあれ、弥冶兵衛弥冶兵衛と云って頼りにして呉れたと祖父弥冶郎も喜んでいたと云う。その狂歌は「にごり出たので吉川切れて共に田中に土砂かかる」と云うのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 （註）にごり｜｜水郡（にごり）紀州藩に自首して出た　吉川冶太夫｜｜伊勢神戸藩士長野村代官を切って壺井村で自刃した。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kouyakaidou/28068327.html</link>
			<pubDate>Wed, 17 Jun 2009 07:37:38 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>河内長野　『日野の口碑』１２</title>
			<description>一の森から七の森&lt;br /&gt;
　松葉の辻より、南に一、二丁行くと美濃出と云う地名がある。一番かかりが田中秀雄氏の宅で、この家の南は山の尾端になっていて丁度真上あたりに、七の森と云う森があった。大きな古い木が四、五本残してあった。日野には一の森から七の森まで七つの森があったと云うが、いずれも皆霊験あらたかで、うかつに不浄なことをすれば即座に腹痛を起こすと云って恐れた。今は一の森と云う紅葉ノ滝の上に白髪大明神を祀る処以外、森は全くなくなった。&lt;br /&gt;
　二の森と云って前田の某氏宅地の辺りに四坪位の小さい塚があった森と云っても古い柊木が一本あっただけで二十年頃壊されて今はなくなったいる。&lt;br /&gt;
　三の森は寺田の端の処にあったが川の瀬変わりでとうの昔に流れておわった。四の森と名のつく所は広いので権現の森か、行者屋敷の森か、片袖の森か、この辺一帯の川縁に森の大木らしいのが一、二本ある、この川縁に明治三十年頃、村道を造った時に、森地、屋敷地等を切り下げて道路にしたので道端に数本残っていたのを覚えているが現場はどこか定かでない、この辺と思われるのは向井滝蔵氏の御子息宅の上手井路端に、五か六かの森があったと思うがそれも川に落ちて道框となっている。これを六の森とすれば、五のもりは四の森の中にあることとなる。&lt;br /&gt;
　七の森も何様か埋葬した処であったらしい。前田にあった塚は、高さが四尺（1.2叩飽未捻澤舛砲覆辰討い拭Ｄ佑料阿帽場があり私達は相撲を取って遊んだ位だから30嵳召蠅發△辰燭任△蹐Α七の森に極若い頃行った事があるが狭い階段になっていて、林に山桃の大木と杉、檜数本あったかと思う位で他に何もなかったが今は森もなくなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高野街道記気まぐれ補足もよろしくお願いします&lt;br /&gt;
わいわいマップも併せてお願いします&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
河内長野　喫茶atease高野街道を応援しています</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kouyakaidou/28036237.html</link>
			<pubDate>Tue, 16 Jun 2009 07:29:34 +0900</pubDate>
			<category>ボランティア活動</category>
		</item>
		<item>
			<title>河内長野　『日野の口碑』１１</title>
			<description>　お寺の行事と宗旨&lt;br /&gt;
　長い冬も過ぎて春先になると涅槃法要を観音寺で行い粳団子を造って釈迦を祀り是を撒く。団子は一年中保存して置いても黴ははえない。頭痛の薬になると云って重宝がられた。&lt;br /&gt;
　お盆は施餓鬼法要をして経木流しをし、十六日の晩に繰上げ、観音の盆踊をした。日野一般の宗派は最初真言宗であったが、その後天台宗に変わり、融通大念仏宗になった時もあるが延命寺の檀家となって元の真言宗に戻ったのである。その時の国司・郡司域は領主の都合に依ったものであるらしい。&lt;br /&gt;
　明治五年に廃寺となったのが延命寺の末寺と扱われた日野の寺は延命寺より寺歴が古いのであるが村の共有物のようになった為衰微の一路をたどったのであろう。近江の膳所藩より分家した伊勢の神戸藩主本多氏が延命寺に従属させたのである。&lt;br /&gt;
　日野には五百余石の殿様年貢が高過ぎたのである。近郷の他領より見れば高過ぎる年貢は村民を貧しくさせ、お寺にまで手が届かなかったのも無理ではなく信仰心厚かったからこそ今日迄よく保存出来たと云わなければならない。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kouyakaidou/28004186.html</link>
			<pubDate>Mon, 15 Jun 2009 07:39:26 +0900</pubDate>
			<category>大阪府</category>
		</item>
		<item>
			<title>河内長野　『日野の口碑』１０</title>
			<description>デカラカ餅と森と川&lt;br /&gt;
　明治維新頃まで毎年正月十五日の門松上げドンドが終わりお鏡開きを済ましてから村民一同が、大堂に集まり法要を行う、御酒を頂いてから裸祭りを始める、全員裸になって縁側に腰を掛けて、デンデンタノシイ、デタモノタノシと大声上げて互に押し合い押し出された者達は、お餅を搗きに廻る、搗いた餅は平に伸ばしてその上に小豆の餡をのせて端よりつまみ上げ固く握って油であげる。これがデカラ餅である。この餅を仏像に供えて後、帰る時各自が貰って行く、デカラ餅は疫病を患ったときにいただいて食べると病気が治ると云う有難いお供物であったが、維新後はなくなった。　　&lt;br /&gt;
　塚ン堂の塚は阿弥陀如来を祀るまで崇高な墓所であった。シンノウ森と云ったが死の森だ、四位の森だ、篠森であると皆勝手な解釈をするが、親王森と云う人や真野森と書く人もあって説は定まらないが廟所か墓所であったことは事実である。&lt;br /&gt;
　いつの時代か向井邸に見えた気高い身分のあるお方が高橋坂で殺されたが、その遺骸を葬ったと云う説もある。高橋氏の一族で堺に住んでおられる孫三郎様が先祖の墓地としてお盆には必ずお参りされ、同氏の死後も子孫の方が毎年続けて墓参されている。&lt;br /&gt;
　この塚ン堂の裏に坊様の石塔が十数基今も建っている。二十八年頃この堂に住んでいた向井末松氏方を訪れた時、如来様の横に三十四、五も白木製の位牌があるので拝まして貰った事がある。丈の高いのは45属未ら60其瓩い發里發△辰燭皆坊様の位牌らしく何某闍梨の霊と書いてあったので同氏に此位牌を観音寺に納めた下ださらんかと頼んだが、氏は「私はおまつりする約束があるから」と断られた。その後阿弥陀如来様を売りこの位牌を全部川原で燃やしてしまったと云うことを伝聞し惜しいことをしたと残念な思いをした。&lt;br /&gt;
　川の辺りは以前原始林であったらしい、と云うのは谷口の橋の辺りに、川底の青地に木の株が真黒に変色して直径3叩憤貍罅砲發△觝本が残っている。これは私一人だけでなく川へ遊びに行った人は皆見ておられることである。森下久松君もこれを見た一人である。根株であるからには地上では相当な大木であったに相違ないと話し合った。&lt;br /&gt;
　私等子供時代から若い頃、この川筋には昼でも河鹿（蛙）が沢山棲んでいたので鳴き声を聞いた、夜になるといよいよ川筋が騒々しかった、友人との話し声も聞き難い位であった、蛍の出る頃は丁度川の上を提灯行列のように青い光が点滅して周囲が明るい位見事であった。&lt;br /&gt;
　気分の勝れない時川辺に立つと自然と気分が澄み和んで来た位である、此川は以前、川見様の処から河端氏、勇佐氏、河浦氏の住居の辺りを流れていた事であるが、大水害毎に川の瀬が変わって現在の処まで東寄りになり替わったもので、前記諸氏の方面を河原と云う小字名になっている。昔の地形を今から考えると想像にも及ばないが、古人の話のように概況の地勢は残っていると思う。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kouyakaidou/27972099.html</link>
			<pubDate>Sun, 14 Jun 2009 07:53:27 +0900</pubDate>
			<category>大阪府</category>
		</item>
		<item>
			<title>河内長野　『日野の口碑』９</title>
			<description>巡礼まくれと塚ン堂&lt;br /&gt;
　観音寺の北側は日野谷と云う。湖を干拓した際、此谷が深く掘れて寺のすぐ北は断崖になったので、この処にあった道が欠け落ちて足巾位の細道となったから、寺へ参る巡礼、山伏達はよく足を踏みはずした、死んだ者怪我をする者が多く出るために道を付け替えたそうであるが、この崖を今も巡礼まくれと云う、この巡礼まくれから下方は昼なお暗い闇のような竹林であった。30造皺鵑辰臣櫃道の両側に茂っていたので暗くて見えないので盲目藪といった、今は明るくなっているが名だけは残っている。&lt;br /&gt;
　この盲目藪から東と南に道は分かれて、東へ行けば川の処で高向から来る道と一つになって川を越し観音講山を経て北峯に至る。南行すると今の観音寺、松葉の辻を経て美濃出に行き川を渡って滝畑道に続く、今の観音寺の南に大堂があり、阿弥陀堂が続きここは阿弥陀如来を祀っていた。この堂主を松葉と称したので松葉の辻もここから出たらしくその下方に松葉屋敷があった。今の中谷日出夫様の家あたりらしい。&lt;br /&gt;
　この堂の仏像阿弥陀如来を後世塚ン堂に移されたのである。塚ン堂の一部には前のお寺に使ってあったものが転用されたいる祭壇の前のお扉もそれである。&lt;br /&gt;
　大昔湖を切開いた時川は塚ン堂の西側を流れ開田の役に立っていなかったので、行基菩薩が塚ン堂の東の岩の狭い処を切りあけ、湾どの水溜まりをなくし、大堂の前を田地に開拓されたのである。それでこの辺一帯をお堂の前と呼んでいる。&lt;br /&gt;
　この干拓地は砂地であったため甜瓜の味のよいのが多くとれたらしい。十年程前、関西大学の先生が私を訪ねて来られ、日野は甜瓜の名産地であると古い本にでていた。昔名高い学者の家に日野と縁のある法師が親交の間柄で訪問した際にこれは日野でとれた甜瓜であると手みやげに持って行ったらその親友の学者が早速食べて見てこんなな甘味のある甜瓜を頂いた事はないと喜んだ記事を読んだので今も作ってあるかと尋ねられたが、日野の堂ノ前で作った瓜類は味が良いのが名物に成る程今は作ってない。&lt;br /&gt;
　例え作っても自家用だけであると云い、そらから古い事を色々話し出すとその先生も行基菩薩の開田の奨励の事共を私に話して下さったのである。そんな訳で先祖から伝わった話しも丸切根もない事を云っていたのではないと理解した。&lt;br /&gt;
　今の観音堂は南北朝時代に残った寺々の遺物類を集めて出来たものであった。釈迦の涅槃像の軸も元は釈迦寺の遺物であった。&lt;br /&gt;
　大日寺の大日如来もその通りである。阿弥陀堂も松葉氏がその組内に託して村を出て行ったのであろう。&lt;br /&gt;
　観音寺の大堂も精々四、五間四面の堂であったのを明治二十年頃腐朽したので建て替えたもので昭和四十六年の春まで建っていた庫裡のような二間四面の建物となった。その頃阿弥陀堂も崩れたので現存する塚ン堂に建て替えられ移したそうであある。御本尊の荷造りを完全にして、河端政市様が一人で背負って塚ン堂へ運んだと御本人より私は聞いた。&lt;br /&gt;
　古い上に傷んだ箇所もあるので、荷なって運べばヘタをすると毀すからでもあったがとても一人では運べないので組の人達は困っている処へ河端様が来合わせ、私一人で運んで進ぜようと云って完全な荷拵らえをし是を背負って行ったと話された、この河端政市様は丁度若い盛りで非常な力持ちであった、力自慢の若衆もこの人には勝てなかったということである。阿弥陀如来様をこの松葉辻の近くに行基菩薩が祀られたのは開基開拓等に関係があった。&lt;br /&gt;
　松葉辻の地蔵様を迎い地蔵というのも曰くがあると思う、観音寺の再建地はこの阿弥陀堂の境内であったかも知れない、この堂の土地を堂の上と云う小字になっている、寺の上とは云わない事から考えても観音寺より阿弥陀堂の方が古い事がわかる、人間は新しい事でも日にちが経つと忘れ勝ちになる古くなれば成る程忘れるのが当然であるのに古人が伝承したいる処に根拠がないなど云えないと思う。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kouyakaidou/27942684.html</link>
			<pubDate>Sat, 13 Jun 2009 08:09:25 +0900</pubDate>
			<category>大阪府</category>
		</item>
		<item>
			<title>河内長野　『日野の口碑』８</title>
			<description>汐滝の主のこと&lt;br /&gt;
　汐滝のことは前述したがその主は何であるか、正体を見たものがないので色々取沙汰されている白竜のような大蛇であるとか真白な狐だとか、金色の古狸だなどと云われている。&lt;br /&gt;
　近頃でも闇夜帰りに不思議な事があったとか、今夜妙な事があった等噂さが出る程であるから昔は随分恐れられた事であろう、雨でも降れば水嵩が増し轟々の音響物凄く二、三百米離れても遠雷のように響いていたのであろう。&lt;br /&gt;
　今は此滝の真上に府道が通じ、バスが走り自動車も頻繁に疾走したいるが大昔は、松尾峠を越して三日市に出るのが多かった。&lt;br /&gt;
　此府道の前身である村道が明治三十二、三年頃3旦劼瞭擦出来た時に村民は大変便利になったと非常に喜んだものである。広い道が出来て心細さは減ったが車が多くなって怖ろしい位往来する。&lt;br /&gt;
　此滝の主も昔のように毎年四月八日に甘茶の法要、十一月二十五日に甘茶の法要をすることもなくなったが、車の警笛や排気ガスの激しさに顔負けして何事もなく潜んでいるらしいので安心である。&lt;br /&gt;
　盛夏の頃になると若者達の単車、四輪車で川は賑わう、夜になって川原で火を燃やす者も多く出て来た。食べた後のゴミから岸辺で用達の汚物も多くなり又若い男女の逢引きの場所と変わった。&lt;br /&gt;
　川の河鹿も鳴かなくなり蛍も減り川の魚もいなくなった。滝の主は何処かへ転宅したのであろうか。&lt;br /&gt;
　汐滝にドライブに来るのも良いがこの自然美の風景と風紀を乱さぬようにして欲しいと思う、汐滝の岩塩も赤色に変わってしまったのも時代の所為であろうか。&lt;br /&gt;
　天野山より三日市に、泉州から大和に向かう東西の日野の大手道は、天日山観音寺を経なければならないが、観音寺の南降りに日野共同墓地がある。&lt;br /&gt;
　昔は個人墓であったが行基菩薩と云う偉い坊様が観音寺に来られ、此寺を中心に村を一つに纏める事を教え田地を造る法も示され、村の開発のために逗留して指導されたので、名主を中心に村人は協力した。&lt;br /&gt;
　その時墓地も現在地に定められ正面に南無阿弥陀仏と自ら題字を書かれて石碑を建てられた現在ある碑がそれであると云う、碑の横に土堤がある此土堤から上の方を本墓と云ってその当時の村人の墓地であった。一番かかりにある墓地は此墓地の造成に力を入れた家の物だそうである。土堤より下の墓地はその後に日野へ来られた家の墓地だそうであって、開村に縁がなかったので無縁墓と云っていたが、今は本墓内には最近縁故のない人々も入って門家墓の形態が無くなった。昔は厳格でいくら努力があっても、財産家でも墓地だけは仕方なかったのである。だから土地の旧家を知ろうと思えば先ず墓を見よ、と云ったそうである。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kouyakaidou/27881876.html</link>
			<pubDate>Thu, 11 Jun 2009 07:56:22 +0900</pubDate>
			<category>散歩</category>
		</item>
		<item>
			<title>河内長野　『日野の口碑』７</title>
			<description>　日野の大日如来は九間四間の大堂の中に居られたと伝え聞いたが今の日野の大日如来を本壇祀りにしても六間四面もあれば充分に立派に祀れる。&lt;br /&gt;
　ともすれば大日様を天野に預け、天野の小さい如来様を頂いて帰ったのも道理である。日野の大堂と云っても先に建てた堂は四間四面の処で縮こまっておられたのである。大日様がお話なさるなら天野の大日様は日野の大日様に苦労を掛けて誠に済まんと申されるであろう、日野の大日様も元の天野に帰りたいと仰ることであろうが流石は御仏様の事一言も不足を云わず黙って笑顔で凡俗を見そなわしておられる、今度京都より御化粧を済まして帰られたら鉄筋コンクリートの収蔵庫の中に堅苦しく御住居なさる事であろうが御気の毒な感じもする。これも運命と諦められて因縁と因果をお示し下さる事であろう。&lt;br /&gt;
　観音寺は大昔、天野山のお寺続きの所にあった。&lt;br /&gt;
　天野山の創建時代に日野のお寺も建ったそうである、天野山の今のお寺より南に延びて日野谷口まで建っていた、村界まで坂一つ登れば良いのである。この村境から東に少し入った処に観音寺建っていた。それが天野山の奥の院であったから天日山真野院観音寺と呼んだそうである。&lt;br /&gt;
　全盛であった藤原の一族が勢威衰え遂に都を追われて泉州方面に落ち延び、数千石の寺領を有する天野山の領域を荒らす事になり、降盛になった武家勢力と藤原氏の争いが始まり乱が起こった頃、何れの時に焼かれ、日野の寺院も殆ど炎上したことは先にも述べたが、観音寺もその頃焔火に消え去ったらしい。&lt;br /&gt;
　寺を焼かれた寺僧達は再起する力もなく土着して終わった。その後せめて根本の天日山観音寺だけでも再建しようと相はかり八坂神社の境内の一部（現在地）に堂宇建てたが、御本尊である観音様を祀るつもりであった筈が天野山より大日如来を早く迎えるよう急がれ迎えようにも堂がなく詮方ないままに観音様のお堂を借って今日に至っていると云う。観音寺の御本尊である観世音菩薩は座像でお身丈1.8丹未寮惨儔擦如△匹海冨豪の家に預けてあったが何分にも永年に渉っての事で預かった人も分からなくなり忘れ去られた結果、御本尊が無いままである最近観音寺は立像で85属未隆儔餐あったように書いているひともあるが、大正八年頃に観音寺の住職伊達入道雲海と云うお坊様が何処からか持って来てお祀りしていたことを覚えている、此人は九州細川藩士で天誅組に加担しその生き残りであると申し侍従大納言中山忠光卿に侍属していたとその当時の事を私方で話された事があった。そんな住職だから顔も広く何処から持って来た88属未隆儔四佑鱆っていた。&lt;br /&gt;
　このお坊様の後、京都の人で外村と云う坊様の時分に又無くなったのである。&lt;br /&gt;
　昭和の初め頃山田という僧侶が日野の向井さんの観音様を一時的に預かっておられた。&lt;br /&gt;
　この観音様も85属未領像であった今の向井さんの三代前の当主が天理教に入信の際も、観音様を預けられたことがあった。外村僧の頃であったと思う。&lt;br /&gt;
　そんな訳で観音寺には私の知る限りには本尊の観音様はなかった。個人や家にも盛衰はあり、お寺やお宮にも降替がある、日野の観音様もどこかで奇特な人に祀られて時節の来るのを待って居られるのであろう。&lt;br /&gt;
　今観音寺には大日如来と般若経六百巻の内四百巻足らずと釈迦の寝像の掛軸だけである昔は什器宝物が沢山あったらしいが何の記録もない、この寺に足利尊氏が宿舎としていた頃の日記が幕末の時分あったと云う、楠正儀の持ち物ものこされていたと云うが散逸したらしい、人の世の移り変わりと共に宝物まで流転の姿を示すものであろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高野街道気まぐれ補足もご覧ください&lt;br /&gt;
河内長野　喫茶アットイーズは高野街道を応援しています</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kouyakaidou/27849804.html</link>
			<pubDate>Wed, 10 Jun 2009 07:56:27 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>河内長野　『日野の口碑』６</title>
			<description>　昔お寺のあった頃は此汐ノ山の大日堂で法要して、七日目の上りの日に甘酒をお供えしてジョセン坊岩に献納し、参拝者や通行人にも振舞って施行したのであるがお寺がなくなってから紅葉滝の不動様で行っていたが今も同不動様で正月の二十八日に施行している。&lt;br /&gt;
　神縄懸は虚空菩薩の霊を講じ施行した由であるから、南浦か中ノ階に此祈祷堂があった事と思う。&lt;br /&gt;
　現在も神縄懸と云う地名は駈降り坂の下の処を云っている。此処に大〆縄を張った事であろう。金滝藪あり滝あり、寺があったからには、南光寺も此処にあった事になる。&lt;br /&gt;
　汐の山の出城、城塞の上の谷を蓮華谷と呼んでいる。　&lt;br /&gt;
此所の小池に蓮根作っていたので蓮華谷と名付けたそうである。昔は高向と日野とは交通が不便であった、悦過の下の谷坂を一直線に川面まで降って唐土坂を登り白玉坂を経て古坊に入ってから中ノ階南浦を下って腰路（越道路）を川ノ上に沿って日野谷口に至り、川を渡って観音寺より北にたどり着くが、この道は細くて90詑らずであったし、登り下りが多くて難渋であった。&lt;br /&gt;
　中ノ階より蓮華谷を登って日野谷の尾根の城跡を通る道は広いし危なくなかった。日野谷城西下は天野山である。中ノ階に大日如来が祀ってあったならば天野に運び出る方が易しかったであろう。&lt;br /&gt;
　すると此仏を祀る寺が潰れた時、天野に一時預けたと云う説もあるが丸切嘘の作り事と思えない。&lt;br /&gt;
　天野のお寺とは法縁続きであった。&lt;br /&gt;
　由縁は天日山と云う名称からしても分かるであろう。天日山観音寺の御本尊は観世音菩薩であった、&lt;br /&gt;
　お寺が焼け滅びた時、誰かに預かって貰ったと云う話しもあった。&lt;br /&gt;
　後より観音寺を建てて先づ天野より大日如来を迎えたが肝心の御本尊観世音菩薩を祀る堂ができなかったらしので預け放しになっていた。&lt;br /&gt;
　観音様を祀る堂に仮住居の大日様が這入られたのだから観世音菩薩も住居があくまで待たねばならぬ事になって終わったのである。&lt;br /&gt;
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高野街道気まぐれ補足もご覧ください&lt;br /&gt;
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			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kouyakaidou/27817320.html</link>
			<pubDate>Tue, 09 Jun 2009 07:49:00 +0900</pubDate>
			<category>祭りと伝統</category>
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			<title>河内長野　『日野の口碑』５</title>
			<description>そこで次の歌と地蔵尊、五輪塔からして此処の寺は南光寺であったかも知れない。&lt;br /&gt;
　ヒノのナコジのカラタキ藪でオコヤ恋しのトリがナク。　この歌から、久保長者の子息と南光氏の娘の恋物語が思い出される。&lt;br /&gt;
　今もこの物語と歌が伝わっている。そして南光も久保もその姓は現存している。南光寺の娘オヤコは絶世の美人であった。&lt;br /&gt;
　布施を乞う修行僧や、乞食さえも差しのべた優しいその手をおし戴いたということである。此娘と久保長者の小金丸と兼ねてから婚姻が整っていたが、ある日修験風のの武士が南光の家人の不在に乗じてオコヤを犯したので是を恥じたオコヤは自害して果てたので、小金丸はこれをきき南光寺方に走り来ると小金丸宛の一通の遺書を示され是を読んで非常に悲しみその心を哀れみ、自分も彼女の後を追って自害して心中立をした。&lt;br /&gt;
　この為両家に於て供養をしてそこに二基の五輪塔と石地蔵を刻み祠を建て祀ったと云う話である。&lt;br /&gt;
　又此藪の川辺より東西に二つの金を掘った孔があると云う。久保長者が川の東と西の二ヶ所を穿って金脈を探したが見当たらず身代を潰したそうである。&lt;br /&gt;
　中ノ階の上方に日野谷城の出城、塩ノ山城塞があった、川向かいの横大道を正面に眺め、敵兵を弓矢で迎えるのに適当な要害であった。&lt;br /&gt;
　中ノ階の北の坂道を塩跡坂と云ってその下は古坊である。南浦ノ坂を駈けおり坂、川を越して紅葉坂、此処に毎年十一月廿五日に汐滝の主を鎮封する行事をし、神縄かけと云って大〆縄を張った。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kouyakaidou/27782876.html</link>
			<pubDate>Mon, 08 Jun 2009 07:27:19 +0900</pubDate>
			<category>大阪府</category>
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