高村光太郎連翹忌運営委員会のブログ

4/2は高村光太郎(1883〜1956)の命日、連翹忌(れんぎょうき)です。
早くにご案内を頂きながら、紹介するのを失念していました。 
期    日  : 2018年7月3日(火)〜9月24日(月・祝)
会    場 : メナード美術館  愛知県小牧市小牧五丁目250番地
時    間 : 10:00〜17:00
料    金 : 一般 900円(700円)   高大生 600円(500円)   小中生 300円(250円)
         ( )内は20名以上の団体料金および前売料金
休 館 日  : 月曜日(祝休日の場合は直後の平日)

美術から物語へ、物語から美術へ ふたつが出会った時、いったい何が生まれるのか…。

 切っても切れない縁にある美術と物語。素晴らしい物語は、読めばその情景が鮮明に脳裏に浮かび、素晴らしい絵画は、画中で展開される物語を想像させます。
 画家たちもまた聖書やギリシア神話、オペラなどに触れ、浮かんだイメージを多くの絵画に残しており、文筆家たちはイメージを装幀そうていや挿画そうがはもちろん、情景描写など文学的表現そのものに活かそうとしました。
 互いの表現を求め合う美術と文学。本展は、このふたつの出会いによって生まれた新たな物語を当館のコレクションの「え(絵)」に探すものです。それは「え!」という驚きをともなうものかもしれません。

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同館に所蔵されている光太郎の木彫「鯰」(昭和6年=1931)が出品されています。

現存が確認されている3点のうちのひとつです。残り2点は、上野の東京国立博物館さんに寄託されているものと、竹橋の国立近代美術館さん所蔵のもの。3点とも時々展示されますが、常設展示というわけではありません。

他にも同館の所蔵作品は逸品ぞろいで、出品リスト
によれば、今年、横浜美術館さんで大理石像が出て大きな話題となったロダンの「接吻」のブロンズをはじめ、岸田劉生、梅原龍三郎、藤田嗣治、佐藤忠良、松本竣介ら、光太郎と関わりの深かった作家の作がずらり。

この機会をお見逃しなく。


もう1件。

昨秋、北海道小樽にオープンした似鳥美術館さんからの情報です。 

新収蔵作品のお知らせイメージ 3

似鳥美術館に、新しく作品が三点増えました。

高村 光太郎《十和田湖畔裸婦像のための手》
詩人であり、彫刻家であった高村光太郎。
似鳥美術館二階で多数の作品を展示中の高村光雲は、実父である。
本作は、十和田湖畔にある裸婦像「乙女の像」制作にあたって習作として作られたもの。

 平櫛 田中《燈下萬葉良寛上人像》《仙桃》
高村光雲らと並ぶ、日本近代彫刻の代表的な作家の一人。
この度の新収蔵作品二点には、木彫への彩色が施されている。

 高村光雲に関わりのある作家の作品が、続けて新収蔵となりました。
ますます充実の似鳥美術館彫刻コレクションを、ぜひ観にいらしてください。

※高村 光雲《観音》は展示をお休み致します。


というわけで、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」(昭和28年=1953)のための習作です。光太郎歿後、何点かブロンズに鋳造されたうちの一点です。

大正7年(1918)制作の代表作「手」から連なる観音菩薩の「施無畏印」の形、荒々しい肉付けながらも優美さも内蔵するフォルムなど、公開を想定しなかった習作ではありますが、逸品です。

同館では、もともと光太郎の父・光雲やその弟子筋の作品の収集に力を入れて下さっており、そうした流れで購入されたようです。

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収蔵されている光雲作品は、左上→右下の順で、「魚籃観音像」(昭和9年=1934)、「聖観音像」(制作年不明)、「郭子儀」(昭和4年=1929)、「大黒天像」(大正13年=1924)、「投網打つ恵比寿像」(制作年不明)。弟子筋では米原雲海、山崎朝雲の作が収められており、さらにここに平櫛田中と光太郎の作が加わるわけで、なかなか充実のラインナップです。


それぞれぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

日本の今の作家の名を一々上げて、それに就いて論ずるとよく分るけれど、何だか不快(いや)だから止すが、一種のセンチメントを浮べる芸術にセンチメンタルなものの種々な着物を着せたものではつまらない。さう言ふ作に限つて、誰でも読者は引き入れられ易いものである。然し大した価値のある作でない事は勿論である。

談話筆記「センチメンタリズムの魔力」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

文芸作品についての評です。大仰なセンチメンタリズムを前面に押し出した、ある意味、下らない小説などへの批判。造形芸術にもあてはまるような気がします。

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まずは『毎日新聞』さん千葉版の記事から。 

成田・二人でひとつの展覧会 /千葉

 17〜22日、上町500、なごみの米屋總本店2階、成田生涯学習市民ギャラリー。
 成田市の絵手紙講師、大泉さと子さんと、同市で一閑張りのバッグなどを制作する佐藤信子さんによる2人展。
 大泉さんは宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」をダルマの絵とともに書いた作品や、三里塚記念公園にある高村光太郎の文学碑「春駒」の拓本、墨で書いた自身の「春駒」のほか、丸い形のはがきなど遊び心あふれる約100点を並べる。大泉さんは「絵手紙は相手を思って描き、心を伝えることができる」と話す。
 佐藤さんは福島第1原発事故によって、福島県南相馬市小高区から成田市に移り住んで6年になる。事故前は籠やざるに和紙を張り、その上から柿渋を何度も塗り重ねて作る一閑張りと絵手紙制作を南相馬で教えていた。今回はバッグや籠、ざるなど新作約100点を展示する。
 2012年に佐藤さんの個展で知り合い、交流が続いている2人は「絵手紙と一閑張りのコラボレーションは初の試み。ぬくもりを感じる展覧会にしたい。多くの人に見てほしい」と来場を呼びかけている。
 ギャラリー(0476・22・2266)は10〜16時(最終日15時まで)。【渡辺洋子】

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というわけで、隣町ですので早速行って参りました。

会場は成田駅から成田山新勝寺へと向かう参道沿いです。車では時々通る道ですが、久しぶりに歩きました。

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なかなかレトロで良い感じの通りです。外国の方もちらほら。

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こちらが米屋さん。地域では羊羹があまりにも有名ですが、全国区なのでしょうか。こちらの2階が生涯学習市民ギャラリーとなっています。これは存じませんでした。最近流行のメセナ(企業の社会貢献)でしょう。

開場前に着いてしまい、店裏の喫煙コーナーで一服。こちらのレトロな洋館は「成田羊羹資料館」。やはり米屋さんの施設です。洒落が効いています(笑)。

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10時になりましたので、いざ、会場へ。

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成田の三里塚ご在住の大泉さと子さんという方が、地元の三里塚記念公園に建つ詩碑に刻まれている光太郎詩「春駒」(大正13年=1924)を書いた作品などが展示されています。

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温かみのある作品ですね。

三里塚記念公園は、元々、宮内庁の御料牧場があったところでした。その近くに移り住んだ親友の作家・水野葉舟を訪ね、光太郎も何度か足を運んでいます。最近はやんごとなき方々用の防空壕も公開されています。

詩碑の拓本も展示されていました。

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大泉さん、絵手紙講師ということで、昨年の6月号から「高村光太郎のことば」を連載して下さっている『月刊絵手紙』さん主宰の小池邦夫氏の弟子筋に当たられるそうです。小池氏からの絵手紙も展示されていました。

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となると、『月刊絵手紙』さんで紹介があるかも知れないなと思いました。今月号がそろそろ届く頃です。

それから、光太郎と縁の深い宮澤賢治の「雨ニモマケズ」。良い感じです。

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「二人でひとつの展覧会」ということで、もうお一方は佐藤信子さん。「一閑張(いっかんばり)」の作品を展示されていました。竹や木で作った骨組みに和紙を貼り、柿渋で固めるという伝統工芸です。

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こちらも味のあるものでした。

上記『毎日新聞』さんの記事によれば、佐藤さんは震災後、福島県南相馬市小高区から移り住まれたとのこと。こちらにも光太郎詩「開拓十周年」(昭和30年=1955)が刻まれた碑があり、不思議な縁を感じました。


会期は22日(土)まで。成田山新勝寺に参拝がてら、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

予期して居る通りに書かれたものは、僕等に取つては充(つま)らない。僕等の考へて居るのは、自然が自分の胸を打つて来た時に直ちにパレツトなり泥なりを取つて、其の刹那の感興を製作の上に映す。其の結果が何うなるか、それは分らない。
談話筆記「純一な芸術が欲しい」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

造形芸術にしても、文学にしてもそうだと言います。あらかじめ綿密な計算を施した上での制作、それはそれでいいのでしょうが、やはり興の赴くまま、持てる力を展開させていくという制作手法を光太郎は良しとしていたようです。確かに小説などで、いかにも、という伏線の張り方を眼にすると、興ざめの感がぬぐえないことがよくありますね。

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7/14(土)、岩手花巻からの帰り、皇居東御苑内の三の丸尚蔵館に寄って参りました。こちらで開催中の「第80回展覧会 明治の御慶事−皇室の近代事始めとその歩み」を拝見。

 
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光雲作の木彫「文使」が展示されており、拝見して参りました。

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平成14年(2002)に、茨城県近代美術館他を巡回した「高村光雲とその時代展」の際に見ていますので、二度目となりますが、改めて見て、その超絶技巧にはやはり舌を巻きました。

画像には写っていませんが、文使の背部の帯の結び目など、どうやったら一木から彫り上げられるのだろうという感じです。それから文使いのかしこまった表情。人形のようなそらぞらしさは無く、確かに血の通った人間の描写です。全体のシルエットというか、モデリングというか、そういった点でも守旧にとどまることなく、西洋美術のエスキスもちゃんと取り入れた光雲ならではのしっかりしたもので、作り物感がありません。

また、台座の部分には、蒔絵と螺鈿細工が施されています。おそらくそれぞれ専門の職人の手によるものと思われますが、これまた精緻な作りとなっていました。

明治33年(1900)の作で、当時の皇太子(後の大正天皇)ご成婚に際し、逓信省から献上されたということです。献上当時、文使が手にしている柳筺には、このご成婚に際して発行された記念切手17枚(妃殿下の年齢に合わせて)が入れられていたとの事。何とも粋な計らいですね。

図録を購入して参りました。

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三の丸尚蔵館さんでの企画展示で発行される図録は、いつも圧巻です。とにかく解説文がすごい。今回のものも、維新後の近代化の波の中で、皇室の慶事がどのように変遷していったのか、それから光雲も内部装飾に関わった皇居の造営に関してなど、非常に興味深く拝読しました。

で、新たな発見が一つ。「お前、そんな事も知らなかったのか」とお叱りを受けそうですが、明治天皇の生年は、光雲と同じ嘉永5年(1852)でした。光雲がことさら明治天皇を敬愛して已まなかったその裏側には、自分と同年だという一種の親近感的な感情もあったのではないかと思った次第です。確証はありませんが。

他にも、一級品の出品物がずらり。ただ、三の丸尚蔵館さん、展示スペースが狭いので、入れ替えながらの展示です。現在は後期です。下の画像、クリック2回で拡大します。

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8月5日(日)までの会期です。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

実に飛躍(ル ボン)は其の合言葉である。多彩、多音、流動は其の趣味の基本である。胆大、強行、率直は其の用意である。

散文「未来派の絶叫」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

「未来派」は、イタリアを中心に興った芸術運動で、過去の芸術の徹底破壊と、機械化によって実現された近代社会の速さを称えるもの。明治42年(1909)、詩人のマリネッティの「未来主義創立宣言」によって始まった運動です。

光太郎、過去の伝習の破壊という部分には共鳴しつつも、拙速といえば拙速なその展開にとまどい、全てを肯定しているわけではありません。ただ、やはり、共感する部分も多かったのは事実です。

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7月14日(土)、企画展「光太郎と花巻電鉄」開幕を迎えた花巻郊外旧太田村の高村光太郎記念館さんを後に、レンタカーを北に向けました。当初予定では、東の花巻市街に向けて、光太郎が戦中戦後に歩いた界隈を歩く予定でした。そこで、昨年発刊された隔月刊のタウン誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』の第6号「特集 賢治の足跡 光太郎の足跡」を持っていったのですが、予定を変更しました。高村光太郎記念館さんで、下記の企画展情報を得たためです。 
期    日  : 2018年6月10日(日)〜10月21日(日)
会    場 : 野村胡堂・あらえびす記念館  岩手県紫波郡紫波町彦部字暮坪193-1
時    間 : 9時〜16時30分
料    金 : 一般/300円 (250円) 小中高校生/150円 (100円)  ( )内は20名以上団体割引料金
休 館 日  : 月曜日 ただし7/16、9/17、10/8は開館、翌日が休館

野村胡堂の妻ハナが通った日本女子大学。上代タノ、長沼智恵子、井上秀、平塚らいてうなどそこで出会った人々とは、生涯を通して親交を深める。母校へ、友人へ、そして家族に向けたあたたかな眼差しと想いにふれる。

 今年は、『銭形平次捕物控』の執筆者である野村胡堂の妻ハナの生誕130年・没後50年です。ハナは紫波町彦部村の出身で、大恋愛の末に胡堂の妻となり、80歳で生涯の幕を閉じました。その長い人生には、苦しい時代や度重なる不幸がありましたが、それでもキリスト教の信仰を生きる支えとし、家族や友人など多くの人々に愛情を注ぎます。
  明治38年、岩手県立高等女学校から東京の日本女子大学附属高等女学校へと転校したハナは、その後、日本女子大学で学び、母校の同附属高等女学校で教師として勤めました。その間に多くの人々との交流が生まれ、時には支え協力し合いながら人生を歩みました。日本女子大学成瀬記念館の所蔵資料をもとに、ハナの豊かな人の環と遺徳を紹介します。

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調べてみると、先月の『岩手日報』さんに記事が出ていました。智恵子の名が無かったので、気づきませんでした。 

胡堂の妻ハナ、深い愛情 紫波、記念館で企画展

 紫波町出身で「銭形平次捕物控」著者の野村胡堂(1882〜1963年)の妻ハナ(1888〜1968年)の生誕130年、没後50年を記念する企画展「ハナをめぐる人の環(わ)」は、同町彦部の野村胡堂・あらえびす記念館(杉本勉館長)で開かれている。初公開の3点を含め、友人や家族との手紙や写真から、愛情にあふれるハナの人物像が感じ取れる。
 展示しているのは同館や、ハナが通った日本女子大が所蔵する書簡など36点。ソニーの創業者井深大(1908〜97年)、女性解放運動家の平塚らいてう(1886〜1971年)らとの交流を紹介する写真や手紙もある。
 このうち初公開は▽日本女子大の卒業証書▽同大第6代学長の上代(じょうだい)タノ(1886〜1982年)へ宛てた書簡▽同大図書館設立のためにハナが胡堂の代筆で書いた寄付の覚書。
 10月21日まで。午前9時〜午後4時半。毎週月曜日休館。入館料は一般300円、小中学生150円。24日、7月29日、8月26日、9月23日の午後1時半から学芸員が解説する。9月30日午後1時半からは盛岡二高箏曲部によるコンサートもある。問い合わせは同館(019・676・6896)へ。
2018.06.18


こちらのチラシが高村光太郎記念館さんに置いてあり、これは行かねば、と思った次第です。花巻街歩きはまたの機会にすることにしました。

紫波町は花巻市のすぐ北で、意外と早く着きました。平成26年(2014)に行った際には、山形市、仙台、盛岡と廻る途中で立ち寄ったため、在来線東北本線の日詰駅から歩き、結構難儀しましたが、レンタカーですと楽でした。

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申し訳ないのですが、常設展示は後に回し、まず企画展会場へ。

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智恵子より2歳年下の野村ハナ(旧姓・橋本)は、智恵子と同じ日本女子大学校の出身。智恵子のすぐ下の妹・セキと同じ教育学部の2回生で、智恵子とも親しくなり、テニス仲間の一人だったそうですし、帰省する際には福島の智恵子の実家に立ち寄ったこともあるそうです。明治43年(1910)には、野村胡堂と結婚。いろいろと事情があって、蕎麦屋の二階座敷でのささやかなものだったそうですが、その際には金田一京助が胡堂の、智恵子がハナの介添えとして出席したとのこと。ハナとセキに関してはこちら

今回の展示では、直接智恵子に関わる展示物はありませんでしたが、同級だったセキと一緒に写っている写真が数種類ありました。セキの写真はあまり見たことがなく、興味深く拝見しました。

その他、智恵子を『青鞜』に引きこんだ平塚らいてう、光太郎による日本女子大学校創設者・成瀬仁蔵胸像制作に関わったり、智恵子葬儀に女子大学校代表として参列したり、戦後は光太郎に講演を依頼したりした同校第四代校長・井上秀(朝ドラ「あさが来た」では吉岡里帆さんが「田村宜」名で演じていました)らからの書簡など。

そんな中で、展示の終わり近くでパネルに大きく印刷されていた、胡堂の「良い籤を引いた」という一文が目を引きました。昭和27年(1952)の雑誌『キング』に載ったものだとのこと。

結婚してから四十三年になるが、夫婦喧嘩というものをやった経験は無い。ご質問に応じかねて、誠に相すまぬようであるが、こればかりは致しかたもない。四十三年もの長い間を掴み合いも口喧嘩もしなかったのは、多分私は人間が甘く出来ており、老妻がズルく立ち廻った為だろうと思う。尤も、仕事のことで、時には気むずかしいこともあり、年のせいで、些か小言幸兵衛になりかけているが、老妻は巧みにあしらって、決してこれを喧嘩にはさせない。
(略)
四十三年前、もり蕎麦で結婚した私達は、もう、日本流に算えて七十一才に六十五才だ、喧嘩をせずに来たのは、運がよかったのかも知れない。これから先も無事に平凡に余生を送るだろう。つまりは良い籤を引いたのだ。

幸せな結婚生活を続けることが出来た感懐がほほえましく記されています。

この中で、こんな一節もありました。

自分の芸術のために幾人もの女に関係する男や、夫の芸術のために自分を犠牲にする女を私はお気の毒だと思っている。そんな芸術はこの世の中に無い方が宜しい。

幾人もの女に」云々はともかく、「夫の芸術のために自分を犠牲にする女」は、もしかすると、光太郎智恵子を念頭に置いているのでは、などと思いました。証拠はありませんが、昭和27年(1952)といえば、『智恵子抄』が龍星閣から復刊され、ベストセラーとなっていた時期ですので。

直接、智恵子に関する展示がなかったので少し残念に思っておりましたが、帰りがけ、ミュージアムショップ的なコーナーで、胡堂の弟子筋に当たる藤倉四郎氏の著書『バッハから銭形平次』(青蛙房・平成17年=2005)に目がとまりました。同じ藤倉氏が同じ青蛙房から出された『カタクリの群れ咲く頃の』(平成11年=1999)は所蔵しておりますが、こちらは存じませんでした。パラパラめくると、智恵子に関する記述がありました。明治44年(1911)、当時、雑司ヶ谷にセキと共に住んでいた智恵子の元を、ハナが生まれたばかりの長男を連れて訪れたことがハナの日記に記されているというのです。これは存じませんでした。購入してこようかとも思いましたが、他の部分には智恵子に関する記述がなさそうなので、図書館等で探してコピーしようと思い、やめました。セコいようですが、少しこういうところで節約しないと、なかなか厳しいものがありますので……。

さて、野村胡堂・あらえびす記念館さん、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

一体、人間が斯うやッて此世に生れて来たに就いては何か目的が無ければならない。何か神様から言ひつかッて来た事が無ければならない。唯併し乍ら、我々は其を草が草であり、木が木であるが如くには容易に知る事が出来ない。

戯曲「青年画家」より 明治38年(1905) 光太郎23歳

「青年画家」は、翻訳を除き、確認できている光太郎唯一の戯曲です。他に「佐佐野旅夫」クレジットの戯曲「地獄へ落つる人々」(明治45年=1912、『スバル』)も、実は光太郎作品ではないかと推定されますが、確証はありません。

「青年画家」は、現在では否定されているハンセン病に関する偏見があったり、筋立てにも無理があったりしますが、若き日の光太郎の、自らや芸術に対する真摯な思いが見て取れる作品です。この年、「第一回新詩社演劇会」で上演され、石井柏亭、生田葵山、伊上凡骨らが出演しました。引用部分は、与謝野寛演じる「上野」(主人公・「佐山」の親友)のセリフです。

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昨夜、1泊2日の行程を終えて、岩手花巻より帰って参りました。

花巻高村光太郎記念館さんで昨日開幕した企画展「光太郎と花巻電鉄」、早速報道されています。

地元紙『岩手日日』さん。

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『読売新聞』さん。13日(金)が報道陣向け内覧でしたが、『読売』さんは事前に取材されていました。

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昨日は、内覧にもいらした『岩手日報』さんがさらに初日イメージ 3の様子も取材されていました。そのうちにネット上でも記事が出ると思われます。下は初日のお客さん。興味深そうにご覧になっていました。

ネット上と言えば、メインのジオラマを製作された石井彰英氏の「制作日誌」がネット上に出ています。ご覧下さい。

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合間に隣接する高村山荘周辺を散策。東北北部はまだ梅雨明けして居らず、13日(金)は雨模様でした。関東ではとっくに枯れて朽ちているアジサイが、こちらではちょうど見頃でした(右上)。背景は、昭和20年(1945)から27年(1952)にかけ、光太郎が蟄居生活を送った山小屋(高村山荘)です。

残念なニュースも。

山荘のすぐわきに、昭和21年(1946)、光太郎が父・光雲の13回忌を記念して実を植えて芽を出し育った栗の巨木があるのですが、残念ながら枯死してしまいました。右下は光太郎が書いた木標を石に写したコピーです。

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倒壊の危険があるというので、近々伐採されるそうです。色即是空、諸行無常とは申しますが、やはり残念です。

逆に明るい話題では、こんなニュースも。
期    日  : 2018年7月29日(日)
会    場 : 高村光太郎記念館 花巻市太田3-85-1
時    間 : 14:00〜15:00
料    金 : 記念館入館料 大人350円 高等学校生徒および学生250円 小中学生150円

光太郎ストリングスは、岩手大学管弦楽団の卒業生によって今回のイベントコンサートをきっかけに結成されました。
クラシック、ポップス、唱歌、演歌まで皆様に楽しんでいただける曲を用意してお待ちしています。

記念館の入館料でどなたでもお聞きいただけます♪
小・中学生の方は「まなびキャンパスカード」か「ふるさとパスポート」持参で入館無料!

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演奏されるのは、花巻や盛岡にご在住の皆さんだそうです。篠笛の達人、花巻高村光太郎記念会の盒胸務局長も参加なさるとのこと。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

今年もやはりその時刻、裏山に登つて、ホトトギスの声をききながら、南方の空に美しいイメツヂを追いませう。
散文「再び村にて」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

舞踊家・藤間節子(黛節子)による「智恵子抄 第二集」プログラムに寄せた一文から。招待を受けたものの、蟄居中の身としては、東京まで見に行けないので、山小屋の裏山の見晴らしのいい高台から東京方面の南の空に向かって藤間や智恵子を偲ぶ、というのです。前年、それから翌年のプログラムにも同じ趣旨の記述があります。

その高台がこちら。ここで夜な夜な「チエコー」と叫んでいたという故事に因み、「智恵子展望台」と名付けられています。昨春、改修されました。

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そこに至る山道。ちょっとしたハイキングコースです。ふり返ると足下に山小屋。熊が出ます。

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デッキの柱には、生々しい爪痕。いかに過酷な環境かというのがわかりますね。

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花巻に来ております。

昨日から、光太郎第二の故郷とも言うべき岩手花巻に来ております。

郊外旧太田村の花巻高村光太郎記念館さんで、今日から企画展「光太郎と花巻電鉄」が始まりますが、昨日は報道陣向け内覧でした。

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展示の目玉は、品川ご在住のジオラマ作家・石井彰英氏による昔の花巻のジオラマ。このブログで何度かご紹介して参りましたが、約1年かけて作成された労作です。

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何度か石井氏の工房にお邪魔し、その都度の進捗状況は見せていただきましたが、4分割されたパネルが合体した完成形、そしてNゲージのレール上を実際に電車が走るさまは初めて拝見。企画段階から関わった身としては、感無量でした。

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その他、昔の鳥瞰図や時刻表、絵葉書など、当方がコツコツ集めた資料も展示していただいています。

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昔の花巻を知る方々には懐かしんでいただき、そうでない皆さんにも古きよき花巻を知ってほしいと存じます。

また、開幕には間に合いませんでしたが、石井氏制作のDVD (ジオラマを接写したもの)が、今月末くらいには販売開始だそうです。また後ほどご紹介いたします。

是非、足をお運びください。

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智恵子の故郷福島・二本松に近い郡山から、朗読・舞踊系の公演情報です。 
期    日  : 2018年7月21日(土)
会    場 : 郡山市公会堂  福島県郡山市麓山一丁目8-4
時    間 : 開場13:30分  開演14:00
料    金 : 無料

 第1部 朗読アラカルト
  「ラヴ・ユー・フォーエバー」  ロバート・マンチ作 
  「ベロ出しチョンマ」  斎藤隆介作  
  「元気の皮」(窓ぎわのトットちゃんより)  黒柳徹子作
 
 第2部 ドラマリーディング
  「ロンド 〜智恵子抄 雷火〜」  佐藤春夫原作  


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ご出演は、朗読パフォーマンス声人(こえびと)さん。調べたところ、郡山のコミュニティFM・ココラジでパーソナリティーを務められている宗方和子さんという方が代表で、カルチャースクールでの生徒さん達などがメンバーのようです。それから、郡山ベリーダンス・スクールの橋本みなみさんという方がダンスでご出演されるとのこと。

原作が佐藤春夫となっていますので、佐藤の「小説智恵子抄」(昭和31年=1956)を下敷きにしているのでしょう。

これ以上、詳細が分かりません。分かりませんので、観に行ってきます(笑)。レポートは後ほど。


【折々のことば・光太郎】

藤間節子さんの舞踊を見に東京にゆかれない。智恵子を踊る藤間さん、節子さんの芸に宿る智恵子、それを見にゆかれないのは甚だつらいがわたくしはもう山の住人になり過ぎて、東京の街を歩ける状態に今居ない。

散文「村にて」より 昭和24年(1949) 光太郎67歳

「智恵子抄」の二次創作として、生前の光太郎が唯一許し、実際に上演されたたのが、藤間節子(黛節子)による舞踊化のみでした。奇しくも上記「第2回朗読パフォーマンス声人(こえびと)LIVE ∞生きる∞」でも舞踊が入ります。

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しかし、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に蟄居中の光太郎は、帝国劇場でのリサイタルに招かれながら、欠礼。その代わりにパンフレットに寄せた一文です。3年後の昭和27年(1952)には、蟄居を解除し、再び東京に戻りますが、この時点ではまだそういうわけには行かなかったということでしょう。

ちなみに当方、今日、明日と1泊2日で、旧太田村に行って参ります。明日から花巻高村光太郎記念館さんで、企画展「光太郎と花巻電鉄」が始まります。

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長野県から企画展情報です。 
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期    日  : 2018年7月15日(日)〜9月17日(月・祝)
会    場 : サンリツ服部美術館  長野県諏訪市湖岸通り2-1-1
時    間 : 9時30分〜16時30分
料    金 : 大人1,000(900)円 小中学生400(350)円  ( )内は団体20名様以上の料金
休 館 日  : 祝日を除く月曜日(ただし、8月6日、13日、27日は開館)

 今から150年前、明治という新たな時代が訪れます。新政府主導のもと、政治、産業、教育、文化などあらゆるものが日々発展し、日本は急速な近代化を成し遂げていきました。
 このような激動の時代の中、芸術家たちは伝統的な美意識と新たな時代の表現を模索しながら、多くの名品を世に生み出していきました。また、武家や町衆などによって支えられていた茶の湯では、明治期に入ると政財界の人々が嗜むようになり、近代数寄者たちによる豪華な茶の湯文化が花ひらきます。
 この度、サンリツ服部美術館では明治維新150年を記念し、幕末から昭和にかけて制作された絵画や工芸作品、近代数寄者ゆかりの茶道具などをご紹介いたします。目まぐるしく移り変わる時代の中で、芸術家や数寄者たちが求めた美の世界をお楽しみください。

主な出品作品
 ・冷泉為恭「養老勅使図」 江戸時代19世紀
 ・久保田桃水「山吹鮎図」 江戸―明治時代20世紀(後期出品)
 ・竹内栖鳳「鮮魚」 昭和時代 20世紀(後期出品)
 ・竹内栖鳳「夏木野雀」 昭和時代 20世紀(前期出品)
 ・高村光雲「鍾馗像」 明治時代 19世紀
 ・富本憲吉「白磁壺」 昭和11年(1936)
 ・長次郎「黒楽茶碗 銘 雁取」 桃山時代 16世紀

関連行事
 第2回美術講座
 日時:2018年7月23日(月) 13時30分から(受付開始13時)
 講師:山盛弥生氏(実践女子大学香雪記念資料館客員研究員)  演題:近代の日本画を知る―新旧と東西
 会場:サンリツ服部美術館 2階喫茶室  定員:60名  参加費:入館料のみ 
 申込方法:電話、受付にて予約(電話0266-57-3311)
 *当日は休館日ですが、参加される方は13時から13時30分、講座終了後から15時30分まで展覧会をご覧い 
  ただけます。講座中は展示はご覧いただけません。


イメージ 1というわけで、光太郎の父・高村光雲の「鍾馗像」が出品されます。

「鍾馗」は光雲が好んで取り上げた題材の一つで、複数の作品の現存が確認できています。右は平成14年(2002)、茨城県近代美術館他を巡回した「高村光雲とその時代展」図録から。この時だけでも2体の鍾馗像が展示されました。


また後ほど紹介いたしますが、サンリツ服部美術館さんのある諏訪からほど近い安曇野の碌山美術館さんでは、企画展「荻原守衛の人と芸術Ⅱ 【夏期】 美に生きる ―荻原守衛の親友たち―」が開催され、光太郎も取り上げて下さいます。

併せて拝見に行こうと思っております。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

この本を見ると、なるほどギリシア彫刻は、彫刻の本源だなと納得させられる。

   散文「富永惣一著「ギリシア彫刻」推薦文」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

ミケランジェロ、ロダン等、光太郎の敬愛した彫刻家たちの系譜を辿っていくと、その行き着く先はギリシャ彫刻。光太郎にとっては、ある意味、自らのルーツというわけです。

実は光雲もそうでした。江戸期の仏師の流れを汲む光雲ですが、守旧にとどまることなく、文明開化で流入してきた西洋の文献等にも目を通し、自らの骨肉としています。

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こちらは、光雲が描いたもの。「写」とありますので、おそらく西洋の解剖学的な分野の文献から書き写したものでしょう。この骸骨や筋肉に肉付けをすれば、そのままあたかもギリシャ彫刻のようです。

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うっかりご紹介するのを失念していまして、始まってしまっています。 
期    日  : 2018年7月7日(土)〜8月26日(日)
会    場 : いわき市立草野心平記念文学館  福島県いわき市小川町高萩字下タ道1番地の39
時    間 : 9時〜17時(入館16時30分まで) 7、8月の土曜日は9時〜20時(入館19時30分まで)
料    金 : 一般 430円(340円)/高・高専・大生 320円(250円)/小・中生 160円(120円)
          ( )内は20名以上団体割引料金
休 館 日  : 月曜日 ただし7/16(月)は開館、7/17(火)が休館 8/13(月)臨時開館

詩人・童話作家の宮沢賢治(1896〜1933)による「雨ニモマケズ」は、東日本大震災後、あらためて世界に発信されました。無力の自覚にたって他者を思いやり、助け合う精神が再認識され、彼の作品があらためて注目されています。
本展では、1924年からの10年間、賢治の宇宙と心平の天が重なりあった生前交友に光をあてながら、心平が広めた賢治世界の魅力を紹介します。

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関連行事

講演と朗読コンサート 「雨ニモマケズ」
 7月 29日㈰ 14時 〜15時 30分 
 講演 宮澤和樹  ㈱林風舎 代表取締役 宮澤賢治親族 
 朗読 宮澤やよい「宮澤賢治所有のヴァイオリン」を演奏 宮澤香帆

講演会 賢治と心平 ̶「世界的だなどといふことは……」̶
 7月 8日㈰ 14時 〜15時 30分 
 栗原 敦 (実践女子大学名誉教授)

対 談 「賢治と心平の対話」   
 7月 15日㈰ 14時 〜15時 30分
 牛崎敏哉(宮沢賢治記念館学芸員) 小野 浩(当館専門学芸員)

作品ガイド 賢治ファンタジーの時空ツアー  
 7月 22日㈰ 14時 〜15時 30分
 安斉重夫(彫刻家 イーハトーブ奨励賞2011年受賞)

いずれも会場は文学館小講堂で、聴講、鑑賞無料、先着150名、お申し込み不要です。


地元紙『福島民友』さんの報道から。 

宮沢賢治直筆の手帳や資料、いわきで展示 草野心平との縁示す

 いわき市の草野心平記念文学館企画展「宮沢賢治展―賢治の宇宙心平の天」は7日、同館で開幕した。全国で今年初出展となる「雨ニモマケズ」の一節が記された直筆の手帳など、貴重な資料が展示されている。8月26日まで。
 同館20周年記念事業の一環。賢治が死の前日に記した資料「絶筆二首」や、本県ゆかりの詩人草野心平、高村光太郎との縁を示す資料や水彩画など約120点を展示している。会場には、同市在住の鉄の彫刻家安斉重夫さんが賢治の童話の世界をテーマに手掛けた作品も並ぶ。
 初日には、企画展に協力した賢治の実弟宮沢清六さんの孫和樹さんも訪れ、来館者に「草野心平がいなければ高村光太郎との出会いもなく、賢治の作品が世の中に認められるきっかけも生まれなかった」と説明した。
 開館時間は午前9時〜午後5時(土曜は同8時)。休館日は毎週月曜と7月17日(同16日は開館)。観覧料は一般430円、高校・高専・大学生320円、小・中学生160円。会期中は講演会や対談も開催する。問い合わせは同館(電話0246・83・0005)へ。


当初は、心平、賢治、光太郎、そして黄瀛の、4人の詩人の交流といった企画展にする予定だったらしいのですが、光太郎と黄瀛は脱落(笑)。まぁ、手を広げすぎずに心平と賢治に絞ったということでしょうか。

それでも、光太郎が揮毫し、花巻に建つ「雨ニモマケズ」詩碑碑文の書が展示されますし、他にも光太郎に関わる展示物がありそうです。

当方、来週末に行って参ります。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

外山卯三郎先生の厳格な監督だけあつて、企画そのものの秀抜さに加へて印刷の立派なことも、在来のものの比ではありません。児童美意識の助長に絶好の教材であると思ひ、喜んで此を世に推せんする次第です。

散文「教材社「児童の図画工作」推薦文」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

外山卯三郎(とやまうさぶろう)は、詩人・美術評論家です。

気になったのは「助長」の語。早く育てたいあまり、田の苗を指で引っ張って結局は枯らせてしまったという中国の故事から、マイナスの意味での使い道しかないとばかり思っていました。そこで、「言葉に厳格な光太郎にしては、間違った使い方をしているな」と思いましたが、よくよく調べてみると、「助長」にはポジティブな意味で生育を助けるという意味もちゃんとありました。勉強になりました(笑)。

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加藤剛さん訃報。

俳優の加藤剛さんの訃報が出ました。 

加藤剛さん死去 「砂の器」「大岡越前」 80歳

 映画「砂の器」やテレビ時代劇「大岡越前」で知られた俳優の加藤剛(かとう・ごう、本名・剛=たけし)さんが6月18日、胆嚢(たんのう)がんで死去したことが9日わかった。80歳だった。所属する俳優座が発表した。葬儀は家族で営んだ。お別れの会を9月22日、東京都港区六本木4の9の2の俳優座劇場で予定している。
 1961年、早稲田大学文学部(演劇)卒業。俳優座の養成所を経て64年、入団。デビューは62年のテレビドラマ「人間の条件」だった。代表作は70年から99年まで続いた「大岡越前」(TBS)。犯罪に厳しく、人間に温かい名奉行ぶりで人気を博した。NHK大河ドラマでは「風と雲と虹と」(76年)、「獅子の時代」(80年)で2度主演した。
 松本清張原作の映画「砂の器」(74年)では、冷徹さの裏に苦悩を隠し持つ天才音楽家を演じ、映画をヒットに導いた。平和問題への関心が高く、木下恵介監督の「この子を残して」(83年)では、放射線医学の研究者で自らも長崎で原爆に被爆した永井隆博士を誠実に力演した。
 俳優座を代表する俳優の一人として舞台に立ち続けた。80年代から上演された「わが愛」3部作に主演。95年には強制収容所のガス室に消えたポーランド人医師を描いた「コルチャック先生」に、99年には「伊能忠敬物語」に主演した。
 紀伊国屋演劇賞(79、92年)、芸術選奨文部大臣賞(92年)など受賞多数。08年に旭日小綬章を受けた。
 映画「忍ぶ川」などで共演した栗原小巻さんは「悲報に接し、めまいがいたしました。彼はとても知性的で、懸命で、高潔な人でした。人柄も画面や舞台の中の彼そのままでした」と話した。
 俳優座養成所でともに学んだ長山藍子さんは「温かいユーモアもありました。論理だけではなく情の厚さも加わる、あの『大岡裁き』。剛ちゃんだからこそ演じることができたのだと思います」と話した。

『朝日新聞』2018/07/10


加藤さんによる「智恵子抄」の朗読が、2種類、ソフト化されています。

まずは昭和42年(1967)、日本ビクターさんのフィリップスレーベルからリリースされたLPレコード。

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28編の詩が収められています。まだ20代の加藤さんの若々しい声が、印象的です。

ジャケットの内側に、加藤さんの言葉、「僕もまた大風のごとく」。

イメージ 2

 「智恵子抄」の朗読者として僕を、というお話のあったとき、正直のところひどく迷いを感じた。そして考える日数をいただいた。清冽な愛のかたちを思うとき、恐らく日本人の誰もが脳裏に浮かべるだろう、それは美しい詩集である。編まれて以来どれほどの数の人の胸の中に暖かくしみとおり唇の上で愛されてきた作品かを考えると、若い僕などの力の及ぶ範囲は自ずと知れていよう。
 ましてやこの作品の高さに相応しい、磨かれた朗読術――方法論を身につけられた諸先輩が数多くいられるではないか、と僕は心を決しかねた。
 そんな夜半、濃い珈琲を道づれに作品集のページを繰りながら、僕は高村光太郎先生のこんな言葉にふと捉えられた。
 「ともかく私は今いわゆる刀刃上をゆく者の境地にいて、自分だけの詩を体当り的に書いていますが、その方式については全く暗中模索という外ありません。いつになったらはっきりした所謂詩学が持てるか、そしてそれを原則的な意味で人に語り得るか、正直のところ分りません」
 この「自分だけのための体当り的詩」が僕にもうたえぬものか。「智恵子抄」の世界が、生活者としての詩人の心の内を小止みもなく衝きあげるみずみずしい言葉にこんなにもあふれている以上、「所謂詩学」などは無縁なのかも知れない。「方式」などは二の次かもしれない。生命によせる素直な讃美や感動、人を愛する激しく豊かな心のうねり、それらに唯ぴったりと己を重ね合せようとするところに、意外にも僕の出発点はありはすまいか。それが「朗読」と呼べるかどうかはわからない。事実今の僕にとって「方式」は明確ではないのだ。
 僕は多分「詩人高村光太郎」の役を与えられた俳優の発想で「智恵子抄」に立ち向かおうとしているのだと思う。なんとも盲蛇式の図々しい発想ではあるけれども。
 その夜半、僕は冷えた珈琲を啜って再度、智恵子のイメージを追慕した。
 「わがこころはいま大風の如く君にむかへり」。学生時代から何となく暗誦んじていた「郊外の人に」の最初の一節が、不思議に新しい響きを持って心を占めた。僕もまた、今はただひたすら大風のごとく、この仕事に挑むほかはない。

何とも誠実なお人柄が偲ばれる文章です。

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画像はレコーディング風景。左はレコードの監修者で、映画監督の故・若杉光夫氏です。

ちなみにこのレコードは、昭和51年(1976)、フォンタナ・レコードさんから覆刻されました。

イメージ 4


2回目は、昭和62年(1987)。新潮社さんでシリーズ化していた「新潮カセットブック」の一つとしてでした。タイトルは「『智恵子抄』より」。

イメージ 5イメージ 6























詩が29篇、それから「智恵子抄」に収められた「巻末の短歌」6首。

こちらはジャケットに加藤さんの言葉はありませんが、翌年発行の雑誌『彷書月刊』(ちなみに題字揮毫は当会顧問・北川太一先生です)第4巻第10号、「特集 高村智恵子」に掲載された、加藤さんの「無辺際を飛ぶ天の金属」という文章で、前述のレコード、そしてこのカセットブックに触れられています。

 「高村智恵子様。不躾ないい方を許して下さい。もし、詩イメージ 7人・彫刻家高村光太郎の役が僕に与えられたのだったら――、そんな発想がある日きらりと全身をつらぬきました。ここからすべての風が起こり、すべてが燃えひろがりました。僕の『智恵子抄』はこのときにはじまったのです。」(エッセイ集『海と薔薇と猫と』)
 と、私はそのとき、正直に記している。私の朗読で「智恵子抄」がレコード化された二十年前であった。この類まれな詩篇の美しさ、高さに、はたして己れが相応しいか、と迷い続けた録音前数ヵ月。けれど、「もう人間であることをやめ」て、「見えないものを見、聞えないものを聞」く、「元素智恵子」は、いつのまにか、あたかも明晰な自然のように無理なく「光太郎」としての私のかたわらにいたのだった。
 「智恵子様。何十年かのち、僕が老優になったときもう一度、この作品を朗読する光栄をお与え下さいますよう」、と私が心の中で結んだ手紙に、「智恵子」からの「返事」が届いたのは二十年後で、この光栄な機会は、あやうく老優になる前に再び訪れた。今回はカセットブックである。「智恵子」が私の「光太郎」を許容してくれたのか、と私は嬉しい。「智恵子」は私にとっても永遠に「無辺際を飛ぶ天の金属」である。


こちらのカセットブックは、同じ新潮社さんからCD化され、現在も販売中です。


そして、平成23年(2011)には、『朝日新聞』さんの福島版で連載された「「ほんとの空」を探して」の第二回にご登場。やはり「智恵子抄」朗読について語られています。

イメージ 8


末尾近くの「国家ではなく、一人ひとりの人間が権威を持つ。光太郎先生と智恵子さんの自由への思いは、我々に力を与えてくれる」というお言葉、その通りですね。


謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

土門拳は不気味である。土門拳のレンズは人や物を底まであばく。レンズの非情性と、土門拳そのもののの激情性とが、実によく同盟して被写体を襲撃する。この無機性の眼と有機性の眼との結合の強さに何だか異常なものを感ずる。

散文「土門拳写真集「風貌」推薦文」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

光太郎もそのレンズの餌食となった、写真家・土門拳の写真集に寄せた一文から。

朗読レコードにしてもそうですが、まだデジタル技術が開発されていなかったとはいえ、「真」を「写」す技術、それが芸術へと昇華していくことに、光太郎も新時代の到来を感じていたようです。

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