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幸田 野場西城祉

幸田 野場西城祉



    県道325号線 野場西信号を北へ300m程進んだ赤川と交差する左手の集落が城跡になります。
  集落の中心部に野場城跡の石碑と看板が在り、石碑の場所が土塁断面です。
   現在は城跡を示すものは何も残っておらず わずか、4、5メートルの果樹園のある小丘が城跡を示すことになります。
   大須賀胤重が三河国へ来住し、15世紀に築いたと云われています。1527年野場に生まれた胤高は家康に忠勤し、家康の一字を賜り“康高”と改名し、徳川20神将の一人に数えられています。
   「高天神城攻め」の戦功により、1578年遠江国 横須賀城3万石へ移りました。 2代城主夏目氏は、1563年「三河一向一揆」の際、夏目吉信・大津半右衛門・乙部八兵衛らは一揆方として、この野場城に立て篭もったが、家康の指示のもと 松平伊忠に攻められて落城、廃城となっています。
 
  その後の話として夏目吉信は三方が原の戦いで家康軍が大負けした時、家康の身代わりとして武田軍に攻め入り、家康軍の意地を示して名誉の戦死を遂げています。  
   これは三河一向一揆で、反逆した罪を許された家康公の恩に報いたということで、三河武士団の結束を高める大きな要因になっているようです。


 以上の顛末を見るにつけ、家康軍は本当に殺戮しない軍隊だったのだろうと思われます。敗軍の将の夏目氏は一命を助けられ、三方が原の戦いで最高の働きをし、家康公の天下統一に大きく貢献し、平和国家樹立の石杖になったようです。
 


通りからの入り口の標識
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かなり前からあったと思われる 野場城跡の石碑
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最近できたと思われる説明板  史跡名称は最終的に野場西城土塁に落ち着いたよう。この野場西城で夏目信吉や大須賀康高のような英雄が輩出したようです。
 
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高さ4,5メートルの土塁
 
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現在は果樹園となっている城跡土塁
 
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野場城跡のすぐ近くを新幹線が走っています。
 
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