高村光太郎連翹忌運営委員会のブログ

4/2は高村光太郎(1883〜1956)の命日、連翹忌(れんぎょうき)です。

「智恵子抄」系。

2件ほどご紹介します。

まず、おそらく朗読系の公演だと思われます。詳細がよくわからないのですが……。 

話楽庵  弥生の会

期   日  : 2019年3月31日(日)
会   場 : 話楽庵 栃木県小山市萱橋730-9

時   間 : 14:00〜
料   金 : 1,000円
出   演 : わたなべ紀子
演   目 : 下野古麻呂物語 高村光太郎 智恵子抄より 「あなたはだんだんきれいになる」 「レモン哀歌」 
                   他

弥生の月は、私の誕生月です。20日に還暦を迎えます。還暦は、生まれ変わって新しい人生を歩み始めるという意味もあるとか…新たな話楽の世界を作り上げていきたいと、思います。

話楽…話は、楽しい。音楽と話の融合。そして…音霊と言霊の世界。流体話法・流体演技・共鳴体の世界。


続いて、テレビ放映情報。 

おかしな刑事〜居眠り刑事とエリート警視の父娘捜査(8) 東京タワーは見ていた! 消えた少女の秘密・血痕が描く謎のルート!

BS朝日 2019年4月1日(月)  21時00分〜22時54分

伊東四朗が叩き上げの刑事、羽田美智子がエリート警視という凸凹父娘コンビを演じる大人気シリーズの第8弾 ‼ 篤志家の社長が刺された! その背後には、30年前、東京タワーの下で起きた誘拐事件の影が…!?

出演  伊東四朗 羽田美智子 石井正則 小倉久寛 辺見えみり 山口美也子 木場勝己 小澤象 丸山厚人
           菅原大吉 (他)

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地上波テレビ朝日さんで、平成23年(2011)年に初回放映があったものです。その後、テレ朝さんや系列のBS朝日さんで何度か再放送されています。

上記の番組説明では書かれていませんが、初回放映時のサブタイトルが「地上333メートルの殺意!! ホームレスが隠した事件の謎!? 安達太良山で待ち受ける真実!! 『智恵子抄』に秘められた想いとは…」。その後、そのサブタイトルが使われなくなり、「智恵子抄」がらみの内容だとわからなくなってしまいました。

昨年の暮れにも再放送があり、この手のサスペンスものがとにかく大好きな愚妻が拝見、「こんなドラマやってたよ」と教えてくれ、ようやくその存在に気づいた次第です。

調べてみましたところ、智恵子の故郷・二本松でもロケが行われ、櫟平ホテルさん、二本松市さん、岳温泉観光協会さんなどが協力に名を連ねています。岳温泉さん、智恵子生家、その裏山の光太郎詩碑がある鞍石山などでもロケがありました。

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羽田美智子さんといえば、平成27年(2015)にNHK Eテレさんで放映された「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」」にもご出演。最近では今年封切りの北原白秋を主人公とし、光太郎も出演した映画「この道」では与謝野晶子役をなさっていました。

ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

私はその頃の数年間家事の雑務と看病とに追はれて彫刻も作らず、詩もまとまらず、全くの空白時代を過ごした。私自身がよく狂気しなかつたと思ふ。其時世人は私が彫刻や詩作に怠けてゐると評した。

散文「自作肖像漫談」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「その頃」は、智恵子の心の病が顕在化した昭和6年(1931)から、南品川ゼームス坂病院に入院させた同10年(1935)の頃です。同9年(1934)には光太郎の父・光雲が胃ガンで没してもいます。

そうした事情に通じていない無責任な世間は、光太郎が怠けていると評したとのこと。残酷といえば残酷ですね。

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3月23日(土)、前日に引き続き、都内に出まして、吉祥寺の武蔵野商工会議所さんにて開催の「第13回与謝野寛・晶子を偲ぶ会 「明星」文学者、四季の食卓― 杢太郎・勇・晶子・光太郎」で、公開講座の講師を務めさせていただきました。

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講座は前後半にわかれ、前半が「杢太郎と勇 美食家(グールメ)と健啖家(グールマン)―美食への憧れ」。木下杢太郎に関し、「グルメといわれるが―杢太郎は何を食べたか」と題し、歌人で伊東市立木下杢太郎記念館の丸井重孝氏、吉井勇について静岡県立大学の細川光洋氏が「極道に生れて河豚のうまさかな―健啖家(グールマン)・吉井勇」と題されたご発表および対談。

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後半は「晶子と光太郎 日仏の出会う食卓風景」ということで、当方が「苦しい中でも工夫して/高村光太郎の食」、歌人の松平盟子氏が 「家族と囲む食の喜び 〜駿河屋の娘のそののち」という題で、与謝野晶子についてご発表。当方、ついついしゃべりすぎて、持ち時間をオーバーしてしまい、ご迷惑をおかけしました。反省しきりです。

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杢太郎や吉井が「食」へのこだわりを強く持っていたというのはほとんど存じませんでしたし、晶子は子だくさんの大変な状況でも、栄養価を考えたり、フランス仕込みの知識などを活用したりで、それなりに豊かな食生活を送ろうと努めていたことがわかりました。

光太郎も、少年時代には廃仏毀釈の影響で父・光雲の仏師としての苦闘期を送り、留学からの帰国後も決して裕福ではなかった智恵子との生活を経、戦中戦後の混乱期と、さまざまに工夫しながらの食生活でした。昭和27年(1952)に行われた座談会「簡素生活と健康」では「食べ物はバカにしてはいけません。うんと大切だということです」と発言し、さまざまな工夫を披瀝したりもしています。

今回、目からウロコだったのは、同じ「簡素生活と健康」の中での次の発言。花巻郊外太田村での山居生活に関してです。「川島」は川島四郎。元軍人(最終階級は陸軍主計少将)、栄養学者、農学博士でした。

高村 主食はもともと少かつたんですが、食糧には困らなかつた。みんな持つて来てくれるんです。お米でも
    稗でも、漬物や南瓜なども……。蛋白質だけはなかつたな。
川島 田舎ではね……。
高村 それで蛙をとつて食べたんです。赤蛙をね。まだ動いているのを  皮をはいで……。近所にはいゝやつ
    がどつさりいたんです。

本当にカエルを食べていたのか? と、以前から疑問でした。座談会ということで、リップサービス的に話を盛っているのでは、と。ところが、松平氏曰く、カエルはフランスではごく普通の食材なので、十分あり得る、とのこと。
確かに、明治45年(1912)に書かれた「画室にて」という散文では、パリ留学中の思い出を語る中で、次の発言もあります。

就中(なかんずく)珍なのは、オルドーブルと云つて外にはないスープの前に出る一皿。それには、雁の胆、蝸牛なぞがつきます。然かも本当の料理を食べる仏蘭西人は、外の物には手もつけない。そのオルドーブルだけ食べるのです。オルドーブルだけで売出した家(うち)さへある。(略)大体の料理は五フランぐらゐで一寸食へるが、その家は五フランでオルドーブルが食べ度いだけ食べられる。

「オルドーブル」は「オードブル」。カエルもちゃんと入っていますね。日本での感覚で考えるとゲテモノですが、そうではなかったわけです。


終了後、近くの居酒屋で懇親会。

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晶子研究の泰斗で、旧知の逸見久美先生のお隣に座らせていただきました。逆サイドのお隣には、光雲の師・高村東雲の末裔に当たられる高村晴雲氏の講座で仏像彫刻を学ばれたというお坊様。驚いたことに、岡本かの子の血縁の方だそうでした。かの子は智恵子同様『青鞜』メンバーでしたし、かの子の夫・一平は東京美術学校西洋画科で光太郎と同級生でした。いわずもがなですが、一平・かの子の子息はかの岡本太郎です。不思議な縁を感じました。


というわけで、4回にわたっての都内レポート、終わります。


【折々のことば・光太郎】

春が来ると何よりも新鮮な食べものの多くなるのがうれしい。私は野のもの山のものが好きなので、摘草にわざわざ行くといふ程の閑暇はないが、そこらに生えてゐる草の芽の食べられるものは何でも食べる。

散文「春さきの好物」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

同じ文章で光太郎が食べるとしている野草、山菜類 は以下のとおり。ハコベ、ヨメナ、ノビル、スベリヒユ、タンポポ、ツクシ、カンゾウ、カタバミ、イタドリ、ユキノシタ、フキノトウ、センブリ、オニフスベ、ワラビ、ゼンマイ、コゴミ、タラの芽、杉の芽、マタタビ。

親友で、やはり『明星』に拠っていた水野葉舟が『食べられる草木』という書物を著しており、参考にしたかもしれません。

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3月22日(金)、六本木の泉屋博古館さんを後に、上野に向かいまして、東京国立博物館さんで開催中の特別展 御即位30年記念「両陛下と文化交流―日本美を伝える―」他を拝見いたしました。

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同じ皇室関連でも、泉屋博古館さんの 「華ひらく皇室文化 明治150年記念 明治宮廷を彩る技と美」が主に明治天皇の時代をメインにしていたのに対し、こちらは今上陛下と美智子さまを中心にした展示でした。しかし、会場に入ってすぐ展示されていた東山魁夷の大作「悠紀・主基地方風俗歌屏風」は、「華ひらく皇室文化」の図録にも掲載されており、そちらの巡回展のどこかで展示されたようで、かぶっている出品物もありました。

光太郎の父・高村光雲作の「養蚕天女」を見るのが主目的でした。今上陛下昭和8年(1933)のお生まれ、光雲は翌昭和9年(1934)に没しており、直接のつながりはないようです。あるとすれば陛下の生誕記念に光雲作の彫刻が献上された、的なことになりましょうが、そういった記録は見あたりません。

ではなぜ光雲の作が、というと、歴代皇后陛下が取り組まれている養蚕のからみです。明治期に照憲皇太后の始められた皇室御養蚕が、皇居紅葉山御養蚕所で今も続けられており、今回の展覧会では「皇后陛下とご養蚕」というコーナーが設けられました。

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で、光雲の「養蚕天女」。皇室には大小2種類が納められており、今月31日までは大きな方の作(像高約50センチ・大正13年=1924)が展示されています。平成28年(2016)に、宮内庁三の丸尚蔵館さんで開催された「第72回展覧会 古典再生―作家たちの挑戦」で拝見して以来でした。来月は小さな方(同25㌢・昭和3年=1928)にバトンタッチされるのではないでしょうか。

図録には大小の画像が並んで掲載されており、見比べてみると、ただサイズが違うというだけでなく、すこし趣が異なることがわかります。

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大きな方(左)は全体にスマートで、シュッとした感じイメージ 6です。大正期の作でありながら、そのお顔は美智子さまを彷彿とさせられます。小さな方(右)は、若干ふくよかな印象を受けます。ちなみに小さな方は大正13年(1924)の皇太子ご成婚を奉祝する御飾り棚一対を飾る各種工芸品の一つとして制作されたもので、他の工芸品とのバランス的なことも考慮されているかもしれません。

他には養蚕によって紡がれた絹糸で作られた物なのでしょうか、今上陛下ご幼少時のお召し物(図録の表紙に使われています)や、美智子さまのイヴニングドレスなども展示されていました。養蚕関係以外には、「外国ご訪問と文化交流」ということで、両陛下の外遊の際に紹介された美術品の数々など。

その後、特別展会場を後に常設展的なゾーンへ。トーハクさんでは、常設展といっても展示替えを頻繁に行っています。「近代の美術」のコーナーでは、時折、光雲の代表作で重要文化財の「老猿」(明治26年=1893)が展示されていますが、現在は休憩中(笑)。しかし、息子・光太郎の「老人の首」(大正14年=1925)が出ていました。


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光太郎と交流のあった思想家・江渡狄嶺の妻ミキからの寄贈品で、昭和20年(1945)に光太郎から江渡家に贈られたもの。光太郎生前の鋳造という意味では貴重なものです。

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他に、東京美術学校での光雲の同僚にして、上野公園の西郷イメージ 12隆盛像の犬、皇居前広場の楠木正成像の馬を担当した後藤貞行の「馬」(明治26年=1893)。楠木正成像の馬の原型か、とも思いましたが、若干フォルムが異なります。しかし、無関係ではないでしょう。躍動感がすばらしいと思いました。

さらに光雲の高弟にして、光雲と共に信州善光寺さんの仁王像を手がけた米原雲海の「竹取翁」(明治43年=1910)。光る竹の中になよ竹のかぐや姫を見つけ、驚く姿です。ユーモラスですね。


さて、「両陛下と文化交流―日本美を伝える―」は、来月29日まで。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

詩歌の世界では人間内部の矛盾撞着を無理に無くする事がいいとは限らない。矛盾に悩んで、その克服に精進しながらも、その矛盾の間から出る真実の叫を表現せずに居られないのが此の道に運命づけられた者の業である。

散文「某月某日」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

同じ年に書かれた散文「自分と詩との関係」では、自分を「宿命的な彫刻家である」としています。「運命」と「宿命」、その使い分けには興味をそそられるところです。

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3月22日(金)、品川の石井彰英氏邸をあとに、次なる目的地、六本木へ。泉屋博古館分館さんで開催中の 「華ひらく皇室文化 明治150年記念 明治宮廷を彩る技と美」を拝見して参りました。

都内ではすでに桜が見事でした。

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桜前線というのは不思議なもので、自宅兼事務所のある千葉は都内より暖かいのに、早咲きの何とか桜の類を除けば、まだ開花していません。

泉屋博古館分館さん。

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ゾーン的には2つに分かれ、一方は「鹿鳴館の時代と明治殿」ということで、主に明治期の皇室で使われていた日用品やボンボニエール(菓子器)などの類。こちらがメインと位置づけられているようでした。美術品の範疇には入らないのかもしれませんが、美術品と言っても過言ではない、明治工芸のクオリティーの高さが偲ばれます。

もう一方が、「明治宮廷を彩る技と美」。光太郎の父・光雲イメージ 4をはじめとする帝室技芸員らの作がずらり。

光雲の作は、明治32年(1899)に制作された「山霊訶護」。翌年のパリ万博に出品されたもので、現在は宮内庁三の所有です。光雲令孫の写真家・故眤宍氏撮影による厚冊写真集『木彫眤叱雲』(平成11年=1999 中教出版)の函にも使われた、ある意味、光雲代表作の一つです。前期(4月14日(日)まで)のみの展示とのこと。

17年ぶりに拝見しました。天空から襲来する猛禽に襲われそうになる小動物をかばう山姥がモチーフです。小動物は山姥の足元の兎と、腰の部分に猿。猿が配されていたことを失念しており、「あ、ここに猿がいたんだっけ」と思いました。
 
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図録(2,500円也)はこれまでの巡回展(名古屋秋田京都)と共通のものなので、今回出品されていない、「魚籃観音像」(明治期)、「聖徳太子像」(明治44年=1911)も掲載されています。

光雲と交流のあった彫刻家の作品も出品されており、興味深く拝見。

東京美術学校で光雲の同僚だった石川光明の「狗児置物」(明治43年=1910)。モフモフ感がたまりません。

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同じく光雲の同僚・竹内久一で「神鹿」(大正元年=1912)。今回のチラシににも使われた目玉の一つです。

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それから、陶芸家の板谷波山。元々美術学校の彫刻科出身でしたが、その後、陶芸に転じたという変わった経歴の持ち主です。その波山の木彫「鮭」(明治期)。波山の木彫は初めて拝見しました。

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ちなみに波山の陶芸家としての代表作「葆光彩磁珍果文花瓶」も出ていました。今回の出品物の中で、唯一の重要文化財です。会場の泉屋博古館分館さんの所蔵だそうで、「これはここにあったのか」と言う感じでした。

それから、日本画の橋本雅邦、漆工の柴田是真なども光雲の同僚。その他、陶芸の宮川香山、七宝の濤川惣助など、はやりの超絶技巧系の出品物もいろいろあり、目の保養になりました。

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共催展として、3月20日(水)〜5月18日(土)の日程で、学習院大学史料館でも展示が行われています。こちらもやはり明治期の皇室で使われていた日用品をメインにしているようです(光雲作品の展示はないとのこと)。

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それぞれ、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

結局顔はなるやうにしかならない随一のものだから、どうでもいい。無いと同じやうなものだと当人は考へるのが自然であらう。だから世の中で一番不明瞭なものは誰でも自分の顔だといふことになる。

散文「手形」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

人ぞれぞれに、その人の生きて歩んできた来歴が顔に表れ、ごまかしようがないというのです。多くの肖像彫刻を手がけてきた光太郎の言だけに、説得力があります。

第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

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昨日は都内に出ておりまして、3件、用事を片付けて来ました。品川→六本木→上野と。いったん千葉の自宅兼事務所に帰り、今日また吉祥寺に参ります。都内に泊まってしまえば時間的、体力的に楽なのですが、家のこともいろいろやらねばならず……。というわけで、4回連続で(突発的な何かがなければ、ですが)都内レポートを。

まず、品川区大井町。昨年、花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展「光太郎と花巻電鉄」の際に、光太郎が暮らした昭和20年代の花巻町とその周辺をイメージしたジオラマを制作して下さった、石井彰英氏のお宅。マンションの屋上に造られたプレハブ的な建物(そのままずばり「サロン ルーフトップ」)でジオラマ制作をなさいましたが、現在はミュージシャンでもあらせられる石井氏、そこでライヴ活動などもなさっています。

で、きたる4月2日(火、日比谷公園松本楼さん開催第63回連イメージ 1翹忌で、石井氏とお仲間の方々に、アトラクションとして音楽演奏をお願いしまして、快諾を得、その打ち合わせ兼練習風景を見学させていただきました。

バンドメンバーは、アコースティックギター/ヴォーカルで石井氏、アコーディオンを堀晃枝さん、もうお一方ヴォーカルに松元邦子さん。松元さんは、石井氏が自作のジオラマを撮影して作られたDVDで、ナレーションを担当して下さった方です。堀さんもBGMで参加されています。

3曲演奏して下さるとのことで、まずDVDにも収録されている石井氏作詞作曲の「トパーズ 高村智恵子に捧ぐ」。元々石井氏、智恵子終焉の地であるゼームス坂病院跡地(現在、光太郎詩「レモン哀歌」の詩碑が建っています)の近くにお住まいであることから、昔の大井町のジオラマを作られた中でゼームス坂病院も取り上げて下さり、それがそもそものきっかけで知遇を得た次第です。


他に、「星の王子様」。


そして「ずっとこのままま」。


それぞれ練習風景も拝見。すばらしかったです。

当方、昔、クイーンのジョン・ディーコンに憧れてベースギターを弾いていまして、サロンルーフトップ内にベースギターも立てかけてあり、それを見て「うずっ」と来たのですが、もう何年も手にしていませんし、フレットのどこが何の音だったかも忘れています(笑)。手に取って弾き始めれば思い出すのでしょうが、そのレベルで参加させて下さいとはとても言えず、黙って聴いていました。ただ、三曲目「ずっとこのまま」では、最後に聴衆を巻き込んでサビの部分を「皆さんご一緒に!」とするそうで、その際にはマイクを握ることになるかと存じます。

閑話休題。そういうわけで石井氏とお仲間の演奏で、連翹忌に花を添えていただきます。また、それとは別に、昨秋、智恵子の故郷・福島二本松で開催された「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」で大賞に輝いた宮尾壽里子さんとやはりお仲間の方々に、朗読もお願いしております。

だからというわけではありませんが、第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら


【折々のことば・光太郎】

この橋は帝都の川から海に通ずる関門である。その海は京浜運河によつて横浜につながり、横浜から太平洋につながる。この橋は帝都の中心が太平洋に通ずる船の途(みち)の要害にあたる。太平洋の波必ずしも太平ならざる時、その開閉を司どるこの橋は何かの象徴のやうだ。

散文「鬨の渡し」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

この年に完成した勝鬨橋についてのエッセイの一節です。かつて開閉式の可動橋だったこの橋に、当時の微妙な対米関係をオーバーラップさせています。

智恵子没して1年余り。その心の空隙を埋めるかのように、かつて極力関わりを避けていた世間一般との交流を積極的に行うようになってきた光太郎。そうでもしないと自分も心を病むかもしれないという危機感があったのかもしれません。しかし、その世間はどんどん泥沼の戦時色に染め上げられていく真っ最中でした。昭和12年(1937)に始まった日中戦争は膠着状態、それを打開すべく、同16年(1941)には太平洋戦争開戦。そうした中で、光太郎は大政翼賛会中央協力会議の委員に推され、さらに日本文学報国会詩部会長などの任に付くことになります。そうなって行く素地が既に見える文章ですね。

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毎年、春と秋にご紹介しています京都知恩院さんのライトアップ。今年の春は、昨年までより遅い時期の開催となりました。 
期   間  : 2019年3月29日(金)〜4月7日(日)
拝観時間  : 17時45分〜21時30分(21時受付終了)
場   所  : 浄土宗 総本山知恩院(京都市東山区林下町400 ) 友禅苑、三門下周辺、女坂、阿弥陀堂、
拝 観 料 : 大人 500円  小中学生 300円

京友禅の祖・宮崎友禅翁ゆかりの庭園「友禅苑」や、日本最大級の木造二重門である「三門」、御身丈2.7mの阿弥陀如来坐像をお祀りする「阿弥陀堂」をライトアップします。
例年、3月初旬〜中旬にかけて行われる東山花灯路に合わせて開催しておりましたが、今年は知恩院の桜の見頃の時期に合わせて3月末〜4月初旬の開催となりました。ぜひこの機会に、知恩院へお参りください。

主な見どころ】
友禅苑
友禅染の祖、宮崎友禅斎の生誕300年を記念して造園された、華やかな昭和の名庭です。池泉式庭園と枯山水で構成され、補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像が有名です。
阿弥陀堂
明治43(1910)年に再建。本尊は御身丈2.7mの阿弥陀如来坐像。様々な法要儀式を執り行う堂宇です。堂内に並べられている木魚は自由に叩いて頂けます。法然上人のみ教え「お念佛」に触れて下さい。

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関連イベント

「聞いてみよう!お坊さんのはなし」
ライトアップ期間中には、阿弥陀堂にて「聞いてみよう!お坊さんのはなし」を毎日開催します。お坊さんの話を聞いたことがないという方や、仏教のことをよく知らないという方も大歓迎です。どなたでもお気軽にお越しください。
【テーマ】
・3月29日(金)〜3月31日(日) 『あの世のおはなし』
・4月 1日(月)〜4月 4日(木) 『阿弥陀様ってどんなお方?』
・4月 5日(金)〜4月 7日(日) 『「南無」の心』
【開始時間】
18時〜/18時40分〜/19時20分〜/20時〜  (各回お話15分〜20分、木魚念仏体験10分程度)
※状況により時間が変更になる場合がございます。

切り絵作家望月めぐみ作品展示
ライトアップの期間中、友禅苑の白寿庵にて切り絵作家 望月めぐみさんの作品展示が行われます。約50メートルの機械漉き美濃和紙に施された切り絵作品を、ライトアップされた白寿庵の広間でお楽しみください。
3月29日(金)、4月6日(土)には望月めぐみさんのトークショーも開催されます。この機会に是非お越しください。
19時〜(全2回) 友禅苑内の白寿庵にて 見学無料(拝観料500円別途必要)


光雲作という聖観音菩薩立像。過日、15年ほど前に購入した『東京芸術大学百年史 京美術学校篇 一巻』という書籍を久しぶりに見ておりましたところ、写真が載っていました。この写真の存在、すっかり忘れていました。

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キャプションによれば、明治25年(1892)の作で、後のページの記録等を見ると、上野公園の西郷隆盛像や皇居前広場の楠木正成像などと同様、美術学校として注文を受けたもののようです。「委嘱品竣功ノ分」というリストに、「観音銅像 壹体」「注文者 東京 福田循誘」とあり、おそらくこれがそうでしょう。福田は東京深川本誓寺の住職でしたが、歿後は知恩院さんに墓が建てられています。

やはり西郷像などと同様に、光雲が主任だったということで、光雲作となっているのだと思われます。ちなみに同じリストには西郷隆盛像も載っています。集合写真に写っている岡崎雪声は、西郷像や楠木正成像の鋳造を手がけており、この観音像もそうなのでしょう。明治25年(1892)というと、光太郎はまだ下谷高等小学校に在学中でした。

何はともあれ、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

家は古風な作りで、表に狐格子の出窓などがあつた。裏は南に面して広い庭があり、すぐ石屋の石置場につづき、その前には総持院といふ小さな不動様のお寺があり、年寄の法印さまが一人で本尊を守つてゐた。父の家の門柱には隷書で「神仏人像彫刻師一東齋光雲」と書いた木札が物寂びて懸けられてゐたが、此は朝かけて夕方とり外すのが例であつた。

散文「谷中の家」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

この文章の書き出しは「明治二十四五年頃の話である。」。まさしく知恩院さんの観音像が作られた頃の回想です。後の本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)に転居する前の、谷中に住んでいた時期です。


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新聞雑誌各紙誌から。

まずは仙台に本社を置く『河北新報』さん。先週15日(金)の「阿武隈川物語」という連載で、光太郎智恵子に触れて下さいました。 

<阿武隈川物語>(36)新しい女育んだ山河

 みちのくの入り口の阿武隈川沿いは古来、歌や俳句、詩の題イメージ 1材として親しまれた。時に人生にもたとえられる川の流れは、詩情をかき立てる。豊かな文学を育んできた流域を散策した。(角田支局・会田正宣)
 あれが阿多多羅山、
 あの光るのが阿武隈川。
 あまりに有名な「智恵子抄」の「樹下の二人」。「ほんとの空」の下、二本松市を歩くと、高村智恵子が夫の光太郎を、喜々として故郷を案内した姿が目に浮かぶようだ。
 酒造業の実家が破産し、統合失調症を発症した智恵子。美しい詩はかえって、智恵子の悲劇を浮き彫りにする。光太郎は後に、「智恵子抄は徹頭徹尾くるしく悲しい詩集であった」と述懐している。
<朗読大会を開催>
 精神を病んだ智恵子は、地元ではタブーだった。智恵子イメージ 2没後50年の1988年、同市の理容業熊谷健一さん(68)が旧安達町商工会青年部で記念事業を企画。「智恵子のふるさと」のまちづくりの一歩になった。
 熊谷さんは「智恵子のまち夢くらぶ」を結成し、講座や行事を開催。没後80年の2018年は智恵子抄朗読大会を開いた。
 熊谷さんは「完璧な人間はいない。葛藤を乗り越え、美と愛に生きた智恵子と光太郎の生き方が人々の胸に迫る」と魅力を語る。
 芸術と恋愛に生きた智恵子は「新しい女」の一人だった。高校時代から智恵子抄を熟読する同市の詩人木戸多美子さん(60)は「画家を目指す女性はいなかった。おとなしく見えて、内に激しい情熱を秘めた人だった」と敬意を込める。
<愛テーマに詩作>
 智恵子が光太郎を追って訪れた上高地(長野県)で2人は婚約した。光太郎が結婚後初めて、愛をテーマに妻に贈った詩が、詩集「道程」に所収の「山」だ。
 「無窮」の力をたたへろ
 「無窮」の生命をたたへろ
 私は山だ
 私は空だ
 木戸さんは「光太郎には自然と一体化する表現が多いが、そ
イメージ 3れは智恵子との出会いがもたらした。東京育ちの光太郎が、深く広い福島の自然を喜んだ」と解釈する。「樹下の二人」に、生命の循環や、山から流れた水が大河を形成するイメージを読み取るという。
 山を愛する人は、克己、自立といった近代的価値観と人生観を投影する人が少なくない。詩に彫刻に、芸術家として山のような存在である光太郎。では、智恵子は奔流と言うべきか。
 智恵子に、雑誌のアンケートに答えたこんな遺文がある。「生命と生命に湧き溢(あふ)れる浄清な力と心酔の経験、盛夏のようなこの幸福、凡(すべ)ては天然の恩寵(おんちょう)です」
 智恵子は、安達太良山と阿武隈川に育まれた。
[高村智恵子]1886〜1938年。旧姓長沼。日本女子大に進学、洋画家を志す。平塚らいてうの雑誌「青鞜」創刊号の表紙絵を描く。光太郎との夫婦生活は自由恋愛を貫き、入籍は智恵子の死の5年前。統合失調症を発症後、紙絵を制作した。

昨秋、二本松市で開催された「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」に触れています。記事にある木戸多美子さんは、その審査員を務められた方です。


続いて、『茨城新聞』さん。3月17日(日)の一面コラムです。 

いばらき春秋 2019.3.17

その自転車道は「五輪への道」と呼ばれる。筑西市を縦断する五行川の左岸5.7㌔に及ぶ堤上。喜多(旧姓川)真裕美さん(38)はここから、オリンピックへ羽ばたいた▼下館二高で競歩を始め20004年アテネ、08年北京、12年ロンドンと3大会に出場した。北京まで海老沢製作所(筑西市)に所属、高校時代から親しんだ自転車道が練習場所だった▼歩き続ける彼女を見守ったのは、はるか南東の名峰筑波のみではない。地元経済人団体の同友クラブは「夜も安全なように」と照明灯を設置してくれた。喜多さんは「この道がなければ今の私はない」と振り返る▼「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」。人生はしばしば道に例えられる。詩人・彫刻家の高村光太郎は詩「道程」で、自ら人生を切り開いていく決意を高らかにうたった▼卒業シーズン、進学や就職へと巣立ち行く若者たちはどんな道を歩むのだろう。試練もあろう。大切なのは、自転車道を黙々と歩いた少女のように夢を諦めないことだ▼五輪のへの道に沿う桜並木のつぼみが膨らんできた。間もなく花開き、旅立つ者たちを祝福してくれるだろう。喜多さんは今、石川県小松市の粟津温泉「喜多八」で若女将(おかみ)を務める。道は続いている。

成人式の頃と、卒業・入学シーズンには定番のように「道程」が取り上げられます。ありがたいことです。


さらに『週刊新潮』さん。「文庫双六」という連載で、先週、今週と2週にわたって光太郎の名が。 

【文庫双六】『智恵子抄』の舞台となった房総半島の“淋しい漁村”

 獅子文六はフランス人の女性と結婚し、大正十四年に娘が生まれた。奥さんは病気になり、フランスに帰国後、亡くなった。
  そのあと獅子文六は男手ひとつで娘を育てたが、男やもめの暮しに疲れて再婚する。『娘と私』はその事情を描いた家庭小説。昭和三十六年にはNHKでテレビドラマ化され大人気になった(北沢彪(ひょう)主演)。
  娘は身体が弱かった。そのため、獅子文六は小学生の娘を連れ、ひと夏を九十九里浜の片貝(かたかい)で過ごした。
  昭和十年頃。当時、東京の人間は避暑に湘南や房総に行くことが多かった。湘南の場合は別荘が普通だったが、房総では漁師や農家の家を借りた。
  獅子文六も鰯漁が盛んな片貝漁港に近い漁師の家を借りた。
  空気はいい。魚はうまい。牛乳や卵も新鮮。娘はたちまち元気になった。「私」も海辺の暮しが気に入る。
  とくに漁師料理「なめろう」が好きで毎晩、これで晩酌したほど。
  房総半島の海辺の町にはいまでもひなびた昭和の漁村の面影が残っている。その風景に惹かれ、私は五十代の頃、中年房総族と称し、よく房総を旅した。
  片貝にも行った。ここは高村光太郎と妻イメージ 5の智恵子ゆかりの地と知った。昭和九年、光太郎は精神を病んだ智恵子を片貝漁港に近い真亀納屋(まがめなや)の親類の寓宅に預けた。週に一度、薬や食料を持って東京から見舞いに行く。当時はこのあたり、淋しい漁村だった。
  詩集『智恵子抄』に収められた「千鳥と遊ぶ智恵子」はここを舞台にしている。
 「人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の 砂にすわつて智恵子は遊ぶ 無数の友だちが智恵子の名をよぶ。 ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――」
  現在、真亀の浜辺にこの詩碑が建てられている。
  かつてこの片貝まで東金からの九十九里鉄道という軽便(けいべん)鉄道があった。昭和三十六年に廃線になったが可愛い、いい鉄道だった。いま遊歩道が作られている。

[レビュアー]川本三郎(評論家)
1944年、東京生まれ。文学、映画、東京、旅を中心とした評論やエッセイなど幅広い執筆活動で知られる。著書に『大正幻影』(サントリー学芸賞)、『荷風と東京』(読売文学賞)、『林芙美子の昭和』(毎日出版文化賞・桑原武夫学芸賞)、『白秋望景』(伊藤整文学賞)、『小説を、映画を、鉄道が走る』(交通図書賞)、『マイ・バック・ページ』『いまも、君を想う』『今ひとたびの戦後日本映画』など多数。訳書にカポーティ『夜の樹』『叶えられた祈り』などがある。最新作は『物語の向こうに時代が見える』。
 新潮社 週刊新潮 2019年3月7日号 掲載 

【文庫双六】光太郎と賢治の“意外な接点”――梯久美子

 高村光太郎が詩集『智恵子抄』を出版した1941年はイメージ 4、太平洋戦争が始まった年である。真珠湾攻撃のニュースに高揚し、〈この日世界の歴史あらたまる。アングロサクソンの主権、この日東亜の陸と海とに否定さる〉(「十二月八日」)と詠ったことはよく知られている。
  45年4月の空襲で東京のアトリエが焼失、光太郎は岩手県花巻町(現在の花巻市)の宮沢清六の家に身を寄せた。清六は宮沢賢治の弟である。
  光太郎は生前の賢治に一度だけ会っている。26年12月、上京した賢治は光太郎のアトリエを訪ねた。夕刻になってからの突然の訪問で、手の離せない仕事があった光太郎は翌日来てくれるように言って玄関先で別れた。だが、賢治はそれっきり訪ねてこなかったという。
  無名の賢治は当時30歳、すでに名の知れた詩人で彫刻家だった光太郎は43歳。おそらく賢治は遠慮したのだろう。
  37歳で賢治が死去した後、光太郎は賢治の詩を高く評価し、全集の編纂にもかかわった。
  そうした縁から賢治の弟・清六と親しくなり、空襲で焼け出されたとき、清六を頼って花巻に疎開したのである。
  清六の著書『兄のトランク』には、その当時を回想した文章が収録されている。疲れ果てた様子で宮沢家にやってきた光太郎は、ていねいなもてなしを受けて元気を取り戻すが、8月10日、花巻に大規模な空襲があり、宮沢宅も焼けてしまう。
  戦後の光太郎は、花巻の郊外に小屋を建て、7年間、独居する。
  戦時中に戦意高揚詩を多数書いたことへの自責の念からと言われているが、その場所が花巻だったのは、玄関先で顔を合わせただけに終わった賢治との縁からだった。
  終戦直後、光太郎は宮沢家の避難先を見舞い、その後も長い間、賢治と清六の父のために山羊の乳を届けたという。
[レビュアー]梯久美子(かけはし・くみこ ノンフィクション作家) 新潮社 週刊新潮 2019年3月14日号 掲載

最後の一文、若干、勘違いがあるようですが……。


他に『信濃毎日新聞』さんにも関連記事が出ているのですが、また日を改めてご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

秋の彼岸が来て、或る朝芙蓉の葉に風が鳴る音を聞くと、私は生きかへつたやうに木を彫る事をおもふ。秋から冬にかけて木彫の仕事をするたのしさは言ふべくもない。心が澄み、身に生気が満ち、手は能く物の円みを知り、鑿は殆ど一個の生きものとなる。
散文「制作」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

ちょうど半年ずれた時期の文章ですが、あしからず。

とにかく夏の暑さに弱かった光太郎でしたが、それだけでなく、夏場は湿度が高すぎて木彫用の鑿や彫刻刀が悲鳴をあげるというのです。


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お世話になっております明星研究会さん主催の公開講座的イベントです。 
期    日  : 2019年3月23日(土)
会    場 : 武蔵野商工会議所 東京都武蔵野市吉祥寺本町1-10-7

時    間 : 13:30〜16:30
料    金 : 1,500円 (資料代を含みます/お支払いは当日にお願いいたします)

第1部:対談 杢太郎と勇「美食家(グールメ)と健啖家(グールマン)―美食への憧れ」
 「グルメと言われるが―杢太郎は何を食べたか」      丸井重孝(歌人・伊東市立木下杢太郎記念館)
 「極道に生れて河豚のうまさかな―グールマン・吉井勇」 細川光洋(静岡県立大学)
第2部:対談 晶子と光太郎「日仏の出会う食卓風景」
 「苦しい中でも工夫して/高村光太郎の食」         小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
 「家族と囲む食の喜び 〜駿河屋の娘のそののち」     松平盟子(歌人)

 日本の四季は食卓に旬の素材と料理を提供し、茶や酒を用意しました。感性豊かな「明星」の歌人・詩人たちにとっても同じ。西洋への憧れを秘めたサラダ、パン、コーヒーやリキュール酒などに揺れる心を託し、日常の彩りとすることも……。与謝野家では子供たちとどんな食卓を囲んでいたのでしょうか? 祇園に出入りした吉井勇は? 伊豆伊東の海を眺めて育った木下杢太郎は? パリ体験が人生の刻印となった高村光太郎は?
 今年は木下杢太郎の詩集『食後の唄』刊行から100年に当たります。これを記念して、詩歌や随筆などに描かれた食の現場・食をめぐる心情風景を追体験してみましょう。多くの皆さまのご来場を心よりお待ちしています。

申し込み 氏名・連絡先(電話)を添え、メールかFAXでお申し込み下さい。当日受付も可能です。
      メールアドレス : apply@myojo-k.net   FAX : 0463-84-5313(古谷方)
終了後、懇親会 会費4,000円 (当日受付でお申し込みください)

イメージ 1

イメージ 2

『朝日新聞』さんと『毎日新聞』さんに案内が載ったようです。

光太郎の部分を担当することになりました。ぜひお越し下さいませ。


【折々のことば・光太郎】

一つの型(かた)にまで上昇しない芸術には永遠性が無い。ただ別個的の状態を描き、現場の状況を記録し、瞬間の感動を叙述したに止まる芸術には差別美だけあつて普遍美が無い。
散文「某月某日」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

同じ文章で具体例は挙げられていませんが、他の文章を見ると、ピカソあたりを念頭に置いての発言のようです。「型」といっても、類型を繰り返すことではないとも書いています。


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富山県から演劇の公演情報です。 
期    日  : 2019年3月21日(木・祝)
会    場 : 高岡市生涯学習センター (ウィング・ウイング高岡) 
富山県高岡市末広町1-7
時    間 : 14:00〜
料    金 : 前売 一般2,000円 中・高生1,000円 当日 一般2,500円 中・高生1,500円 お菓子・飲み物付

彫刻家であり詩人である高村光太郎その妻智恵子。珠玉の愛の物語を『智恵子抄』の詩と共にお届けします。
脚本・一人芝居 茶山千恵子

イメージ 1


茶山さんという方、直接は存じ上げませんが、以前にも高岡で光太郎智恵子関連の市民講座や朗読をなさって下さっていた方です。



ありがたいところです。


【折々のことば・光太郎】

あの世とは何も遠いところではない。あの世とはみんなの頭の中にいつでも存在してゐるし、現世といつでも交通してゐるところである。

散文「某月某日」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

前年に亡くなった智恵子の新盆を迎えての感懐です。

同じ文章では「智恵子が今更あの世からのこのこお精霊さまになつて此の家にやつて来るなどとはしらじらしくて考へられず、おまけに智恵子は年中此所にゐるのだから、そんなあらたまつた事をする気が起らない」「私はあの変な戒名といふもので智恵子をよぶ気にはまるでなれない。何々院何誉何々大姉とは随分人を茶にしてゐるもので、たとひ自分の戒名があるとしてもそんな名をよばれて、すぐに「はい」と返事が出来ようとはおもへない」と書いています。

昨日は盆ならぬ、彼岸の入りでした。


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昨日は高崎市の群馬県立土屋文明記念文学館さんに行っておりました。

1月から開催されていた第103回企画展「文学者の書―筆に込められた思い」が最終日で、書家の石川九楊氏による関連行事としての記念講演会「文学者の書―その魅力を味わう」が行われ、拝聴して参りました。

1月に同展を拝見に伺った際は裏口から入りましたが、昨日は堂々と正面玄関から(笑)。

イメージ 1

イメージ 2

45名の文学者の書が展示されていますが、看板には、目玉となる人物の書に関する一言。光太郎のそれも。

イメージ 3

まずは展示会場へ。真っ先に光太郎の作品を拝見。同館所蔵のイメージ 4短冊で、何度も観たものですが、何度観てもいいものです。

展示全体は1月に拝見しましたので、今回は光太郎と関わりの深かった人々のもののみを改めて観ました。当会の祖・草野心平や、光太郎の師・与謝野夫妻の書など。

その後、閲覧室で調べ物。事前にネット上の蔵書検索を使い、キーワード「高村光太郎」でヒットしたもののうち、どういうものだかすぐにわからなかったものを閲覧させていただきました。

大半は、他の人物が光太郎について語った文章などで、既知のものでしたが、1点だけ、実に面白いと思ったのが、昭和24年(1949)に盛岡の新岩手社というところから発行された『友達 FRIEND』という児童向け雑誌。児童詩の投稿コーナーがあり、ずばり「高村光太郎先生」という詩が入選していました。作者は、光太郎が戦後の7年間を暮らした花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)近くの山口小学校の児童です。

選者は光太郎や宮沢賢治と交流のあった森荘已池。「詩人の詩を書いたので面白いと思いました」との評。

同じ号の巻頭カラーページには、やはり森が解説を書き、昭和2年(1927)の雑誌『大調和』に載った光太郎詩「偶作十五篇」から2篇が転載されていました。


その後、いったん駐車場に戻り、途中のコンビニで買って置いた昼食を車内で食べ、いざ、同館2階の講演会場へ。定員150名とのことでしたが、おそらくそれを上回る人数でした。

講師の石川氏。

イメージ 5

平成27年(2015)にNHK Eテレさんで放映された「趣味どきっ! 石川九楊の臨書入門」で、花巻高村光太郎記念館さん所蔵の光太郎書を扱って下さり、同番組のテキストでは当方もお手伝いさせていただいたもので、その関係で、一度電話でお話しした記憶があるのですが、お目にかかるのは初めてでした。

書の実作以外にも、書論書道史のご研究でも実績を積まれている石川氏、書とはどういう芸術なのかということを、わかりやすく、時にユーモアを交え、語られました。

例として挙げられたのが、今回の企画展出品作。同じ「山」という字でも、人ぞれぞれに異なる書きぶりで、その人が「山」という字をどう書いているかで、その人のいろいろな部分が見えてくる、というお話でした。光太郎の「山」もピックアップして下さいました。

イメージ 6

イメージ 8右上の有島武郎などは、かなり速いスピードですっと書いているのに対し、ここに挙げた中で最もゆっくり書いているのが光太郎だとのこと。よく言われる光太郎の彫刻刀で刻みつけるような書法が表れているとおっしゃっていました。

左は光太郎の「山」をホワイトボードに臨書されているところです。

また、当会の祖・草野心平の書も非常に特徴的だということで例に挙げられました。

イメージ 7


















終了後、少しお話をさせていただき、さらにあつかましくも持参したご著書にサインしていただきました。家宝にします(笑)。


花巻郊外旧太田村での7年間、戦時中の翼賛活動を恥じて自らに与えた罰として、彫刻を封印した光太郎。代わりに、というわけではないのですが、この時期には書の優品を数多く産み出しました(それ以前から味のある書をたくさん書いては居ましたが)。そして再上京した最晩年には、書の個展を開く強い希望を持っていました。或る意味、書は光太郎にとって、究極の芸術だったようにも思われます。

今後も、光太郎の書に注目していきたいと存じます。


【折々のことば・光太郎】イメージ 9

亡妻智恵子の背中にかなり大きなほくろが一つあつて、私はその魅力のために、よく智恵子の背中をスケツチした。陰影を少しもつけずに背中を描いて、そこへほくろを一つ入れるとぐつと肉体の円みが出て来るのが面白かつた。

散文「ほくろ」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳


左は昭和11年(1936)の雑誌『歴程』(心平の主宰です)第2号に載ったもの。同12年(1937)の『現代素描全集』第8巻に転載されました。残念ながら、現物は残存が確認出来ていません。

光太郎のデッサン、或る意味、「書」にも通じるような気がします。


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