高村光太郎連翹忌運営委員会のブログ

4/2は高村光太郎(1883〜1956)の命日、連翹忌(れんぎょうき)です。
先週末、当方が花巻に行っている間に開催されたイベントが報道されていますので、ご紹介します。

まずは『神奈川新聞』さんから、 「横浜日枝神社例大祭」に関して。  

修復神輿お披露目 横浜、「火伏行列」練り歩き

 お三の宮として親しまれている日枝神社(横浜市南区)例大祭のメイン行事の一つ「火伏(ひぶせ)神輿(みこし)行列」が15日、同市中区のイセザキ・モールで行われた。約90年ぶりに神輿の修復を済ませてからは初めての行列で、塗り直された極彩色の彫刻などが披露された。
  烏帽子(えぼし)と白装束姿の氏子約30人が神輿を担ぎ、「エイサー、エイサー」の掛け声でゆっくりと練り歩いた。
  神輿は大正天皇即位記念事業の一つとして伊勢佐木町の商店主らが企画。当時の帝室技芸員・高村光雲らが1923年に製作した。関東大震災と横浜大空襲の2度の火難を逃れたことから火伏神輿と呼ばれるようになった。
  2016年の修復の世話人を務め、祖父が製作時の世話人だった渡辺洋三さん(65)は「高村光雲の木彫りがひときわ美しくなった。火伏神輿は地域の宝であり文化財。大切に残していきたい」と語った。

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続いて、光太郎詩「あどけない話」の一節「ほんとの空」を冠した、「ふくしま ほんとの空プログラム」について、『福島民報』さんから。  

鮫川の自然満喫 児童らピザ作り「ふくしま ほんとの空プログラム」

 子どもの好奇心と探究心を育む原体験活動「ふくしま ほんとの空プログラム」は16日、鮫川村赤坂東野字葉貫のあぶくまエヌエスネットで始まった。県内外の児童、保護者ら25人が日帰りで里山の自然を満喫した。
 子どもたちがウオールクライミングや広場で野球をして体を動かしたほか、小川で水生生物をつかまえたり、ヤギと触れ合ったりして、ゆったりとした時間を過ごした。昼食には石窯を使ったピザ作りも体験。自ら生地を広げて、野菜などをトッピングした。福島市の新田樹君(9つ)=清水小3年=は「鮫川村に来たのは初めて。いろいろな自然がある」と話し、木工遊びなどを楽しんだ。
 福島民報社の主催、JTB東北法人営業仙台支店の企画・実施、NPO法人あぶくまエヌエスネットの協力、鮫川村の後援。王子製紙、オーデン、花王、常磐興産、大王製紙、テーブルマーク、東北エールマーケット、日本シビックコンサルタントの協賛。
 今後のプログラムは30日と10月22日に同様の日帰りを、10月28、29の両日に1泊2日の宿泊体験を実施する。日帰りは時間がともに午前10時〜午後3時半。小学生3000円、保護者1500円。宿泊体験は小学生7000円、保護者5000円。
 参加希望者は、はがきに(1)参加希望プログラム(2)参加者氏名(ふりがな)(3)生年月日(4)学年または年齢(5)性別(6)学校名(7)郵便番号(8)住所(9)日中連絡がつきやすい電話番号(10)アレルギーや投薬など運営団体への連絡事項を記入し、郵便番号980−0804 仙台市青葉区大町1の4の1 明治安田生命仙台ビル4階 JTB東北法人営業仙台支店「ふくしま ほんとの空プログラム」係へ。プログラムに関する問い合わせは福島民報社東京支社 電話03(6226)1001(平日午前10時〜午後5時)へ。旅行内容に関する問い合わせはJTB東北法人営業仙台支店 電話022(263)6712(平日午前9時半〜午後5時半)へ。

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「ほんとの空」の語を冠したイベント、別件で来週にも行われます。明日、ご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

おのれの暗愚をいやほど見たので、 自分の業績のどんな評価をも快く容れ、 自分に鞭する千の非難をも素直にきく。 それが社会の約束ならば よし極刑とても甘受しよう。
連作詩「暗愚小伝」中の「山林」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

連作詩「暗愚小伝」終末の一篇です。全20篇を書き上げ、自らの戦争責任と、そこに到るこれまでの生涯を振り返り、到った境地がここでした。

戦時中、ほとんどの文学者が光太郎同様、翼賛作品を書いていました。一般には戦争反対の立場を貫いたとされる文学者もいますが、翼賛作品が隠蔽されているに過ぎず、なにをかいわんや、です。そして、戦後、ここまでの反省を公にした文学者は、ほぼ光太郎のみと言っていいと思います。歌人のSなどは過ちを認めず、かたくなに天皇崇拝、神国日本讃仰をやめませんでした。左翼系詩人のTなどは、戦時中に自らも翼賛詩を書いていたことを棚に上げ、戦犯糾弾の急先鋒となりました。そしてほとんどの文学者は、民社主義による明るい未来の
到来を信じて疑わず、楽天的な作品を書きました。

無論、「暗愚小伝」による光太郎の反省とて、言い訳がましさ、他への責任転嫁的な部分も見られ、十分とは言い難いものではあります。しかし、その後に展開された光太郎の詩業、そして実生活は、その反省をさらに押し進め、揺るぎないヒューマニズムに根ざしたものとなっていきます。

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先週の金・土と、1泊2日で岩手花巻を訪れておりました。郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に隣接する花巻高村光太郎記念館さんで、金曜から始まった「秋期企画展 智恵子の紙絵 智恵子抄の世界」を拝見し、さらにその前後、光太郎ゆかりの場所をいろいろと廻りました。

高村光太郎記念館さんの企画展で、光太郎が彼の地に暮らしていた頃よく利用していた花巻電鉄にスポットをあてた展示も視野に入れている、という話が以前にあり、それなら智恵子終焉の地・ゼームス坂病院を含む大井町近辺のジオラマを作成されたジオラマ作家の石井彰英氏に、ジオラマを作成していただいてはどうかと思いついて、氏と花巻の記念会さんに打診したところ、双方前向きなご返事。石井氏がぜひ現地のロケハンを、ということなので、ご案内した次第です。石井氏の息子さんも助手として同行されました。

石井氏、試作品をお持ちくださいました。

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右が花巻電鉄の車両、左の方は大八車やリヤカーです。

光太郎が暮らしていた頃の花巻町とその周辺を、畳一畳分くらいに再現、そこに廃線となった花巻電鉄を走らせるというコンセプト。そこで、光太郎ゆかりの建造物などが残っている場所をレンタカーで廻りました。

光太郎が暮らした太田地区にある「新農村地域定住交流会館・むらの家」。直接の関わりはありませんが、当時の農家建築の例として。

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光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)。

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花巻電鉄が二系統あったうちの片方の終点、市街北西部の花巻温泉。

元の駅の跡。

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線路跡はサイクリングロードとなり、それとわかるように残っています。右下は初代花巻電鉄社長・金田一国士の顕彰碑。光太郎の詩「金田一国士頌」が刻まれています。

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光太郎がたびたび泊まった旧松雲閣別館。

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宮沢賢治が設計した花壇。復元されたものですが、オリジナルは光太郎が眼にしているはずです。

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続いて、一山越えて、花巻電鉄のもう一方の系統が走っていた、花巻南温泉郷。

鉛温泉藤三旅館さん。

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右上の画像、三階の一番左の部屋に、光太郎が泊まりました。

そして、その日の宿、大沢温泉さん。こちらも光太郎御用達です(笑)。

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翌日は、市街地方面へ。

光太郎が山小屋からの行き帰りによく使った二ツ堰駅跡。最寄り駅は神明駅でしたが、二ツ堰駅は単線の交換駅で、市街から二ツ堰駅止まりの列車もあり、主にここで乗降していました。ここから山小屋まで徒歩1時間強です。

向かい側には光太郎が立ち寄った遊坐商店の建物があります。


花巻駅西口近くの材木町公園。移築された旧花巻町役場と、静態保存されている花巻電鉄の車両。

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市街の鳥谷ヶ崎神社さん。光太郎は終戦の玉音放送をここで聴きました。

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光太郎が父・光雲や妻・智恵子、そして母・わかの法事をやってもらっていた松庵寺さん。今も毎年4月2日に花巻としての連翹忌法要を営んで下さっています。

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光太郎が碑文を揮毫した桜町の賢治詩碑。昨年の今頃、この碑の前でお話しをさせていただきました。今年も賢治祭に向け、周辺の草刈りなどが行われていました。

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すぐ近くの桜地人館さんにも立ち寄りました。

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やはり近くの佐藤隆房邸。旧太田村の山小屋に移る前、1ヶ月ほど光太郎が暮らしていました。

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最後に、元々は賢治詩碑のあった場所に建っていた、羅須地人協会。宮沢家の別荘だった建物です。現在は花巻空港近くの花巻農業高校さんに移築されています。当方、移築後、初めて訪れました。

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他にも光太郎ゆかりの地、足跡の残る場所はありますが、とりあえず代表的なところはこんなものかということで、駆け足で巡りました。

これらの場所が、石井氏の手によって、どのようなジオラマとなってゆくのか、非常に楽しみです。

花巻で、光太郎ゆかりの地を歩きたいという方、ご参考になさって下さい。


【折々のことば・光太郎】

日本はすつかり変りました。 あなたの身ぶるひするほどいやがつてゐた あの傍若無人のがさつな階級が とにかく存在しないことになりました。

連作詩「暗愚小伝」中の「報告(智恵子に)」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

敗戦、そしてGHQによる統治が始まり、「傍若無人のがさつな」軍は解体されました。そして世界に誇る平和憲法の制定。しかし同じ詩の中で、それを「他力による変革」、「内からの爆発で」「自力で得たのでないことが」「恥しい」としています。

それをないがしろにし、いわんやなし崩しに改悪しようとする現在の「傍若無人のがさつな階級」の出現までも、光太郎は見こしていたのかもしれません。

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昨日まで1泊2日で、光太郎第二の故郷とも言うべき岩手花巻に行っておりました。2日に分けてレポートいたします。

まずは光太郎が戦後の7年間を暮らした、郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に隣接する高村光太郎記念館さんの「秋期企画展 智恵子の紙絵 智恵子抄の世界」。状況をわかりやすくするために、新聞各紙の報道を引用いたします。

一昨日の『朝日新聞』さん。 

岩手)智恵子の紙絵を公開 15日から高村光太郎記念館

 花巻市太田の高村光太郎記念館で15日から企画展「智恵子の紙絵・智恵子抄の世界」が始まる。光太郎の妻智恵子が、晩年の療養中に包装紙や色紙をはさみで切り抜いて作った「切り抜き絵」のオリジナルや複製品など約30点を集めた。同館は「繊細で豊かな智恵子の色彩感覚を間近で感じ取ってほしい」としている。11月27日までで、期間中は休館しない。
 心の病に侵された智恵子が1938年に52歳で亡くなるまで、療養の一環として光太郎にだけ見せるため制作した。アジやイチゴなどを繊細に切り取って台紙に貼り付けたもので、光太郎が「紙絵」と名付けた。戦時中も作品を花巻市や山形県などに疎開させたため、焼失を免れたという。(溝口太郎)

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続いて昨日の『岩手日報』さん。 

智恵子の紙絵に光 花巻・高村光太郎記念館企画展

 花巻市太田の高村光太郎記念館で15日、企画展「智恵子の紙絵・智恵子抄の世界」が始まった。彫刻家で詩人の光太郎(1883〜1956年)の妻智恵子(1886〜1938年)に光を当て、色彩豊かな切り絵作品を紹介する。
  福島県二本松市出身で洋画家だった智恵子は芸術的苦悩から心を病み、病床で包装紙と小さなはさみで花や果物をモチーフに創作活動を続けた。
  展示作品約30点はいずれも最晩年の作。細部にこだわる繊細さと、構図や色使いの大胆さを併せ持つ。光太郎との唯一の合作「いちご」も展示する。
 映画「智恵子抄」のポスターなど関連資料を紹介し、花巻高村光太郎記念会が詩集「智恵子抄」ゆかりの風景を取材した映像作品も上映。同会企画担当の高橋卓也さん(40)は「(智恵子が)本能のまま無垢(むく)のセンスで仕上げた作品を間近に見てほしい」と来場を呼び掛ける。
  11月27日まで午前8時半〜午後4時半。休館日なし。入場料は一般550円、高校・学生400円、小中学生300円。問い合わせは同館(0198・28・3012)へ。

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というわけで、花巻高村光太郎記念会さん所蔵の、実物の紙絵2点。

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あとは複製ですが、遠目には区別が付かない精巧なものです。

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「花巻高村光太郎記念会が詩集「智恵子抄」ゆかりの風景を取材した映像作品」は、プロジェクタで上映されています。下の画像の右上です。

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その下が「映画「智恵子抄」のポスター」。昭和32年(1957)の東宝版(原節子さん主演)、同42年(1967)の松竹版(岩下志麻さん主演)のものです。

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他にそれらの公式パンフレット、それから光太郎生前の昭和26年(1951)と同28年(1953)に、東京で開催された智恵子紙絵展のパンフレットも展示されています。そのあたり、当方がお貸しいたしました。

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一昨日も、早速、秋田県大仙市から団体さんがお見えでした。ありがたいかぎりです。

また、同じ敷地内の旧高村記念館、先月から「森のギャラリー」として利用されています。

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現在、盛岡市の岩手県立美術館さんで、企画展「花森安治の仕事 デザインする手、編集長の眼」が開催中。昨年、NHKさんの朝ドラ「とと姉ちゃん」で扱われた、雑誌『暮しの手帖』編集長だった花森安治の関連です。それに合わせ、森のギャラリーでも『暮しの手帖』などが展示されています。

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花森と共に、同誌の編集に当たった大橋鎭子は、昭和25年(1950)、光太郎にも寄稿を依頼するため、旧太田村の山小屋にもやってきました。その際に持ってきたか、その前後に東京から送ったものです。結局、光太郎の寄稿は実現しなかったようですが。


ぜひ足をお運び下さい。

ただし、注意が一点。記念館周辺、熊が出没しています。

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記念館さんの看板には、爪を研いだ跡が。イメージ 11

基本的には臆病な動物なので、人気のない時間帯に歩いているようですが……。


【折々のことば・光太郎】

不思議なほどの脱卻のあとに ただ人たるの愛がある。 雨過天青の青磁いろが 廓然とした心ににほひ、 いま悠々たる無一物に 私は荒涼の美を満喫する。

連作詩「暗愚小伝」中の「終戦」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

昭和20年(1945)、4月の空襲で東京を焼け出され、宮沢賢治の実家に身を寄せた光太郎。その宮沢家も終戦5日前の空襲で全焼し、旧制花巻中学校の元校長・佐藤昌宅で、8月15日を迎えました。正午には近くの鳥谷ヶ崎神社で玉音放送を聴いています。

10月には郊外太田村の、熊が歩き回る山小屋に移り住み、その頃には忠君愛国精神の呪縛から解き放たれ、「ただ人たるの愛がある」という境地に達しました。

」は「却」の正字です。

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花巻に来ております。

昨日から光太郎第二の故郷とも言うべき岩手花巻に来ております。光太郎もたびたび宿泊した花巻南温泉郷・大澤温泉菊水館さんにてこの記事を書いています。

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花巻高村光太郎記念館さんでは、昨日から企画展「智恵子の紙絵 智恵子抄の世界」が開催されていて、そちらを拝見。


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さらに今回は、ジオラマ作家の石井彰英氏と同道、花巻市内の光太郎ゆかりの場所をレンタカー🚙で訪ね歩いております。昨日は光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋(高村山荘)、郊外の花巻温泉、花巻南温泉郷などを回りました。

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今日はこれから花巻市街を歩きます。

来年、花巻高村光太郎記念館さんの企画展で、石井氏のジオラマを展示する方向で話が進んでいて、そのためのロケハンです。

詳しくは帰りましてからレポート致します。

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福井から、光太郎と交流の深かった彫刻家・高田博厚を取り上げる企画展情報です。 

没後30年記念 高田博厚展 対話から生まれる美

期   日 : 2017年9月16日(土)から11月5日(日)
会   場 : 福井市立美術館  福井市下馬3-1111
時   間 : 午前9時 〜 午後5時15分(入館は午後4時45分まで)
休  館  日 : 月曜日(祝日の場合は翌日)、祝日の翌日(日曜日を除く)
料   金 : 一般1,000円、高校・大学生500円、小中学生200円

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福井市ゆかりの彫刻家・高田博厚(19001987)が、この世を去り今年は30年となります。高田の生涯を彩る多くの師友との交流は、人間の本質を追求し続けた彼の思索と創作の支えともなりました。本展では初期から晩年までの代表作に加え、彼が影響を受けた人々や交流のあった人々の作品を併せて展覧し、その生涯と創作の軌跡、さらに彼の芸術の魅力に迫ります。


『福井新聞』さんの記事から。

高田博厚の生涯たどる 福井市美術館16日から企画展

 少年時代を過ごした福井で文学、哲学、芸術に目覚め、渡仏して近代日本彫刻を代表する作家となった高田博厚(1900-87年)。没後30年を記念し、評論家、思想家としても数々の著作を残し、日本、欧州で一流の文化人と交わったスケールの大きな生涯を、代表作や影響を受けた巨匠の名品とともに展観する企画展「高田博厚展―対話から生まれる美」(福井新聞社共催)が16日から、福井市美術館で開かれる。
  石川県七尾市生まれの高田は、2歳のときに福井県出身だった父の弁護士開業のために福井市に移り住み、18歳までを過ごした。学校の勉強よりも哲学や文学、美術書に熱中する早熟な生徒だった。
  上京後は彫刻家、詩人の高村光太郎と親しく交わり、独学で彫刻を始めた。31年に妻と4人の子どもを東京に残して渡仏。近代彫刻の巨匠ロダン、ブールデル、マイヨールの作品を目の当たりにし、10年間彫刻をやってきた自負は砕け散ったという。
  だが文豪ロマン・ロランをはじめ哲学者アラン、詩人のジャン・コクトーら知識人の輪に招き入れられ、友情に支えられた。高田は彫刻に没頭し、他者、自己との対話を通じて感性を磨き、思索を巡らせた。やがて、彼らの内面や精神の面影までも照らし出すような肖像彫刻を制作するようになる。結局パリ滞在は第2次世界大戦をまたぎ、27年間に及んだ。
  展覧会は福井・東京時代からパリ時代、帰国後の東京・鎌倉時代へと生涯をたどる5章構成。肖像、人体像を中心とした収蔵品に借用品を加えた計65点と、晩年を過ごした鎌倉市などから借り受けた愛蔵品、アトリエにあった制作道具なども並べる。
  パリ時代に手掛けた傑作トルソー「カテドラル」(1937年)や、ロランやアラン、ガンジーら交流のあった人々の肖像彫刻をはじめ、若き日の高田に衝撃を与えたロダンの「ロダン夫人」(1882年、大原美術館寄託)やマイヨールのトルソー「ヴィーナスの誕生」(1918年、群馬県立近代美術館蔵)などの名品も併せて展示。高田の像の特異性を浮き彫りにする構成となっている。
  洋画家岸田劉生の元を訪ねた際に持参した18歳のときの油彩画「自画像」(1918年、個人蔵)や、貴重なドローイングも並べる。福井市美術館の鈴木麻紀子学芸員は「西洋彫刻の精神性を理解し、モデルの内面の本質に迫ることを重視した高田は、『似ていなければ、彫刻に似せていけばいい』とまで言い切り、自分の表現を求めた。福井にこんなスケールの大きな作家がいたことを知ってほしい」と話している。
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 11月5日まで。一般千円、高校・大学生500円、小中学生200円。10月1、7、14、22日は午後2時から作品解説会がある。10月28日には高村光太郎と妻智恵子、高田の人間模様を描いた朗読劇を3回上演する。問い合わせは福井市美術館=電話0776(33)2990。


というわけで、高田の企画展というだけでは紹介しないのですが、光太郎智恵子にかかわる朗読劇があるとのことで、取り上げさせていただきました。ただ、ネットで調べても詳細な情報が未掲載です。

詳しく分かりましたらまたご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】 

午前二時に私はかへる。 電信柱に自爆しながら。

連作詩「暗愚小伝」中の「暗愚」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

戦争が烈しくなってきてからの回想です。午前二時にどこから帰るのかというと、「場末の酒場」からだそうです。「金がはいるときまつたやうに/夜が更けてから家を出た」そうです。「心にたまる膿のうづきに/メスを加へることの代りに」飲んだくれていたとのこと。

大量の翼賛詩を書き殴りながら、戦況は日に日に悪化。学徒出陣の若者などが、出征前に光太郎に会いに来たりということも少なからずありましたが、中には戦死してしまった人もいたわけで、負い目を感じながらも国民を鼓舞することをやめられなかった、己の「暗愚」が描き出されています。

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新聞各紙から。

まずは福島の地方紙2紙。今月9日に開幕した「重陽の芸術祭2017」関連です。

『福島民報』さん。 

【重陽の芸術祭】新たな驚きを楽しむ(9月9日)

 「重陽の芸術祭」がきょう二本松市で開幕する。現代美術の最先端で活躍する作家が「重陽の節句」の9月9日から11月23日まで、秋の城下町を舞台に美を競う。普段目にする機会の少ない独創的な作品が並び、県内外から大勢が足を運ぶと期待される。芸術による新たなにぎわいづくりに注目したい。
 二本松のシンボルである霞ケ城の本丸跡にはヤノベケンジさんが制作した巨大な黒猫像「SHIP’S CAT(船乗り猫)」が立つ。黒猫は古来、船のネズミを捕り、幸運を呼ぶと船員に愛されてきた。福島復興への願いがこもる。360度に広がる眺望の中に現れる大きな猫は、見る者を驚かせる。
 ヤノベさんは東日本大震災と東京電力福島第一原発事故の発生後、作品を通して被災地の応援活動を繰り広げてきた。「霞ケ城は“天空の城”として有名な兵庫県の竹田城にも匹敵する景観を持つ。ここから全国に幸せを発信したい」と意気込む。
 二本松は芸術家でもあった高村智恵子の古里とあって、刺激を受けた女性作家らの力作も楽しみだ。刺しゅう美術家の清川あさみさんは、智恵子の生家に作品を展示する。「智恵子の生まれ故郷で感じたことを、作品に混ぜ込んで表現する」と語る。「智恵子の紙絵も見て勉強した」という切り絵美術家の福井利佐さんは、東北地方に伝わる「お飾り」(切り紙飾り)や鬼婆伝説にちなむ作品を安達ケ原ふるさと村に展示する。
 若い才能のきらめきも見逃せない。福島大で美術を学ぶ学生、院生らが運営を手伝いながら、自分たちの作品を制作している。100の妖怪の絵を上川崎の和紙に描き、10月14日に霞ケ城公園で開幕する菊人形の会場に並べる。
 芸術祭は2年に一度の「福島現代美術ビエンナーレ」が昨年、二本松市で催されたのがきっかけとなった。まちおこしに生かそうという機運が高まり、ビエンナーレに続けてさらに工夫を凝らし、13カ所を会場に展開する。美術の力が人々の心に火をつけ、まちを動かした。会期中、舞踊や朗読音楽劇、日本酒のイベントなども花を添える。
 本県は美しい自然や名所旧跡に恵まれている。この秋は美術を新たな魅力として加えたい。創造力の思いがけない輝きに出合えることが現代美術を鑑賞する喜びでもある。歴史ある街並みを巡り、個性的な美を見つけてほしい。全国から訪れるファンと住民らが、街角で芸術談議に花を咲かせる場面が見られたら、うれしい。(佐藤克也) 

二本松で「重陽の芸術祭」開幕

 福島県観光復興推進委員会のふくしま秋・冬観光キャンペーンの特別企画に選ばれている現代アートの祭典「重陽の芸術祭」は9日、二本松市で開幕した。11月23日まで。
  初日は県立霞ケ城公園本丸跡で「重陽の乾杯」が行われ、芸術家オノ・ヨーコさんの言葉が刻まれたスチール板が除幕された。安達太良山を遠くに眺めながら、出席者が菊茶で乾杯した。安達ケ原ふるさと村農村生活館で朗読音楽劇「黒塚」が上演された。
  県立霞ケ城公園、智恵子の生家、安達ケ原ふるさと村などにオノさんをはじめ、切り絵作家福井利佐さん、刺しゅう作家清川あさみさんらの作品が並んでいる。問い合わせは市振興公社 電話0243(61)3100へ。


『福島民友』さん。 

【二本松】現代美術の祭典「重陽の芸術祭」開幕 最先端アート触れて

 現代美術の祭典「重陽の芸術祭」が9日、二本松市で開幕した。最先端のアートを通して地域の文化に触れる機会を設けようと、智恵子の生家や安達ケ原ふるさと村など市内各所で11月23日まで繰り広げる。
 福島大の「芸術による地域創造研究所」を中心とした実行委の主催で、9日は県立霞ケ城公園の天守台で同日の「重陽の節句」に合わせたイベントを開催。高い場所で菊酒を飲むと邪気をはらい、災いが避けられるという言い伝えがあり、来場者が菊茶で乾杯した。
 参加アーティストのワタリドリ計画(麻生知子さん、武内明子さん)の2人が、芸術家オノ・ヨーコさんから寄せられた言葉を刻んだプレートを除幕。現代美術家ヤノベケンジさんが幸福を呼ぶために制作した高さ3メートルの黒猫像「シップス・キャット」がお目見えした。
 重陽の芸術祭の問い合わせは市振興公社(電話0243・61・3100)へ。


続いて、横浜伊勢佐木町で明日から始まる日枝神社例大祭について、『神奈川新聞』さんの記事。 

災難乗り越え 伝説の神輿お披露目

 関東大震災と横浜大空襲を免れた神輿(みイメージ 1こし)を地元住民らが担いで練り歩く「火伏(ひぶせ)神輿行列」が15日、平成の大修復後初めて横浜市中区伊勢佐木町1、2丁目で行われる。日枝神社例大祭のメイン行事の一つで、「この行事が未来にも続き、私たちの街が発展を続けてほしい」と願いを込める。
  神輿は伊勢佐木町の町内会が大正天皇の即位を記念し、彫刻家・高村光雲に制作を依頼したもので、1923年に完成した。90年余りを経て彫刻や金具が欠けたり塗りが剥がれたりするなどの傷みが目立ったため、吉田新田の完成350周年の今年を控え、2016年に修復を済ませた。
  行列は15日午後1時半から、町内の有志による担ぎ手30人が白装束に身を包み、雅楽の演奏を先導に「エイサー、エイサー」と掛け声を掛けながら厳かにイセザキ・モール1、2丁目を往復する。
  例大祭は1年置きに本祭りが行われ、今年はその年に当たる。周辺町内会から35基の神輿が参加する神輿連合渡御は最終日の17日に開かれる。16日午後5時から7時まで伊勢佐木町1丁目に日枝神社の千貫神輿が奉安されるなど、イセザキ・モールは活気に満ちる。
  伊勢佐木町1・2丁目地区商店街振興組合の石田隆専務理事は「修復した火伏神輿を通じて、2度も大きな災難を乗り越えて繁栄を遂げた伊勢佐木町の心意気を次の世代にも伝えたい」と話している。


当方、明日から岩手花巻に行って参りますのでこちらには伺えませんが、盛り上がることを祈念いたしております。

ところで、過日、三井記念美術館さんの特別展「驚異の超絶技巧! —明治工芸から現代アートへ—」の記事を書く際に、久しぶりに、平成14年(2002)、茨城県立近代美術館他を巡回した「高村光雲とその時代展」の図録を引っ張り出しまして見ていたところ、「火伏神輿」も掲載されていたのに気づきました。

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それから、神輿と共に伊勢佐木町に伝わる獅子頭も。

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平成26年(2014)にはお祭りを拝見、神輿と獅子頭も見て参りましたが、15年前にも見ていたのを忘れていました。情けなや……。


最後に、今日の『日本経済新聞』さん。当方、「電子版」で読みましたが、東京版紙面にも載ったのではないかと思います。 

多摩信金 新本店ビルに美術館

 多摩信用金庫(東京都立川市)は2018年2月にJR立川駅北口の旧国有地に着工する新本店ビル内に美術館を設置する方針を決めた。岸田劉生の絵画など同信金が所蔵する近代日本の美術作品を展示する「たましん御岳美術館」(青梅市)の機能を移転する。立川の新たなランドマークと位置づける新本店ビルの目玉にしたい考えだ。
 美術館は9階建ての新本店ビルの1階に開設する。計画案によると、延べ床面積は約300平方メートルで、1階の有効面積(エレベーターなど共有部分を除く)の約半分を占める。
 岸田や高村光太郎など御岳美術館所蔵の近代日本を代表する絵画・彫刻作品を主に展示する。多摩川上流の御岳渓谷に立地する御岳美術館は立川への機能移転後には廃止する方向で検討している。また、主に預金などの窓口スペースとなる2階にも多摩地域の作家に作品提供の場を提供するギャラリーを設ける。
 多摩信金は長年、地盤とする多摩地域の芸術文化の支援に力を入れており、今回の新美術館整備もその一環。
 新本店ビルは不動産開発の立飛ホールディングス(立川市)が音楽ホールやホテルなど大規模複合開発のため取得した旧国有地の一部(敷地面積約2600平方メートル)に建設。延べ床面積は約9000平方メートルで、現本店ビルの約1.6倍の規模になる。


青梅市のたましん御岳美術館さん。行ったことはありませんが、光太郎ブロンズの代表作「手」が常設展示されていることは存じておりました。光太郎が終生敬愛していたロダンや、光太郎の朋友・荻原守衛の作品も。しかし、立地条件があまりよくなく、正直、入館者数等で苦戦しているという話も耳にしていて、残念に思っておりました。

それが立川駅前に移転ということで、都心からのアクセスもよくなるので、喜ばしいことと存じます。オープンの際には行って参ります。

先日、北海道小樽にオープンした似鳥美術館さんにしてもそうですが、こうしたメセナ(企業の社会貢献)的な部分での活動には頭が下がります。


いろいろご紹介いたしましたが、それぞれぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

私には二いろの詩が生れた。 一いろは印刷され、 一いろは印刷されない。 どちらも私はむきに書いた。

連作詩「暗愚小伝」中の「ロマン ロラン」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

戦時中の回想です。印刷された一いろは、大量の翼賛詩。しかし、同時に印刷されなかった詩もあったとのこと。実際、『石くれの歌』、『花と実』といった詩集が構想されていたことはわかっていますし、その断片と思われるものもわずかに残っています。ただ、大半は昭和20年(1945)の空襲で、駒込林町のアトリエと共に灰になってしまいました。

その詩稿がちゃんと残っていれば、戦時中の光太郎の良心を見ることができたのですが……。もしかすると、智恵子に関する詩もあったかもしれません。

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青少年向け、いわゆるライトノベル系の新刊です。 
2017年8月30日 樫田レオ著 角川書店(ファミ通文庫) 定価648円

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もう一度、大切な人に想いを伝えられたら――

大切な想いや言葉が形となった《迷い言》が視える藍川啓人は、数年前の事故で亡くした幼馴染、高森閑香の《迷い言》に出会う。事故の時、助けられず後悔していた啓人は、彼女の本当の想いを知るため《迷い言》の声を聞くことができる《伝え人》、梅ヶ枝詩葉の元へ連れて行くことに。そして詩葉の力を借りて、閑香が伝えられなかった最期の言葉を聞こうとするのだが――。大切な人への想いを巡る、切なくて暖かく、そして少しほろ苦い感動の青春ストーリー。


「詩葉」は「うたは」。登場人物の名前です。

「言霊」の考え方を根底に置いて、ストーリーが展開されます。世の中には、無念の死を遂げた人々が大切な人へ最期に伝えようとした「言葉」が霊魂のように漂っており、それを実体視できる能力を持った「伝え人」が、伝えたかった相手に仲介する、というのです。その伝えたかった最期の言葉を引き出すために、古今の文学作品の一節に宿る「言霊」の力が使われます。僧正遍昭や菅原道真の古歌、近代では石川啄木や若山牧水の短歌、短歌に限らず江戸川乱歩の残した格言「現世(うつしよ)は夢 夜の夢こそまこと」など。

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そしてメインで使われるのが、光太郎の「郊外の人に」(大正元年=1912)の一節。

 わがこころはいま大風(おほかぜ)の如く君にむかへり
 愛人よ
 いまは青き魚(さかな)の肌にしみたる寒き夜もふけ渡りたり
 されば安らかに郊外の家に眠れかし

さまざまな逡巡の末、智恵子と共に生きていこうという決意を固めたことを高らかに謳うもので、昭和16年(1941)の詩集『智恵子抄』に収められました。のちの昭和31年(1956)の新潮文庫版にも踏襲されています。

物語では、この新潮文庫版がモチーフとして使われ、智恵子の紙絵をあしらったカバーも重要なファクターとなっています。

久々にこの手のジャンルのものを読みましたが、それだけに新鮮な感動を味わえました。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

詩をすてて詩を書かう。 記録を書かう。 同胞の荒廃を出来れば防がう。 私はその夜木星の大きく光る駒込台で ただしんけんにさう思ひつめた。

連作詩「暗愚小伝」中の「真珠湾の日」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

その言葉通り、太平洋戦争開戦後は、「詩」とは言いがたい空虚な言葉の羅列に過ぎぬ作品が量産されました。そしてそのものずばりの『記録』という詩集(昭和19年=1944)も刊行されました。

ただ、その目的は、鬼畜米英の誅戮ということではなく、「同胞の荒廃を出来れば防」ぐということ。確かに光太郎の遺した大量の翼賛詩は、前線での戦闘や軍隊生活を謳ったものはあまりなく、どちらかというと銃後の国民の心構えを説くものが主流でした。それにしても、その罪深さは言うまでもありませんが……。

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光太郎の父・高村光雲の作品が展示される企画展です。
期  日 : 2017年9月16日(土)〜12月3日(日) 
会  場 : 三井記念美術館 東京都中央区日本橋室町2-1-1 三井本館7F
時  間 : 10時から17時まで 毎週金曜日及び9/30は19時まで
料  金 : 一般 1,300円(1,100円) 高校生及び学生 800円(700円) 中学生以下無料 ( )内団体料金
休 館 日 : 月曜日(9/18,10/9は開館) 10/10(火)

2014年に開催し大好評を博した「超絶技巧!明治工芸の粋」展の第2弾。今回は七宝、金工、牙彫、木彫、陶磁などの明治工芸と、現代アートの超絶技巧がコラボレーション。明治工芸を産み出した工人たちのDNAを受け継ぎつつ、プラスαの機知を加えた現代作家の作品を紹介します。
明治工芸の工人たちの超人的な技とセンスは、失われて久しいロストテクノロジーだと誰もが思っていました。しかし近年、明治工芸に肉迫する作品を手がける現代作家たちが登場してきています。
本展では、超絶技巧による明治工芸と、それに匹敵する現代アートが対決します。明治工芸に劣らぬ、現代アートのクオリティに驚くこと間違いなしです!

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紹介文にあるとおり、平成26年(2014)に開催された「超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―」展の第二弾的な展覧会です。

前回も光雲の木彫が展示されましたが、今回も出ます。問い合わせたところ、一点、個人蔵の「布袋像」だそうです。

こちらは平成14年(2002)に、茨城県立近代美術館他を巡回した「高村光雲とその時代展」図録に掲載された「布袋像」。

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これとは別物だと思われますが、同一の図題で複数の作例があるのは珍しいことではありませんので、ほぼこういうものではないかと考えていいでしょう。あるいは異なるポージングかもしれませんが。

今回は、<受け継がれる超絶技巧のDNA ─ 明治工芸から現代アートへ> ということで、現代アート作家の皆さんの作品も多数展示され、美術工芸史的な部分での俯瞰を試みるようです。関連行事も充実していますね。

ぜひ足をお運びください。

さらに、今のところの予定では、来年以降再来年にかけて、岐阜県現代陶芸美術館さん、山口県立美術館さん、富山県水墨美術館さん、あべのハルカス美術館さんに巡回するとのことです。そちらもまた近くなりましたらご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

一旦まはりはじめると 歯車全部はいやでも動く。

連作詩「暗愚小伝」中の「協力会議」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

戦争責任を中心に、それまでの65年の人生を総括する目的で書かれた連作詩「暗愚小伝」。戦後になって戦時中の大政翼賛を反省し、活字にした文学者がほとんどいなかった中、光太郎の真摯な態度は評価されています。しかし、ある種「言い訳じみている」という評もあります。今回取り上げた詩句などもそうかもしれません。

タイトルの「協力会議」とは昭和15年(1940)に近衛文麿らが中心となり結成された大政翼賛会の中に置かれた下情上通を目的とした機関です。大政翼賛会内に地方組織として道府県・六大都市・郡・市区町村に各支部が置かれ、各段階の支部にそれぞれ協力会議が付置されて、さらに地方代表、各界代表による「中央協力会議」が持たれました。
 
 光太郎は劇作家・岸田国士のすすめで中央協力会議議員となり、昭和15年(1940)の臨時協力会議に出席。この時は一度限りと考えていたようですが、翌16年(1941)の第一回、第二回の会議にも出席しています(同17年=1942の第三回以降は委員を辞退)。第二回の会議はちょうど真珠湾攻撃の日と重なり、会議は途中で切り上げられ、参会者全員で皇居まで行進、「万歳」を叫んだそうです。

自分では歯車を動かす方、という意識はなく、動かされる方、と捉えていた光太郎ですが、その点では他の多くの文学者同様、「あの時点ではそうなるよりほかなかった」的な意識が垣間見えます。ただ、他の文学者たちと決定的に違うのは、花巻郊外太田村の山小屋で、自虐に等しい蟄居生活7年も続け、反省を態度で表したこと。ここにこそ、光太郎の真骨頂があるような気がします。

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なかなかネット上に情報が公開されなかったため、(まだごたごたしているようで、市のフェイスブックには情報が出ていますが、ホームページ等には未掲載です。広報誌の今月号にも載りませんでした) 紹介が遅れましたが、岩手花巻の高村光太郎記念館さんで、秋の企画展が始まります。 
期  日 : 2017年9月15日(金)〜11月27日(月) 会期中無休
会  場 : 高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1 0198-28-3012
時  間 : 午前8時30分から午後4時30分まで
料  金 : 一般 550円(450円) 高校生及び学生 400円(300円) 小中学生 300円(200円) ( )内団体料金

 彫刻家で詩人として知られる高村光太郎。その妻、智恵子は雑誌『青鞜』創刊号の表紙絵を描き、新鋭の画家として注目されるなか光太郎と出会い、結ばれました。結婚後、智恵子は自身の油絵に対する芸術的苦悩や実家の一家離散が重なり、心の病に侵され睡眠薬で自殺を図ります。一命は取りとめたものの長い療養生活に入り、その後回復することはなく、昭和13年に入院先のゼームス坂病院でこの世を去ります。享年数え53歳の生涯でした。
 晩年の智恵子は作業療法として身の回りにあった色紙や包装紙など、様々な紙をマニキュア鋏で切りぬき、台紙に貼りつける「切り抜き絵」を多く制作します。それらは光太郎ただ一人に見せるために作られました。後に光太郎は智恵子の遺作となった切り抜き絵を「紙絵」と名づけました。太平洋戦争の空襲で光太郎はアトリを全焼し自身の作品の多くが焼失しましたが、智恵子の紙絵は花巻など地方に疎開させていて難を逃れました。
 この企画展では智恵子の紙絵のほか、愛の詩集ともいわれる詩集「智恵子抄」に関わる資料などを公開します。展示を通して智恵子の思いを感じていただければ幸いです。

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チラシ表面に使われているのは、昭和20年(1945)、花巻に疎開した光太郎を一時期自宅に住まわせ、その後も何くれとなく世話を焼いてくれた、初代花巻高村記念会理事長・佐藤隆房に贈った智恵子紙絵です。光太郎による画賛「智恵子遺作 切抜絵数種恵存」そして短歌「気ちがひといふおとろしきことばもてひとは智恵子をよばむとすらむ」が書き込まれています。

今回の展示では、これともう一点、二尾の魚をあしらった紙絵の、実物二点、あとは複製の紙絵が20点ほど展示されます。また、関連資料としていろいろ。先週、花巻高村光太郎記念会の方が当方自宅兼事務所に立ち寄られ(二本松や九十九里など、智恵子ゆかりの地の映像が会場内で流されるそうで、その撮影の合間に立ち寄られました)、いくつか展示できそうなものをお貸ししました。光太郎生前の昭和26年(1951)と同28年(1953)に、東京で開催された智恵子紙絵展のパンフレット、「映画になった智恵子抄」ということで、昭和32年(1957)公開・原節子さん主演と、同42年(1967)公開・岩下志麻さん主演の映画「智恵子抄」のポスター。


関連行事というわけではないのでしょうが、ついでにご紹介しておきます。 
期  日 : 2017年9月の毎週土曜
会  場 : 森のギャラリ−(旧高村記念館) 高村山荘・高村光太郎記念館敷地内
時  間 : 午前10時から12時まで 所要時間30分程度
費  用 : 500円 高村山荘入館料、材料費

型紙を使って紙を切り取り、ハガキや色紙に張り合わせて作り上げる紙絵制作体験を行っています。
子どもから大人までどなたでも手軽に楽しめます。
詳しくは、高村光太郎記念館 0198-28-3012へ。

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昭和41年(1966)に竣工した、旧高村記念館が、先月、「森のギャラリー」としてリニューアル。この手のちょっとしたイベントなどに使えるようになっています。紙絵の制作体験も先月末に一度行われました。おそらく2日と9日にも行われていたのではないかと思われます。


当方、別件もあり、今週末に行って参ります。詳しくはその後にレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

智恵子が私の支柱であり、 智恵子が私のジヤイロであつたことが 死んでみるとはつきりした。 智恵子の個体が消えてなくなり、 智恵子が普遍の存在となつて いつでもそこに居るにはゐるが、 もう手でつかめず声もきかない。 肉体こそ真である。
連作詩「暗愚小伝」中の「おそろしい空虚」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

昭和13年(1938)10月5日、智恵子歿。その当初の光太郎はこうでした。「肉体こそ真」という考えから脱却し、智恵子は元素となっても常に自分を囲繞してくれている、と考えられるようになったのは、戦後になってからです。

ジャイロ(羅針盤)を失って、「おそろしい空虚」にはまりこんだ光太郎は、同じ詩の中で「乞はれるままに本を編んだり、変な方角の詩を書いたり」してしまったと述懐されます。空虚な翼賛詩の乱発と、それをまとめた詩集『大いなる日に』(昭和17年=1942)、『をぢさんの詩』(同18年=1943)、『記録』(同19年=1944)などを指します。

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昨日は、智恵子の故郷・福島二本松に行っておりました。

昨年のこの時期に開催された、「福島現代美術ビエンナーレ 2016 -氣 indication -」から誕生した二本松市を拠点に開催される現代アートの祭典「重陽の芸術祭2017」が、昨日からスタートしました。

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昨年同様、智恵子生家の旧長沼酒造も会場となっており、現代アート作家の・清川あさみさんによるインスタレーションの展示が行われていました。

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さらに、やはり昨日から、通常は非公開となっている生家二階――智恵子の居室を含む――の公開も始まっていました。11月26日までの、土・日・祝日の実施だそうです。

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清川さんの作品、こちらがメインの「女である故に」。畳三畳分くらいはありましょうか、不織布にプリントされたものです。

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「写真を縦糸横糸で形成して編んだ」とのことですが、どういう仕組みで出来ているのか、よくわかりませんでした。それにしても大迫力です。

こんなかわいらしい作品も。造花や刺繍糸、ビーズによる「Drem Time」。

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アクリルケースに「ほんとの空」が映っています。

それから、新潮文庫版『智恵子抄』を使った作品が多数。

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公開されていた2階にも。

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こういうのもありなんだ、と思いました。

ところで、生家の庭に据えられたこの燈籠。

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もともとここにあったものですが、昭和4年(1929)に長沼酒造が破産し、智恵子の一家が離散した後、債権者に持ち出されていたのが、つい最近、二本松市に寄贈という形で戻ってきたそうです。

以前から、同型の燈籠が一つありまして、約90年ぶりに二つがご対面。

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付喪神(つくもがみ)といって、長い年月を経た道具などには神や精霊が宿る、という 民間信仰があります。二つの燈籠に付喪神が宿っていたら、再会をさぞや喜んでいることでしょう。


智恵子生家を後に、他に「重陽の芸術祭2017」としての展示が行われている、安達ヶ原ふるさと村さんなどを廻って帰りました。そちらでは、昨年、智恵子生家で展示された小松美羽さんの襖絵など、今年の重点項目である安達ヶ原の鬼婆伝説がらみの展示が多く為されていました(それ以外もありましたが)。

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こちらは切り絵作家の福井利佐さんの作品。福井さんは、来年、智恵子生家の展示をなさるそうです。画像はありませんが、恐ろしい鬼の切り絵もありました。

智恵子生家では、来月5日の智恵子命日「レモンの日」に合わせ、女優の一色采子さんらによる「智恵子抄」朗読とダンスのパフォーマンスが行われます。

また、来月12日からは、生家裏の智恵子記念館で、普段は複製が展示されている紙絵の実物展示が始まります。

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また、後ほど詳しくご紹介しますが、智恵子を偲ぶ「レモン忌の集い」、野村朗氏作曲の連作歌曲「智恵子抄」コンサート、さらには毎年恒例の菊人形もあります。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

一人の女性の愛に清められて 私はやつと自己を得た。 言はうやうなき窮乏をつづけながら 私はもう一度美の世界にとびこんだ。

連作詩「暗愚小伝」中の「美に生きる」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

俗世間や古くさい日本彫刻界を相手にせず、ある意味「孤高の芸術家」として、智恵子と二人、手を携えて歩み始めた大正期の回想です。

ところが、世の中との交わりを極力避けるその暮らしは、同じ「美に生きる」中で「都会のまんなかに蟄居した。」と表現されているような生活でもありました。

そうした毎日に息苦しさを感じると、智恵子は「東京に空が無い」とつぶやき、「ほんとの空」のある二本松に帰って、元気をチャージしていました。

しかし、二本松の実家は破産、家族は離散。帰るべき故郷と、頼みにしていた「ほんとの空」を失った智恵子は、さらに自らの絵画の才能にも絶望し、その他、実にさまざまな要因が絡み合った結果、光太郎曰く「精一ぱいに巻き切つたゼムマイがぷすんと弾けてしまつた」のです。

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