高村光太郎連翹忌運営委員会のブログ

4/2は高村光太郎(1883〜1956)の命日、連翹忌(れんぎょうき)です。
昨日に引き続き、信州安曇野の碌山美術館さん関連で。

過日、同館から贈っていただいた『碌山美術館報 第39号』。

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毎年、年度末に刊行される年刊ですが、毎号50ページを超える分厚いものです。今号は68ページもあります。ただ厚いというだけでなく、内容も充実。頭が下がります。

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過去の号でもそうでしたが、同館が顕彰する碌山荻原守衛の親友だった光太郎、そして智恵子についても言及されています。


今号では、まず上記の表紙が守衛の代表作の一つ「坑夫」(明治40年=1907)の紹介。パリ留学中の習作で、これを見せられた光太郎が感銘を受け、ぜひ日本に持ち帰るように勧めた作品です。そうした経緯の説明が為されています。ご執筆は前館長の五十嵐久雄氏です。

それから同館の開館に奔走した荻原碌山研究委員会委員長 横沢正彦関連の記事で、昭和29年(1954)に東京芸術大学石井鶴三研究室から刊行された『彫刻家 荻原碌山』(光太郎が寄稿し、題字も揮毫)などに触れられています。

また、同館で昨秋行われた武井敏学芸員による美術講座「新しい女」の筆録。物心両面で守衛を助けた新宿中村屋創業者・相馬愛蔵の妻・黒光がメインですが、同じく明治から大正にかけに「新しい女」と称された平塚らいてう、伊藤野枝、松井須磨子らと並んで、智恵子についても詳しく言及されています。黒光や智恵子との関連で光太郎にも。

さらに、やはり昨秋の同館開館60周年記念行事の一環として開催された建築家・藤森照信氏によるご講演「碌山美術館の建築と建築家について」の筆録。講演で使われたスライドショーの図版も豊富に掲載されています。


ご入用の方は、同館まで。


【折々のことば・光太郎】

この小屋の中にはいろいろの有象無象が充満してゐますが、それらが消え去つたあとに、昔の人たちが出て来ていろいろ咡きます。最後に智恵子が出て来ます。食事の時でも執筆の時でも、僕はいつでも智恵子と二人ゐます。人間は死ねば普遍的になります。生きてゐる間は、対ひ合つてゐるだけの二人ですが、死ねばどこへでも現れます。

談話筆記「(今日はうららかな)」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

戦後の7年間、逼塞していた花巻郊外旧太田村の山小屋。そこに現れる「昔の人たち」の幻影。その中にはかつての親友、碌山荻原守衛の姿もあったのではないでしょうか。

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光太郎の親友で、早世した碌山荻原守衛を顕彰する信州安曇野市の碌山美術館さん関連です。

まずはイベント情報。 
期   日  : 2019年4月22日(月)
会   場 : 碌山美術館  長野県安曇野市穂高5095−1
時   間 : 10:30〜
料   金 : 無料

プログラム

 10時半〜      ミュージアムトーク(碌山館)
 1時       ミュージアムトーク(第二展示棟)
 1時半〜3時    碌山忌コンサート
 4時〜         墓参
 5時20分〜50分 碌山研究発表 「『荻原守衛日記・論説集』の発刊と新発見」  講師 武井敏学芸員
 6時〜7時45分   碌山を偲ぶ会 会場 グズベリーハウス(会費1,000円)

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明治43年(1910)に、数え32歳で亡くなった守衛を追イメージ 2悼する碌山忌。109回めとなるそうです。

毎年、研究発表が行われており、今年は同館学芸員の武井敏氏による「『荻原守衛日記・論説集』の発刊と新発見」。『荻原守衛日記・論説集』は、昨秋、同館から刊行されたA4版ハードカバー、571頁という厚冊で、ほぼオールカラー。日記の部分は、日記そのものの画像が全頁掲載され、もちろん活字にもなっており、さらに詳細な注釈も。舌を巻くようなものすごい資料です。

同館では平成21年(2009)にカタログレゾンネ的な『荻原守衛作品集』、同27年には『荻原守衛書簡集』を刊行し、この『荻原守衛日記・論説集』をもって、守衛の作品、資料を網羅する三部作の完結と位置づけているとのこと。

ある意味、同書のプロモーション的な発表になるのでは、と思われます。

当方、昨年は雑用に紛れ、行けませんでしたが、今年は参上つかまつります。


もう1点、明日から開催の企画展。 
期   日  : 2019年4月20日(土)〜9月29日(日) 会期中無休
会   場 : 碌山美術館第二展示棟  長野県安曇野市穂高5095−1
時   間 : 9:00〜17:00
料   金 : 一般 700円  高校生 300円  小中生 150円 障がい者手帳をお持ちの方は半額
         20名様以上団体料金 大人600円/高校生250円/小中生100円

1910年(明治43)年、荻原守衛(碌山)が亡くなる直前に完成させた《女》は、明治以降の彫刻では第1号となる重要文化財指定を受け、今日においても日本近代彫刻の傑作として評価されています。
腕を後ろ手に組みながら上体は天空に向うポーズの表現は、相克を象徴するかのように浪漫性に溢れ、膝から頭頂部へ繋がる螺旋状の上昇感は、荻原が求めていた彫刻の生命を余すことなく伝えています。
《女》には、荻原が思いを寄せた女性、新宿中村屋の女主人、相馬黒光(本名:良)の面影が心象のモデルとなって表れています。苦難の姿とその先にある穏やかな表情は、悲恋の絶望と苦しみを克服し、美の境地へと昇華した荻原自身の心の姿でもあります。
本展では、黒光への想いが制作背景にある《文覚》、《デスペア》の二作品にも触れ、傑作《女》に見る荻原の精神的な深さと芸術の高さ、またそれらの時代における新しさについて迫ります。

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ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

しかし私は今、希望に満ちてゐます。山に来てから健康は倍加するし、未来の仕事は大きいし、独居自炊孤座黙念、胸のふくらむ思です。

散文「消息 二」より 昭和21年(1946) 光太郎65歳

空襲による二度の罹災で、数多くのものを失った光太郎。しかしかえってさばさばした思いでした。裸一貫やり直そう、みたいな。

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新聞各紙から。

最近の新聞各紙から、光太郎智恵子がらみの記事を紹介いたします。

まず、4月12日(金)の『東奥日報』さん。 

十和田湖遊覧船が今シーズンの運航開始

 昨年11月から冬期間の運航を休止していた十和田観光電鉄(青森県十和田市)の十和田湖遊覧船が12日、湖畔休屋で運航を再開した。初日は台湾人観光客や招待客らが双胴船「第3八甲田」に乗り込み、雪残る山々のパノラマ、青みを増す初春の湖水に見入った。
 再開したのは休屋を発着し、御倉半島と中山半島を巡る約50分のコース。招待客が乗った午前11時45分発の53便ではセレモニーを行い、観光シーズン開幕を祝った。船は湖畔の「乙女の像」や、湖上に浮かぶ「恵比寿大黒島」といった名所近くを周遊した。
 別便で遊覧した台湾人の施正忠さん(50)は「雪のある景色がとても美しい。満足している」と笑顔をみせた。十鉄によると、2018年度の乗船客は、欠航が多かった影響で前年比約9千人減の11万人。うち外国人観光客は1万1千人と1割を占める。
 同社の白石鉄右エ門社長は「今年の目標は12万人。船の魅力を国内、外国のお客さまに合わせて伝えていきたい」と意欲を語った。
 19日からは休屋〜子ノ口航路も再開し、11月まで1日最大18便を運航する。料金は大人1400円、子ども700円(団体割引あり)。

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カルデラの外輪山にあたる湖周囲の山々には、まだ雪。これから桜の季節なのでしょう。ぜひ足をお運びください。


お次は『福島民友』さん。翌4月13日(土)の記事です。 

「桜生かし」まちづくり 二本松で全国シンポ、意見交わす

 全国の桜の保存団体や樹木医らが集う「全国さイメージ 4くらシンポジウム」は11、12の両日、二本松市で開かれた。県内外から約700人が参加し、「ほんとの空に さくら舞う」をテーマに桜を生かしたまちづくりや地域の振興について考えた。
 シンポジウムは、桜の名所づくりや花を核に自然豊かな地域づくりに取り組む日本花の会(萩原敏孝会長)と、同市の行政、観光団体などでつくる実行委員会の主催。本県では1988(昭和63)年の三春町に次いで2度目。
 芥川賞作家の玄侑宗久さんが「桜〜『無常』と『あはれ』の花」と題して記念講演した。玄侑さんは、日本人が桜を好む理由について「物事の両極端を受け入れるのが日本人の心情。すぐに散りゆく無常さと花開いた際の『あはれさ』を1本の木で体験できる」と語った。
 パネル討論も行われた。日本花の会の和田博幸さんを進行役に、にほんまつ観光協会長の安斎文彦さん、県樹木医会の鈴木俊行さんらが桜を核にした二本松の魅力発信、桜の保存活動などについて意見交換した。
 最終日の12日は、参加者が二本松の桜の名所などを巡った。

光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)から採った復興の合い言葉「ほんとの空」を冠した「全国さくらシンポジウム」関連です。


同じく4月13日(土)の『日刊ゲンダイ』さん。ネットで見た記事ですが、紙面に掲載されたのかどうか。とりあえず引用させていただきます。 

雄星に大谷に佐々木 なぜ岩手が“怪物”を3人も輩出できたのか

 単なる偶然なのか、それとも必然なのか。
 先日、岩手・大船渡高校の佐々木朗希(3年)がU18高校代表合宿で高校生史上最速の163キロをマーク。新たな怪物誕生にメディアは大騒ぎした。佐々木が誕生した岩手は大谷翔平(エンゼルス)と菊池雄星(マリナーズ)の出身地。わずか10年で3人の“怪物”を輩出したことになる。
「岩手の人沈深牛の如し 両角の間に天球をいだいて立つ かの古代エジプトの石牛に似たり 地を往きて走らず企てて草卒ならず ついにその成すべきを成す」
 詩人の高村光太郎は著書「岩手の人」で、岩手県民をこう表現した。牛のように慌てず一歩一歩前に進み、事を成し遂げる気質をつづったのだ。
■県民性、食文化、部活動
 県民性研究の第一人者で、㈱ナンバーワン戦略研究所所長の矢野新一氏は「普段は物静かながら、何かの瞬間に大きな力を発揮する傾向がみられる」と、こう続ける。
「岩手の県民性を実証する企画をテレビでやったことがある。リンゴをたくさん入れた紙袋を持ち、信号待ちしているときに、わざと転んでリンゴをこぼす。すると、のんびり信号待ちしていた人たちが一斉に走って来て、散らばったリンゴを拾い始めたのが印象的でした。岩手では外国人観光客のために作ったおもてなし対策の『10手』が盛り上がっている。何かの目標に向かって一生懸命になり、力を発揮する。長い冬は家にこもるという生活から時代が変化し、県全体に活気が出てきている点も見逃せない」
 食生活にもヒントがありそうだ。
 2016年度の総務省家計調査によると、岩手はわかめ、こんぶの消費量が全国1位。魚介類もよく食べる。ほうれんそう、大根が1位で、にんじん、ごぼうも上位。果物消費もトップだ。さらに、東北に限れば豆腐の消費量も1位。かつては多くの家庭で豆腐作りをやっていた名残という。
 横浜創英短期大学名誉教授の則岡孝子氏(管理栄養士)がこう言う。
「岩手の人たちはオールマイティーの栄養素を食事から取り入れているのでしょう。海のもの山のもの、寒い地域のものなど、栄養バランスが優れていると思います。スポーツ選手の筋肉の発達において、魚介類、豆腐などに含まれるタンパク質と、魚介類などに含まれるビタミンB6、B12を合わせて取ることで、よりタンパク質の代謝が良くなる。ビタミンB6、B12は体に保存できないだけに、タンパク質と一緒に摂取できるのはプラスです。野菜や果物はビタミンや食物繊維、海藻類は食物繊維やヨウ素が多く含まれるため、新陳代謝が高まり、より多くのエネルギーを発揮する効果がある。さらにカルシウム、鉄分が骨や体の成長を促します」
 スポーツへの関心も高い。
 岩手は全国高体連加盟登録状況によると、体育系の部に登録する生徒の加入率(平成30年8月)が60.8%で全国1位。男子中学生100人あたりの軟式野球部員は全国2位。男子高校生100人あたりの硬式野球部員数は全国5位だ(17年度)。
 岩手県教育委員会事務局・保健体育課統括課長の清川義彦氏は「中高の部活動はもちろん、スポーツに取り組む子供、指導者が一生懸命取り組むという土壌ができつつあるのではないか」と分析。岩手県内の高校野球の監督は、「昔から根気強く、純朴で真面目な生徒が多い。寒い時季にも熱心に運動に取り組み、競技力を高め、体をつくっていく取り組みが積み重なった結果だと思う」と話す。
 さまざまな要素が重なった結果、ダイヤモンドの原石が誕生したようなのだ。

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こちらは光太郎詩「岩手の人」(昭和24年=1949)が引用されています。この詩、岩手のスポーツ界が語られる際によく使われます。今年、釜石市などで開催されるラグビーW杯関係で『岩手日報』さん、平成28年(2016)の岩手国体にからめて『盛岡タイムス』さん、同年、競歩でリオ五輪に出場した花巻出身の高橋英輝選手を紹介する『岩手日日新聞』さん、やはり大谷選手がらみの『岩手日報』さん一面コラム「風土計」

なぜ岩手に”怪物”が現れるのか、ということで、いろいろ考察されていますが、当方は、歴史的に見て、やはり「蝦夷(えみし)」のDNAが色濃く残っているからではないかと考えます。平安時代の阿弖流為(アテルイ)はもちろん、源義経をかくまって鎌倉と対立した奥州藤原氏にも蝦夷の血が流れていましたし、下って室町時代のコシャマインや江戸時代の沙牟奢允(シャクシャイン)などのアイヌの首長ら、まつろわぬ人々のエネルギーというか、血に刻まれた反骨心というか、そういったものが21世紀になっても形を変えて現れているように思われますが、どうでしょうか。そうした岩手人の魂を光太郎は詩「岩手の人」に表したようにも思えます。


最後に昨日の『東京新聞』さん。一面コラム「筆洗」で、ノートルダム大聖堂の火災を取り上げ、光太郎に触れて下さいました。 

筆洗 4/17

 「宿命」。古い塔内の暗い片隅の壁にそう深く刻まれていたそうだ。どうやら中世の人間が書いたものらしい▼その文字を見つけたのは作家のビクトル・ユゴーである。「宿命」の言葉に刻んだ人間の悲痛さを感じ取ったという。どういう人間が書いたのか。そこから着想を得て執筆したのが宿命に翻弄(ほんろう)される人々を描いた小説『ノートル=ダム・ド・パリ』(一八三一年)。塔とはパリのノートルダム寺院である▼ユゴーが見た言葉も消えうせたか。世界遺産ノートルダム寺院の大聖堂の大火である。尖塔(せんとう)や屋根が崩落するなど、甚大な被害が出た。市民の悲痛な顔。「宿命」と呼ぶには受け入れがたい現実である▼<あなたを見上げたいばかりにぬれて来ました、あなたにさはりたいばかりに、あなたの石のはだに人しれず接吻(せっぷん)したいばかりに>。パリ時代、大聖堂に毎日通ったという高村光太郎の「雨にうたるるカテドラル」。荘厳なる美と歴史。十二世紀着工の大聖堂はパリ市民のみならず、人類全体の宝であった。それが失われた▼修復工事中の失火が原因とみられている。フランス革命にも二度の世界大戦にも難を逃れた大聖堂が失火で炎上したとはなんという皮肉な宿命なのか▼喪失感の中にも再建の声が出ている。人類の宝であるなら人類全体で手を貸したい。再建と復活。それが大聖堂のこれからの宿命と信じる。


人類の宝であるなら人類全体で手を貸したい。」そのとおりですね。


【折々のことば・光太郎】

雪中生活の鮮新さ、小屋を取り巻く潮騒のやうな風声の物凄さ、皆生れて初めての体験です。この王摩詰が詩中の天地に、今日の場合、安全に生きてゐられるありがたさと済まなさとを痛感してゐます。勉強あるのみ。

散文「消息 一」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳


太平洋戦争が終結し、この年の秋、光太郎は鉱山の飯場小屋を譲り受けて、花巻郊外太田村に住み着きました。当初は、青年時代から絶えず希望していた、人里離れた自然に囲まれての生活の実現という、ある意味無邪気な夢想という面があり、そこで、王摩詰が語られています。王摩詰(王維)は唐代の詩人。西安郊外の輞川(もうせん)に隠遁し、芸術三昧の生活を送りました。

そして迎えた初めての厳冬。万年筆のインクも凍るマイナス20℃の寒さ、胸の高さまで積もる豪雪、吹雪の夜にはあばら屋の隙間から舞い込んで寝ている布団にうっすらと積もる雪……。それがやがて、戦時の翼賛活動で多くの若者を死に追いやったという反省に、光太郎を誘って行くのです。

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昨日の午前中、パリからショッキングなニュースが。 

ノートルダム大聖堂で火災 93mの塔が焼け落ちる

 フランスのパリ中心部にある世界的な観光名所、ノートルダム大聖堂で15日午後7時ごろ(現地時間)、火災が発生し、教会の尖塔(せんとう)などが燃え落ちるなどの甚大な被害が出た。仏メディアによると、当時は大規模な改修工事が行われており、その足場付近から出火した可能性があるという。
 AFP通信によると、消防当局は火災は午後6時50分ごろに発生したと説明。現場では、大気汚染で汚れた聖堂をきれいにするための改修工事が数カ月前から行われており、屋根に取り付けられた足場部分から燃え広がった可能性があるという。火は屋根付近を中心に瞬く間に燃え広がり、大聖堂は炎と煙に包まれ、出火から1時間後には、高さ93メートルの尖塔も焼け落ちた。出火から4時間たった午後11時も燃え続けている。同日夜、現場で記者会見したローラン・ヌニェス内務副大臣は、「ノートルダムを救えるのか、現時点では見通しが立たない」と語った。消防士数人が負傷したという。
 セーヌ川に挟まれたシテ島に立つノートルダム大聖堂は、12世紀に建造が始まり、改修や増築を繰り返した。1991年には周辺の歴史的建築物などとともにユネスコの世界文化遺産に登録された。年間1200万人が訪れるパリ屈指の観光名所として知られ、日本人観光客も多く訪れる。
(『朝日新聞』)

夕方の報道では鎮火とのことでしたが、人的被害を含め、どの程度の被害が出たのか、まだ詳しいところがよくわかりません。既報では、尖塔が焼けて崩れ落ちたり、消火に当たった消防士の方が重傷を負ったりということだそうですが、亡くなった方はいないことを祈ります。

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イメージ 8ノートルダム大聖堂といえば、エッフェル塔や凱旋門などと並ぶパリのシンボルの一つ。のみならず、フランスの道路原標はここに設置されていて、まさにパリはここから発展した場所でもあります。明治41年(1908)から翌年にかけ、欧米留学でパリに滞在していた光太郎も足繁く通いました。

右は、明治41年(1908)8月、パリの光太郎が、パリに移る前に滞在していたロンドンでの留学仲間だった彫刻家の畑正吉に送った大聖堂の絵葉書です。焼け落ちたという尖塔はこの裏側になります。

よく見ると、下の方、歩いている人物は写真以外に光太郎が描き込んでいます。さらに「こんな形で歩いてるんでせう」の一言も書き添えられています。

下って大正10年(1921)、光太郎はパリ時代を回想し、復刊成った与謝野夫妻の『明星』に、110行にもわたる長大な詩を寄稿しました。題して「雨にうたるるカテドラル」。「カテドラル」は仏語の「cathedrale」、「大聖堂」を意味します。

ちなみにこの詩は、光太郎に遅れてパリに留学、というか住み着いた東京美術学校の同級生・藤田嗣治を主人公とした映画「FOUJITA」(平成27年=2015)で引用されました。

     雨にうたるるカテドラル

     おう又吹きつのるあめかぜ。
     外套の襟を立てて横しぶきのこの雨にぬれながら、
     あなたを見上げてゐるのはわたくしです。
     毎日一度はきつとここへ来るわたくしです。
     あの日本人です。
     けさ、
     夜明方から急にあれ出した恐ろしい嵐が、
     今巴里の果から果を吹きまくつてゐます。
     わたくしにはまだこの土地の方角が分かりません。
     イイル ド フランスに荒れ狂つてゐるこの嵐の顔がどちらを向いてゐるかさへ知りません。
     ただわたくしは今日も此処に立つて、
     ノオトルダム ド パリのカテドラル、
     あなたを見上げたいばかりにぬれて来ました、
     あなたにさはりたいばかりに、
     あなたの石のはだに人しれず接吻したいばかりに。
    
     おう又吹きつのるあめかぜ。
     もう朝のカフエの時刻だのに
     さつきポン ヌウフから見れば、
     セエヌ河の船は皆小狗のやうに河べりに繋がれたままです。
     秋の色にかがやく河岸(かし)の並木のやさしいプラタンの葉は、
     鷹に追はれた頬白の群のやう、
     きらきらぱらぱら飛びまよつてゐます。
     あなたのうしろのマロニエは、
     ひろげた枝のあたまをもまれるたびに
     むく鳥いろの葉を空に舞ひ上げます。
     逆に吹きおろす雨のしぶきでそれがまた
     矢のやうに広場の敷石につきあたつて砕けます。
     広場はいちめん、模様のやうに
     流れる銀の水と金茶焦茶の木の葉の小島とで一ぱいです。
     そして毛あなにひびく土砂降の音です。
     何かの吼える音きしむ音です。
     人間が声をひそめると
     巴里中の人間以外のものが一斉に声を合せて叫び出しました。
     外套に金いろのプラタンの葉を浴びながら
     わたくしはその中に立つてゐます。
     嵐はわたくしの国日本でもこのやうです。
     ただ聳え立つあなたの姿を見ないだけです。
    
     おうノオトルダム、ノオトルダム、
     岩のやうな山のやうな鷲のやうなうづくまる獅子のやうなカテドラル、
     灝気(かうき)の中の暗礁、
     巴里の角柱(かくちゆう)、
     目つぶしの雨のつぶてに密封され、
     平手打の風の息吹(いぶき)をまともにうけて、
     おう眼の前に聳え立つノオトルダム ド パリ、
     あなたを見上げてゐるのはわたくしです。
     あの日本人です。
     わたくしの心は今あなたを見て身ぶるひします。
     あなたのこの悲壮劇に似た姿を目にして、
     はるか遠くの国から来たわかものの胸はいつぱいです。
     何の故かまるで知らず心の高鳴りは
     空中の叫喚に声を合せてただをののくばかりに響きます。
    
     おう又吹きつのるあめかぜ。
     出来ることならあなたの存在を吹き消して
     もとの虚空(こくう)に返さうとするかのやうなこの天然四元のたけりやう。
     けぶつて燐光を発する雨の乱立(らんたつ)。
     あなたのいただきを斑らにかすめて飛ぶ雲の鱗。
     鐘楼の柱一本でもへし折らうと執念(しふね)くからみつく旋風のあふり。
     薔薇窓のダンテルにぶつけ、はじけ、ながれ、羽ばたく無数の小さな光つたエルフ。
     しぶきの間に見えかくれるあの高い建築べりのガルグイユのばけものだけが、
     飛びかはすエルフの群(むれ)を引きうけて、
     前足を上げ首をのばし、
     歯をむき出して燃える噴水の息をふきかけてゐます。
     不思議な石の聖徒の幾列は異様な手つきをして互にうなづき、
     横手の巨大な支壁(アルブウタン)はいつもながらの二の腕を見せてゐます。
     その斜めに弧線をゑがく幾本かの腕に
     おう何といふあめかぜの集中。
     ミサの日のオルグのとどろきを其処に聞きます。
     あのほそく高い尖塔のさきの鶏はどうしてゐるでせう。
     はためく水の幔まくが今は四方を張りつめました。
     その中にあなたは立つ。
    
     おう又吹きつのるあめかぜ。
     その中で
     八世紀間の重みにがつしりと立つカテドラル、
     昔の信ある人人の手で一つづつ積まれ刻まれた幾億の石のかたまり。
     真理と誠実との永遠への大足場。
     あなたはただ黙つて立つ、
     吹きあてる嵐の力のぢつと受けて立つ。
     あなたは天然の力の強さを知つてゐる、
     しかも大地のゆるがぬ限りあめかぜの跳梁に身をまかせる心の落着を持つてゐる。
     おう錆びた、雨にかがやく灰いろと鉄いろの石のはだ、
     それにさはるわたくしの手は
     まるでエスメラルダの白い手の甲にふれたかのやう。
     そのエスメラルダにつながる怪物
     嵐をよろこぶせむしのクワジモトがそこらのくりかたの蔭にに潜んでゐます。
     あの醜いむくろに盛られた正義の魂、
     堅靭な力、
     傷くる者、打つ者、非を行はうとする者、蔑視する者
     ましてけちな人の口(くち)の端(は)を黙つて背にうけ
     おのれを微塵にして神につかへる、
     おうあの怪物をあなたこそ生んだのです。
     せむしでない、奇怪でない、もつと明るいもつと日常のクワジモトが、
     あなたの荘厳なしかも掩ひかばふ母の愛に満ちたやさしい胸に育(はぐく)まれて、
     あれからどのくらゐ生れた事でせう。
    
     おう雨にうたるるカテドラル。
     息をついて吹きつのるあめかぜの急調に
     俄然とおろした一瞬の指揮棒、
     天空のすべての楽器は混乱して
     今そのまはりに旋回する乱舞曲。
     おうかかる時黙り返つて聳え立つカテドラル、
     嵐になやむ巴里の家家をぢつと見守るカテドラル、
     今此処で、
     あなたの角石(かどいし)に両手をあてて熱い頬(ほ)を
     あなたのはだにぴつたり寄せかけてゐる者をぶしつけとお思ひ下さいますな、
     酔へる者なるわたくしです。
     あの日本人です。


パリで伝統に裏打ちされた本物の芸術や、そこからさらに進んだ世界最先端の芸術に触れた光太郎。そこに限りない憧憬を抱きつつも、故国日本との目もくらむほどの落差を思い知らされ、打ちのめされました。そんな折には、ノートルダム大聖堂を訪れ、その石の肌に触れ、心を落ち着けたというのです。

もっとも、大聖堂あるいは焼け落ちたという尖塔に登った際には、進むべき道の困難さを感じての絶望に似た思いのあまり、幻覚に襲われたりもしていたようです。やはり留学仲間だった有島生馬の回想から。

 高村君はどうも神秘的な人で、吾々カムパーニユ街の仲間は「高村の神懸り」とあだ名をつけた。(略)時に姿を見せると、巴里の空を、ノトルダムの上から、飛べさうな気がした話や、セエヌ河が真つ赤な血を流してゐた話や、そんな神懸り的な事を真面目でぽつりぽつり云つた。

何はともあれ、光太郎にとって、パリといえば真っ先にノートルダム大聖堂。そこでの大規模火災ということで、胸が痛みますが、被害が壊滅的なものでないことを祈ります。


【折々のことば・光太郎】

煮え返るやうな若い時代の連中で毎日進んで行くといふやうな時代だから、二三日遭はないと何処かしら解らなくなつて了ふといふ風な毎日を送つてゐた。だから殆と毎日遭つてゐたと言つていい位顔を会せて議論したり描いたりしたものだ。あんな猛烈な時代といふものは尠いだらうと思ふ。

談話筆記「回想録 二」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳

パリから帰って、岸田劉生、木村荘八らと結成したヒユウザン会(のちフユウザン会)時代の思い出です。

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朗読系2件。

まずは横浜から。 
期   日  : 2019年4月19日(金)
会   場 : Kikcafe  神奈川県横浜市保土ケ谷区岩井町29-4
時   間 : 14:00〜16:00
料   金 : 1,000円 ワンオーダー制

出   演 : ロコさん(石川弘子)
          まりこミュージアム読み会を経て2003年横浜を中心に小学校での読み聞かせを開始
          紙芝居劇場、大人のための絵本、朗読会活動を継続中

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ロコさんこと石川弘子さん、一昨年には世田谷の上用賀アートホールさんで開催された「真理パフェFourth」という公演の中でも「智恵子抄」を取り上げて下さり、当方、拝聴して参りました



続いて、北海道から。うっかりしていて当日になってしまいました。こういうイベントもあったんだということで。 
期   日  : 2019年4月16日(火)イメージ 2
           札幌市中央区北2条西1丁目 札幌ANビル4階
時   間 : 10:30〜12:00
料   金 : 1,944円

講   師 : 佐藤 雅子(朗読コーチ・フリーアナウンサー) 

これから朗読を始めてみようという方、少し経験のある方に。まず自分の自然な声を見つけましょう。腹式呼吸と息の使い方をしっかり覚えていただきます。高村光太郎の詩集『智恵子抄』をもとに佐藤春夫が紡いだ二人の物語『小説智恵子抄』。「あれが阿多多羅山…」で始まる有名な詩「樹下の二人」をモチーフにした場面を選び、朗読を楽しみます。


『小説智恵子抄』は、光太郎が亡くなった昭和31年(1956)から翌年にかけ、雑誌『新女苑』に「愛の頌歌(ほめうた) 小説智恵子抄」の題で連載されたものです。昭和32年(1957)、実業之日本社から刊行され、角川文庫のラインナップにも入りました。KADOKAWAさんのサイトで検索するとヒットしますので、絶版となっているわけではないようです。

著者は、「連翹忌」の名付け親にして、明治末から光太郎に親炙した佐藤春夫。光太郎を直接知る人物のそれだけに、光太郎智恵子の姿が実に生き生きと描かれています。昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻さん主演)は、「原作」としてこの「小説智恵子抄」をクレジットしています。


来月には、サントリーホールで、当会会友・一色采子さんによる「智恵子抄」朗読も行われます(また近くなりましたらご紹介します)。朗読系の皆さん、どんどん取り上げていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

私は歳といふものを殆と気にとめてゐない。実は結婚する時自分の妻の年も知らなかつた。妻も私が何歳であるか訊きもしなかつた。亡くなる五六年前に一緒に区役所に行つて、初めてその時妻の年を知つたが、三つ位しか違はぬことが分つた。私は現在目の前にあるものを尊しと思ふ。

談話筆記「回想録 一」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳

光太郎智恵子、やはりある意味豪快な夫婦でした。

結婚する時」は、上野精養軒で結婚披露宴を行った大正3年(1914)、「一緒に区役所に行つて」は、智恵子の統合失調症がのっぴきならない状態になって、ようやく入籍をした昭和8年(1933)のことです。

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当会の祖・草野心平を顕彰するいわき市立草野心平記念文学館さんの企画展です。 
期    日  : 2019年4月13日(土)〜6月30日(日)
会    場 : いわき市立草野心平記念文学館 福島県いわき市小川町高萩字下タ道1-39
時    間 : 9時から17時まで
料    金 : 一般 430円(340円)/高・高専・大生 320円(250円)/小・中生 160円(120円)
          ( )内は20名以上団体割引料金
休 館 日 : 月曜日(4/29・5/6は開館)

 草野心平の創作における代表的な主題の一つが「蛙」です。1928年に刊行した初の活版による詩集『第百階級』収録作品をはじめ、彼は蛙を主題にした詩を200篇以上つくりました。
 本展では、心平が蛙の詩を創作した背景、そして様々な解釈によって読者の感性に問いかける表現手法などを、関連資料や彼自身による作品への言及から解説し、その魅力をあらためて紹介します。

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関連イベント等

ギャラリートーク   5月11日(土) 6月1日(土)  13 時30 分 要観覧料

スポット展示「猪狩満直」  4月6日(土)〜6月30日(日)
いわきゆかりの作家で、草野心平とも交友があった猪狩満直の生涯と作品の魅力を紹介します。

記念講演会  「草野心平と蛙の詩をめぐって」  5月12日(日)  14:00〜15:00
講師 齋藤貢氏(詩人・歴程同人)

文学散歩  「草野心平ゆかりの川内村をめぐる」  6月16日(日) 9:00〜16:00
天山文庫をはじめ、モリアオガエルの生息地・平伏沼などをめぐります。
マイクロバスで移動(徒歩移動も含む) 定員20名 有料 要予約


というわけで、改めて心平詩の真骨頂である蛙の詩が取り上げられます。すると、光太郎とも密接な縁。

まず、昭和3年(1928)の『第百階級』(銅鑼社)。心平第一詩イメージ 3集にして、最初に蛙の詩を収めたものです。こちらに光太郎が序文を寄せています。

 詩人とは特権ではない。不可避である。
 詩人草野心平の存在は、不可避の存在に過ぎない。云々なるが故に、詩人の特権を持つ者ではない。云々ならざるところに、既に、気笛は鳴つてゐるのである。(略)
 詩人は断じて手品師でない。詩は断じてトウル デスプリでない。根源、それだけの事だ。

トウル デスプリ」は仏語で「tour d'esprit」。「性格」「傾向」と言った意味です。

次に、昭和13年(1938)の『蛙』(三和書房)。装幀と題字揮毫が光太郎です。題字揮毫は昭和26年(1951)の『定本蛙』でも(表紙でなく扉)。

おそらく、展示ではそういった点にも触れて下さっているのではないでしょうか。

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また、スポット展示で取り上げられる猪狩満直も、光太郎が高く評価した詩人です。光太郎は雑誌『南方詩人』第6輯(昭和5年=1930)に寄せた散文「猪狩満直詩集「移住民」に就て」で、こう述べています。

此の北地に闘つてゐる人のまぎれのない声は、どんなジヤスチフイケイシヨンがあらうとも結局まだ中途に立つてゐる私などの腹わたに強くこたへる。私は其をまともに受ける。かういふ強さは、ひねくれた強さでないから、痛打を受ける事が既に身になる。

『移住民』は、前年に北海道阿寒に移っての開墾生活を題材とした猪狩の詩集です。


さらに、6月には川内村への文学散歩も企画されています。


ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

これから私の本当の彫刻がいくらでも生まれる。過去よ去れ、過去よ消えよ。今こそ破算と創建との切換の自然到来。私の仕事はこれからであり日本の美しい美が私を待つて其処にゐる。

散文「仕事はこれから」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳

4月13日の空襲で、亡き智恵子と過ごしたアトリエ兼住居が全焼。近くにあった妹の婚家に避難していた時の文章です。5月には、宮沢賢治の実家からの誘いで花巻に疎開。妹の婚家は光太郎が去ってからの空襲でやはり全焼しました。

「仕事はこれから」と言っても、空元気の感が拭えませんね。実際、この後、結核による臥床や敗戦、花巻郊外太田村への移住、そして戦時の翼賛活動を恥じての蟄居など、さまざまな流転を重ねることになり、「本当の彫刻がいくらでも生まれる」という事態にはなりませんでした。

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4月11日(木)、文京区立森鷗外記念館さんの特別展「一葉、晶子、らいてう―鷗外と女性文学者たち」、田端文士村記念館さんの「恋からはじまる物語〜作家たちの恋愛事情〜」展とハシゴした後、渋谷に向かいました。

目指すは渋谷区文化総合センター大和田さん内の渋谷伝承ホール。

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こちらで劇団Yプロジェクトさんのプロデュース公演「ブーケdeコンセール 詩劇と音楽」を拝見。

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2部構成で、第1部が「ラフマニノフの抒情(ロマン)」。八谷晃生さんという方によるピアノで、ロシアのセルゲイ・ラフマニノフの「プレリュードニ長調Op.23-4」と「ピアノソナタ2番Op36変ロ長調」の2曲が演奏されました。曲目の通り第2部へのプレリュード(前奏曲)的な感じでした。

そして第2部が「長編詩劇・高村光太郎の生涯 愛炎の荒野。雪が舞う、」。事前の告知で、内容的には光太郎の生涯を追う、というのは何となくわかりましたが、それをどう料理するのかまではわかっていませんでした。開演前にいただいたパンフレットを見ましたところ、出演される役者さんたちの一言ずつやプロフィールなどが。1チーム8人ずつ、2チームが交互に3日間で6公演、当方が見たのはBアクトさん(下記画像右半分の皆さん)による公演です。

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Aアクトさんを含め、「高村光太郎という芸術家の生涯を少しでも伝えられたら」、「様々な表現で高村光太郎の生涯をキャスト一丸になりお伝えします」、「光太郎という人間を全身で感じていただけると感激です」といった記述。キャスト名は書かれていません。代わりに、「劇中で語られる人物紹介」ということで、光太郎の父・光雲にはじまり、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」一帯の公園設計を担った谷口吉郎まで、50名超の名が(ただ、宮沢賢治など、この欄に抜けている人物も実際には居ました)。

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「語られる人物」であってキャストというわけではないのだろう、と思って読んでいましたところ、第2部開演。

舞台は基本、暗がりです。椅子が8脚並べられ、黒づくめの役者さんたちが座っています。第1部でピアノ演奏をなさった八谷さんがBGM的に舞台下手(しもて)隅でピアノ演奏(これがうるさすぎず、適度な音量で豊かに情感を添え、絶妙でした)。役者さんたちは、一人ずつ前に出て来て、光太郎詩文の朗読やナレーションによる状況説明。そこだけスポットが当たるようにしてありました。お一人の担当部分が終わる頃、次の役者さんが出て来てバトンタッチ。基本、その繰り返しでした。つまり、全員が光太郎というわけで、だから上記「一言」でああしたご発言だったのかと納得いたしました。

役者さんたち、それぞれに熱のこもった語りで、8人がめまぐるしく交替することで変化も生じ、当然ながら取り上げる詩文によって語り口を変え、ぐいぐい引き込まれました。単なる語りだけでなく、最小限ではありましたが動きも入り、視覚的効果も考えられていました。

前半は「智恵子抄」収録の詩篇を軸に、光太郎智恵子の純愛のドラマ的な。「なるほど、無難にまとめているな」という感でした。しかし、後半、智恵子歿後になって、ある意味、意外な展開となります。特に太平洋戦争開戦後に光太郎が大量に書き殴った翼賛詩が、かなりの数、取り上げられました。通常、演劇等で光太郎が扱われる場合、この時期はさらりと流されるのが普通です。光太郎の人生最大の汚点であるわけで(この時期こそが憂国烈士・光太郎の真骨頂、とする愚か者も多くて困っているのですが)、扱いが難しいというのが理由でしょう。

しかし、今回の公演では陰惨な、空虚な、安直な、浅薄な、愚劣な、こけおどし的な、がらんどうな、悪魔的な、紋切り型の、子供だましの 、狂気さえ感じる、罪深い翼賛詩の数々が語られました。順不同ですが、「十二月八日」、「さくら」、「シンガポール陥落」、「必死の時」、「琉球決戦」、「軍艦旗」など。光太郎に余り詳しくない観客の方々は、かなり意外の感を持たれたのではないでしょうか。

このあたりにじっくり焦点を当てる演劇は少なく、類例を挙げれば、当会会友・渡辺えりさんの脚本になる「月にぬれた手」(平成23年=2011)くらいでしょうか。木野花さん演じる老婆が光太郎に投げつけた「戦争中にこいづが書いた詩のせいでよ、その詩ば真に受げて、私の息子二人とも戦死だ。」「おめえがよ、そんなにえらい芸術家の先生なんだらよ。なしてあんだな戦争ば止めながった? なしてあおるだげあおってよ。自分は生ぎでで、私の息子だけ死ねばなんねんだ。」という台詞がありました。

といって、今回の公演も、単に光太郎をディスるだけでなく、光太郎同様に、或いはそれ以上に軽々しく大政翼賛に走った文学者たちも語られ、さらに戦後にはそういった面々が無節操な豹変ぶりをやらかしたこともやり玉に挙げていました。そして一人光太郎のみ、花巻郊外旧太田村での不自由な蟄居生活――「自己流謫(るたく)」――「流謫」は「流罪」に同じ――で、自らの罪に向き合ったことも語られました。この時代こそが、ヒューマニスト光太郎を語る上で最も重要な時期なわけで、ここをしっかり描いて下さったのもありがたいところでした。

終末は再び「智恵子抄」。「樹下の二人」(大正12年=1923)で、幕。

あらためてパンフレットを読み返してみると、最初のページに「光太郎の言葉に触れることは、時代の分節点にある今日、何かを教えてくれるのではないでしょうか」とありました。なるほど、と思いました。

終演後のホワイエ。

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急いで帰る都合があり、役者さんのお一人とだけ少しお話しさせていただき、名刺をお渡しして帰りました。

すると、昨日、脚本・演出を担当された小野寺聰氏から、自宅兼事務所にご丁寧にお電話がありまして、上記のような感想をお伝えし、その他いろいろお話しさせていただきました。そういうケースも珍しいので、恐縮いたしました。役者さんたちは、いろいろな劇団などから集まった特別編成だそうで、今のところ再演の予定はないというお話でした。ただ、光太郎の生き様的な部分に感銘を受けた役者さんもいらして、さらにちゃんとやりたいみたいなお話もあったそうです。期待したいところです。


以上、都内レポート終わります。


【折々のことば・光太郎】

今更罹災の体験などと改まつてきかれると変なもので、私などは独身者の事とて万事が簡単至極である。罹災者達の中には病人や老幼者をかかへて敢闘した人達も多い事と思ふが、さういふ人達に対して深甚の同情を禁じ得ない。

散文「罹災の記」より 昭和20年(1945) 光太郎63歳

この年4月13日(昨日ですね)の空襲で、亡き智恵子と過ごした駒込林町25番地のアトリエ兼住居は灰燼に帰しました。自らも既に老年に入っていた光太郎、自分はともかく「病人や老幼者をかかへて敢闘した人達」への気遣いを優先させています。しかし、同じ文章の終末では「敵の腰砕け、敵の気力折れ尽きるまで、戦に冷徹して、神明からうけた大和民族の真意義を完たからしめねばならない」とも発言しています。

その愚昧さに気づくまで、あと数ヶ月を要します。

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一昨日、文京区立森鷗外記念館さんで特別展「一葉、晶子、らいてう―鷗外と女性文学者たち」を拝見した後、歩いて北東方向へ。

少しだけ回り道をして、明治44年(1911)、平塚らいてうが雑誌『青鞜』を世に送り出した「「青鞜社」発祥の地」(現在はマンション)へ。『青鞜』発起人の一人、物集和子の旧宅があった場所で、智恵子が表紙絵を描いたその創刊号の頃は、ここが発行所の住所となっていました。区の建てた案内板には光太郎智恵子の名も。

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それから裏通りに入って、光太郎実家跡(現在建て替え工事中)、保健所通り(銀行通り)に出て、光太郎アトリエ跡(現在は個人宅)前を過ぎ、道坂上まで出て、右折。田端方面へと歩を進めました。

めざすは田端駅近くの、田端文士村記念館さん。

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こちらでは、今年の2月から「恋からはじまる物語〜作家たちの恋愛事情〜」展が開催されています。

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同館は、(公財)北区文化振興財団さんの運営になるもので、田端で活躍した文士・芸術家の功績を通じて「田端文士芸術家村」という歴史を、後世に継承して行くことを目的として平成5年(1993)に設立。メインは芥川龍之介ですが、光太郎智恵子、そして光太郎の父・光雲、光太郎実弟・豊周らと関わりのあった人々も多く含みます。

日本女子大学校での智恵子の一級上の先輩で、テニス仲間だった平塚らいてうもその一人。大正7年(1918)から同12年(1923)まで、同館近くに一家で住んでいました。既に「若いツバメ」奥村博史と結婚(入籍は昭和16年=1941までせず)、長女・曙生(あけみ)、長男・敦史(あつふみ)を授かり、苦しいながらも充実した生活を送っていた時期です。『青鞜』はすでに休刊、この頃は市川房枝らと「新婦人協会」の活動に当たっていました。

さて、「恋からはじまる物語〜作家たちの恋愛事情〜」。やはりメインは芥川とその妻・文でしたが、らいてうと博もかなり大きく取り上げられていました。

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とても気丈な女性だったというイメージのらいてうが、こと博史との恋愛に関しては、純情乙女的になってしまっていた感があり、ほほえましく思われました。この夫婦は博史が亡くなる昭和39年(1964)まで仲睦まじかったというイメージなので、そう思えるのかも知れませんが。

ちなみに改めてらいてうの年譜を調べていたら、昭和35年(1960)、博史と二人で安達太良山麓の岳温泉を訪れ、さらに既に人手に渡っていた智恵子の生家も訪れていたことがわかり、驚きました。その際、二人でどういう話をしたのかなど、興味深いところです。ちなみにこの時らいてう満74歳、博史は68歳でした。

その他、東京美術学校で光太郎の父・光雲に木彫を学んでから陶芸に転身した板谷波山とその妻・まる。この夫妻もなかなかドラマチックです。平成16年(2004)には、映画「HAZAN」(榎木孝明さん、南果歩さん主演)にもなりました。ちなみに「HAZAN」、当方自宅兼事務所のある千葉県香取市でもロケが行われたはずです。

さらに佐多稲子、窪川鶴次郎、竹久夢二など、回り回って光太郎智恵子と関わる人物も取り上げられていました。

同展は5月6日(月)まで。ありがたいことに入館無料です。ぜひ足をお運び下さい。

この後、田端駅から山手線で渋谷へ。渋谷区文化総合センター大和田内の渋谷伝承ホールさんで、「長編詩劇・高村光太郎の生涯 愛炎の荒野。雪が舞う、」。を拝見して参りました。明日はそちらをレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

自著の書籍を送つて返事の無いのをひどく気にするのは他人の都合を無視して自己の人情にのみ執する事である。丁度その時急病人のあることもあらうし、仕事に夢中になつてゐることもあらう。ともかく自分の書籍を人に贈ることは人の生活の中へ割りこむことである。

散文「某月某日」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

と言いつつ、光太郎はかなりまめに送られてきた書物への礼状をしたためています。しかし、自分が書物を贈った場合には、その礼状等を期待しないというのです。読んでいただくのだから、というわけで、同じ文章には「丁寧な礼状などをもらふと、其はあべこべですと述べたくなる」と書いています。

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昨日は都内3ヶ所を廻っておりました。

まず、千駄木の文京区立森鷗外記念館さん。こちらで特別展「一葉、晶子、らいてう―鷗外と女性文学者たち」を拝見。

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左は団子坂からではなく区立第八中学校さんの方から上がっていった正面玄関。敷石部分は戦災で消失する前からあった鷗外旧宅「観潮楼」時代のもの。右は館入り口の扉です。

与謝野晶子は、新詩社における光太郎の師ともいえる姉貴分。『青鞜』の表紙絵を智恵子に依頼した平塚らいてうは日本女子大学校での智恵子の一学年先輩にしてテニス仲間。早逝した樋口一葉は光太郎智恵子と直接の関わりはなかったようですが、光太郎は同じく早逝した実姉・さく(咲子)の風貌が一葉に似ていたと回想しています。

そして森鷗外は、東京美術学校で教壇に立っていたこともあり、光太郎は美学の授業を受けました。その後も観潮楼歌会に参加していますが、どうも近所に住んでいながら敬して遠ざけるという面があったようです。しかし鷗外の方では、「しょうがない奴だ」と思いつつも光太郎の才を認め、かわいがっていた部分があります。

その鷗外は、一葉、晶子、らいてうそれぞれも高く評価していました。

樋口一葉さんが亡くなつてから、女流のすぐれた人を推すとなると、どうしても此人であらう。晶子さんは何事にも人真似をしない。(略)晶子さんと並べ称することが出来るかと思ふのは、平塚明子さんだ。
(「与謝野晶子さんに就いて」 『中央公論』第27年第6号 明治45年=1912)

「明子」はらいてうの本名「明(はる)」から。

そこで今回の展示は、彼女たちの代表的な業績を象徴する品々や、鷗外やその周辺人物と三女性とのかかわりに関する資料などが並んでいました。

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光太郎智恵子に関わる展示物も複数。イメージ 6興味深く拝見しました。

図録が作成されており、購入。税込み860円とお買い得です。尾形明子氏(文芸評論家)、出口智之氏(東京大学准教授)、三枝昂之氏(歌人・山梨県立文学館館長)など、執筆陣も豪華です。三枝氏と尾形氏は、この後、同展の関連行事として講演をなさいます。

 講師:三枝暁兄瓠焚凌諭山梨県立文学館館長)   
 日時:62日(日)14時〜1530

講演会2「森鷗外と新しい女たち」
 講師:尾形明子氏(文芸評論家)  
 日時:68日(土)14001530

また、関連行事の扱いにはなっていないようですが、以下も予定されています。

 講師:倉本幸弘氏(森鴎外記念会常任理事)  
 日時:5月30日(木)10時30分〜14時

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それぞれ申し込みは同館まで。ぜひどうぞ。

この後、田端方面へ。以下、明日。


【折々のことば・光太郎】

思ひつきばかりの自己流は案外脆いし、叡智の欠けた継承は生命を捉へ得ない。
散文「某月某日」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

この年、東京府美術館で開催された「皇太子殿下御誕辰記念日本近代美術館建設明治美術名作大展示会」を見ての感想です。

というわけで造形美術に関する発言ですが、文学、音楽等、あらゆる芸術に当てはまるような気もします。

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NHKさんの大河ドラマ「いだてん 〜東京オリムピック噺(ばなし)〜」。視聴率的には厳しい状況だそうですし、レギュラー出演者の逮捕などのケチもつきましたが、当方は毎週楽しく拝見しております。

先週は統一地方選挙速報の関連で放映が休止でしたが、今週の第14回から新章に突入します。 

いだてん 〜東京オリムピック噺(ばなし)〜 (14)「新世界」 

NHK総合 2019年4月14日(日) 20時00分〜20時45分  再放送 2019年4月20日(土) 13寺05分〜13寺50分
NHK BSプレミアム  2019年4月14日(日) 18時00分〜18時45分

ストックホルムから帰国する四三(中村勘九郎)。報告会で大勢の高師の仲間が健闘を称える中、敗因を厳しく問いただす女性が出現。永井道明(杉本哲太)の弟子・二階堂トクヨ(寺島しのぶ)である。同じ頃、孝蔵(森山未來)は四三とは逆に東京から旅立とうとしていた。円喬(松尾スズキ)とは別の師匠について地方を回るのだ。自分は円喬に見限られたと落ち込む孝蔵。しかし、出発のとき、新橋駅に円喬が駆けつけて−

出演
中村勘九郎,綾瀬はるか,生田斗真,永山絢斗,満島真之介,山本美月,近藤公園,武井壮,森山未來,神木隆之介,
橋本愛,荒川良々,峯田和伸,松尾スズキ,柄本時生,杉本哲太,中村獅童ほか

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明治45年(1912)のストックホルムオリンピック編が終わり、時代は大正へと移ります。そして新キャストが続々登場。

その一人が永島敏行さん演じる武田千代三郎。

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以前にもご紹介しましたが、元青森県知事で、十和田湖の景観イメージ 4に打たれ、道路の開墾等に尽力しました。そのため、雑誌『太陽』で初めて十和田湖の美しさを世に広めた大町桂月、武田に協力して十和田湖周辺の整備に力を尽くした法奥沢村長・小笠原耕一と共に、「十和田の三恩人」と讃えられました。

昭和28年(1953)に除幕された、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」は、元々周辺の国立公園指定15周年を記念し、「十和田の三恩人」を顕彰するためのモニュメントとして作られたものです。

右は「乙女の像」除幕式の際に、関係者に配られた光太郎による記念メダルの石膏原型。肖像は大町桂月ですが、武田の名も刻まれています。

青森県知事退任後、武田は大日本体育協会副会長に就任。箱根駅伝の開催に取り組み、「駅伝」の名付け親ともなります。

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もう一人、「この人も出るか!」と驚いたのが、二階堂トクヨ。演じられるのは寺島しのぶさんです。

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二階堂は宮城県三本木町(現・大崎市)の出身です。地元の小学校で准訓導として教壇に立ちながら宮城県の師範学校入学を目指していましたが、明治28年(1895)、同県では女教員は休みが多い、能率が上がらないなどの理由で女教員廃止決議が採択されてしまいました。そこで、隣接する福島県師範学校に入学しようとしましたが、こちらは福島県に籍が無ければ不可。そこで、初代福島民報社長にして国会議員でもあった小笠原貞信の養女となり、小笠原姓となりました(のちに「二階堂」に復姓)。

そしてめでたく福島師範を卒業し、赴任したのが智恵子の母校・安達郡油井村(現・二本松市)の油井小学校でした。明治32年(1899)、智恵子は高等科に在学中で、トクヨは智恵子の6歳下の妹・ミツ(尋常科2年)の担任となりました。さらにそれだけでなく、トクヨは智恵子をかわいがり、智恵子は友人と共にトクヨの下宿を訪ねたり、安達ヶ原を散歩したりしたとのこと。

向学心溢れるトクヨは、さらに同33年(1900)には東京女子高等師範に進学しました。この際には智恵子の実家・長沼家が資金援助を行ったらしいとのこと。智恵子との直接の関わりは1年間だけでしたが、智恵子は強烈な印象をトクヨから受けました。同じように油井小学校で教壇に立った後に日本女子大学校に進学した服部マスもおり、智恵子が日本女子大学校に進む希望を固めたのは、この2人の影響が大きいようです。

智恵子が日本女子大学校に進んだのは明治36年(1903)、この年、トクヨは東京高等師範の最終学年でした。記録は確認できていませんが、おそらく、上京した智恵子はトクヨと再会し、久闊を叙しただろうと推定されます。

翌年、東京高等師範を卒業したトクヨは、金沢の高等女学校に赴任。ここで体操の授業を持たされたことがきっかけで、体育のスペシャリストになっていきます(本来の専門は国語だったそうですが)。明治44年(1911)には、東京高等師範の助教授となり、大正元年(1912)には、英国留学。その際、横浜港には智恵子、さらに光太郎も見送りに現れたそうです。同4年(1915)に帰国、東京高師教授就任、同11年(1922)、二階堂体操塾(現・日本女子体育大学)設立……すごい女性ですね。

ちなみにここまで、佐々木孝嘉氏著『ふるさとの智恵子』(昭和53年=1978 桜楓社)を参考にさせていただきました。

「いだてん」。このトクヨの活躍も楽しみにしつつ、拝見したいと思います。皆様もぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

自然は人をつくる。この霊峰の此の偉容に毎日毎朝接してゐる上高下の部落は幸である。
散文「日本の母」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

「霊峰」は富士山。「上高下」は、光太郎が詩部会長に就任した日本文学報国会と読売新聞社が提携して行われた「日本の母」顕彰事業のため訪れた、山梨県南巨摩郡穂積村。現在の富士川町上高下(かみたかおり)地区です。

ここは冬至の前後、日の出が富士山頂付近からのぼる「ダイヤモンド富士」の名所としても有名です。

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