高村光太郎連翹忌運営委員会のブログ

4/2は高村光太郎(1883〜1956)の命日、連翹忌(れんぎょうき)です。

新聞各紙等から。

今月に入ってからの、新聞各紙等から。

日付順に、まず、1月1日(火)の『産経新聞』さん。 

産経抄

 慶応4(1868)年の元日の江戸は快晴だったらしい。まもなく鳥羽、伏見で旧幕府軍と新政府軍の戦闘が始まる。7月には江戸が東京と改称され、9月には明治と改元、つまりこの年は明治元年となる。
▼もっとも、いつもの年と同じ正月気分にひたる江戸の庶民には、歴史の大きな変わり目に直面している自覚はまったくない。後に上野恩賜公園に立つ西郷隆盛像の作者となる彫刻家、高村光雲もその一人だった。当時は、仏師をめざす修行中の若者である。
▼「町人などは呑ん気なもので、朝湯などで、流し場へ足をなげ出して、手拭(てぬぐい)を頭の上にのせながら、『近い中に公方様と天朝様との戦争があるんだってなァ』というような話でも仕合う位のものである」。昭和2年から翌年にかけて新聞連載された「戊辰物語」に、こんな懐旧談を寄せている
▼幸いにも平成31年の元旦を迎えたわれわれは、今年5月に改元され、あたらしい御代を迎えることを知らされている。とはいえ、世界は激動の最中にある。天地がひっくり返るような出来事が、いつ起こってもおかしくない。ぼんやりとした不安をかかえながらも、なすすべがないという点では、江戸の庶民と大きな違いはない
▼明治に入ると廃仏毀釈(きしゃく)の嵐が吹き荒れ、仏像は破壊の対象となる。光雲は仏師の仕事を失い、苦しい生活を強いられた。それでも逆境に屈することなく、西洋美術の技法を学び、伝統的な木彫の復活に成功する。作品は海外の万博で評判を呼び、多くの弟子を育てた。大正、昭和を生き抜き82年の生涯を終える
▼どんな変革の波が押し寄せようと、時に大きな犠牲を払いながらも、したたかに乗り越えてきた。そんな先人のたくましさを今こそ、見習いたい。


続いて、1月4日(金)で、『毎日新聞』さんの東京多摩版。 

<平成歌物語>東京の30年をたどる/3 変わらぬ「上京の志」 音楽評論家・富澤一誠さん(67) /東京

 音楽評論家として半世紀近いキャリアを持つ富澤一誠さん(67)に「東京をうたった平成の歌」で印象に残る作品を聞いてみた。興味深い答えが返ってきた。福山雅治さん(49)の「東京にもあったんだ」??。
 富澤さんは長野県須坂市出身。なぜ、長崎県出身の福山さんの歌にひかれたのか。
    ◇
 1970年、東京大学に入学するため上京した富澤さんは、1年の時に歌手を目指して歌謡学校に入学したが、早々に挫折。ラジオで聞いた作詩家、なかにし礼さん(80)の「作詞ほど簡単にもうかる商売はない」という内容の言葉に希望を見いだし、作詞家を目指す。岡林信康の「私たちの望むものは」の歌詞に衝撃を受けてフォークの歌詞を書き、演歌の作詞を教えていた先生と対立した。東京でもがく当時の地方出身の若者そのものだった。
    ◇
 翌71年秋、音楽雑誌に投稿したことが、音楽評論家としてのデビューとなった。デビュー作は、歌詞に衝撃を受けたはずの岡林への批判。その年の8月「俺らいちぬけた」を発表し、岐阜県の山村に移住した岡林について、富澤さんはこう書いた。「生きていることを身をもって知るのは、対人関係において、複雑な社会機構を基盤に考えてこそ人間らしさを問いうるのでは」
 複雑な社会機構??東京だ。
 「我々の頃は、マイ・ペースが歌った『東京』のように、東京は花の都。私は田舎者だから東京に勝手なイメージを抱き『都会っていいね』という思いがあった。田舎へ戻ろうとは思わなかった」
    ◇
 富澤さんは自分の人生を、平成の時代に活躍する福山さんに重ねる。シンガー・ソングライターを夢見ていた福山さんは、高校卒業後に一度は地元の会社に就職したが、夢を諦めきれず上京した。
 その福山さんに2000年ごろ、富澤さんはインタビューした。「東京」について、福山さんはこう語ったという。
 「東京は何かやりたい人にとって、実現できる街、チャンスがどこかにある街。志を持って、何か変わりたいと思って東京に来ると、変われる気がする」
 東京にもあったんだ こんなキレイな夕陽(ゆうひ)が
 「高村光太郎の『智恵子抄』に『智恵子は東京に空が無いといふ ほんとの空が見たいといふ』とあるように、長崎出身の福山さんは、東京を『四角い空』だと思っていたのでは。東京にはきれいな夕陽がない、と思っていた福山さんが、それを発見して歌詞にしたのだと思う」
 「東京にもあったんだ」について、富澤さんはこう解説した。
    ◇
 「いつの日か『東京』で夢叶(ゆめかな)え ぼくは君のことを迎えにゆく」と歌った関西出身のシャ乱Q「上・京・物・語」、「東京は怖いって言ってた」と歌った福岡出身のYUI「TOKYO」。「東京の街に住んで大人になってたって」(「東京」)と歌ったケツメイシは、リーダーが神戸市出身だ。富澤さんは言う。
 「昭和の時代、甲斐バンドや長渕剛は九州から上京し、東京で一旗揚げようと『東京』を歌った。平成になっても、地方出身者が東京を歌う心は変わらない。新時代も、東京の歌は地方出身者が歌っていくことになるかもしれないね」


さらに、1月11日(金)、『朝日新聞』さんの夕刊。 

(危機の時代の詩をたどって:5)同調圧力、戦時中に重ねて

 昨年、若手を代表する詩人の一人、山田亮太(36)は詩「報国」を発表した。
 〈借りもののわれら順次熱狂の状態へ推移する〉〈のっぴきならぬ空気をつくりあげ世界を一つの家にする〉
 自分が戦時下に置かれたらという想定で書いた。「異常時には主体が巨大化し、国家を背負ってしまう。そんなさまを描きつつ、批評性を残すことで異常事態に対抗したいと考えた」。熱狂にひたる快感と共に皮肉めいた雰囲気がにじむのは、批評性ゆえだ。
 山田は、小熊秀雄賞に選ばれた2016年の詩集「オバマ・グーグル」にも、「戦意昂揚(こうよう)詩」と題した詩を収録している。〈きみは決断する/絶対に正しいものも絶対に/信じられる悪もないから〉〈きみひとりの戦争だから〉
 このときは、国家という存在を前に出すより、「きみ」という個人に呼びかける方が戦意高揚で効果的と考えた。
 だが、2年がたち、国家をもっと意識せざるをえなくなった。昨春には国会での証人喚問でどれほど追及されても淡々と答弁する財務官僚の姿に「機械のような完璧さ」を感じた。「国家が制御不能なほどに巨大化しているのに、それに巧みに適応している人間の方が格好良く見える。そんな空気を感じる」
 詩人の鈴木一平(27)も昨年、戦時下を想定した詩を発表イメージ 9した。その題は「高村光太郎日記」。戦争賛美の詩で批判された高村光太郎(1883〜1956)の詩句を引用して一編の詩を作った。なぜ高村の言葉を借りたのか。
 「他人の言葉だから自分に責任はないと、ごまかしをして戦争に加担する詩を書く。そういう恐れが自分にはあるし、そんな消極的賛成こそが危険だと指摘したかった」
 山田も高村の詩で当時の空気を学んだ。「人々が動員された熱狂が伝わってきた」

 若い詩人はなぜ今、戦争を意識するのだろう。「戦争詩論」の著書がある詩人の瀬尾育生(いくお)(70)は「フェイスブックなどSNSでの発言も気が抜けない。今の社会は主流の価値観以外を認めず、正しさを強いる息苦しさがあり、その空気を戦時中に直感的に重ねている」とみる。山田らの「戦争詩」はそんな同調圧力への反抗、というのだ。
 詩人の野村喜和夫(67)も最近の若い世代の詩を「反抗と怒りの言語化」とみる。経済は失速、政治は右傾化し、震災も発生。「原発事故、強大な国家、グローバル資本主義……。統御できない怪物たちを前に我々は途方に暮れるしかない。怒るのは当然」
 野村は今年刊行する評論に「危機を生きる言葉」という題をつけた。「詩人は貧乏や逆境に強く、危機に力を持ちうる。全体性という巨大な怪物から逃れた詩の言葉は『弱い力』を解き放ち、読む人の生に力を与える」と野村はいう。そして希望を込め、レジスタンスにも身を投じたフランスの詩人ルネ・シャールの詩句を挙げる。〈危機がきみの光明であるようにするのだ〉。危機の時代だからこそ、詩の可能性を信じたい。=敬称略(赤田康和)


こうして各紙の記事を並べてみると、現在の「世相」というものが見えてくるものですね。

ちなみに、鈴木氏の「高村光太郎日記」の載った雑誌『てつき1』、注文しました。届きましたらまたご紹介します。


次に、『石巻日日新聞』さん。一昨日もご紹介しました、女川町にかつて建てられた高村光太郎文学碑の精神を受け継ぐプロジェクト「いのちの石碑」関連です。 

石巻地方で成人式 1900人 震災経て門出 次代を担う二十歳の誓い

きょう14日は「成人の日」。それに先立つ13日、石巻地方の各地で成人式が行われた。今年の新成人は平成10年4月2日―同11年4月1日生まれ。東日本大震災発生当時は小学校6年生だった世代で、石巻地方の対象者は石巻市1357人(男704人、女653人)、東松島市484人(男266人、女218人)、女川町126人(男56人、女70人)が対象となった。二十歳という人生の節目を迎えた紳士淑女たちは久しぶりに再会した友人と近況を報告し合い、将来への決意を胸に刻んだ。

女川町 古里と仲間忘れず未来へ
 女川町の成人式は13日、生涯学習センターで開かれた。イメージ 1町内21の浜に震災の記憶を未来に伝える「いのちの石碑」の建立に取り組む、女川中の卒業生約60人が出席。決意新たに一歩を踏み出した。
 「多感な時期に苦労をかけ、本当に申し訳なかった」。震災を振り返り、祝辞で深謝した須田善明町長は「辛さ痛みを背負い、皆で行動してきた。その力は誇り。これから人生の幸をつかみ、何事も真剣に全力で取り組んでほしい」と語った。
 新成人代表の千葉嵩斗さん、鈴木美亜さんが「どこにいてもふるさと女川、大震災でも欠けることのなかった仲間を忘れず、一歩ずつ自分の足で未来に向かって進み、社会の発展に貢献していく」と誓いを立てていた。


女川光太郎祭等でお世話になっている、須田町長さんの祝辞、「多感な時期に苦労をかけ、本当に申し訳なかった」の語に、はっとさせられました。別に町長さんが謝ることではありませんし、震災当時は前町長の町政時代でしたし……。

同じく、女川町の成人式について、新聞ではありませんが、仙台放送さんのローカルニュースから。 

「千年後の命を守る」活動とは…女川中学校の卒業生が20歳に誓う

「成人の日」は14日ですが、宮城県内のほとんどの自イメージ 2治体では13日、成人式が開かれ、約2万4千人が大人への第1歩を踏み出しました。このうち、女川町では千年後の命を守りたいと活動を続けた女川中学校の卒業生たちが新成人を迎えました。

13日に開かれた、女川町の成人式。
鈴木美亜さん(新成人誓いの言葉)
「どこに行ってもふるさと女川と、大震災でも欠けることなかった大切な仲間を忘れることなく1歩ずつ自分の足で未来に向かって進んでいきます」
千葉嵩斗さん
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「そして、ここから生まれる素晴らしい出会いを大切にし、未来の社会の発展に貢献する
ことをここに誓います」
この日参加した新成人は震災当時、小学6年生。1カ月後に入学した女川中学校で、ある活動を始めた学年です。
阿部一彦先生 (2012年取材)
「千年後まで残しましょう。ここで中途半端にしてはダメだ!大人に訴えましょう!伝わるはず!絶対」
それが、千年後
の命を守るための「いのちイメージ 4の石碑」作り。町内21の浜の津波到達点に石碑を建てる計画です。震災から2年後、2013年に1基目が完成。6年かけ、これまでに17基が建てられました。そしてもう1つ、「いのちの教科書」作り。防災の知識や避難の意識、そして、自分たちの経験などを綴り、2017年、完成しました。2つの活動は今も続き、石碑は最後の21基目の完成を、教科書は来年の改訂を目指しています。
山下脩くん
「この仲間たちじゃなかったら多分途中で諦めていたかもしれないし、みんなで支え合って何でも言い合ってきたか
イメージ 5らこそ、ここまで来れたのかな」
伊藤唯さん
「この活動今は十何人とかすごい少ないんですけど、もとは中学生の時に同級生みんなで始めた活動なので、みんなの気持ちを背負って活動していきたい」
そんな彼らに、この日、ある物が配られました。それは「俳句」を書く紙。いのちの石碑には、震災後、授業で詠んだ同級生たちの俳句が刻まれています。 最後の1基、21基目に刻む俳句は成人を迎えた今回書いた俳句の中から選ぶことにしました。いのちの石碑。その1基目に刻まれた句は「夢イメージ 6だけは壊せなかった大震災」。
橋本華奈さん
「4月からバスガイドになるんですけど、東京オリンピックが開催されるからこそ、東京で色んな方に日本の良さを知ってもらえれば」
小松玲於さん
「今、機械保全の仕事をしているんですけど、それとは別でウェディングプランナーという仕事をやってみたくて、それに向けて勉強しているんですけど、なれるように責任持って、ちゃんとした大人になれれば」
鈴木智博さん

「今大学入っているので勉強して女川町とかイメージ 7、お世話になって人に恩返しできるような大人になれれば」
「千年後の命を守る活動」に参加し続けた山下脩さん。海上保安官になるという夢を叶えました。
「地元である女川だけじゃなくて、宮城、東北の海の安全を守るのが目標で、まだ行方不明者の方とかいるので、実際に潜水捜索とかではないんですけど、その支
援として行方不明者捜索にも関わっていきたい」
伊藤唯さん。「笑顔を届けたい」とダンサーを目指しています。
「ダンサーになることも1つですし、
イメージ 8あとはこの活動がもっと多くの人に知ってもらって命の大切さとか、災害は起こりうるものなので、そういう時の対策を多くの方に知っていただいて、後は成人式を迎えたので、自分自身も責任を持って日々過ごしていけたら」

「千年後の命を守る」活動を続ける女川中学校の卒業生たち。それぞれの夢を追いながら、大人の1歩を踏み出しました。


この「いのちの石碑」をめぐる物語、NHKさんが、平祐奈さん主演でドラマ化。3.11直前の3月9日(土)に放映されるそうです。

また近くなりましたら、詳細をお伝えいたします。


【折々のことば・光太郎】

今でも、何かあぶないなと思ふ事にあつたり、前後のわからないやうな、むつかしい考に悩んだりする事がある度に、小父さんはまづ自分の足の事を思つてみる。自分がほんとにしつかり立つて、頭を上にあげてゐるかしらと思つてみる。

散文「小父さんが溺れかけた話」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

自分がほんとにしつかり立つて、頭を上にあげてゐるかしら」という問い。常に持っていたいものですね。

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サンタさんはやっぱりいるのですね。イメージ 1

昨年のクリスマスイヴの日のこのブログで、国書刊行会さん刊行の『中村傳三郎美術評論集成』をご紹介しました。定価27,000円+税の大著ですのでなかなか手が出ないもので、「サンタさんが置いていってくれていないものか」と書いたところ、本当に届きました。

著者の故・中村傳三郎氏のご子息であらせられる中村徹氏がこのブログをご覧下さいまして、それなら、と贈って下さった次第です。深く感謝いたしております。

重さ1.65キログラム、1,000ページ余、刊行までに3年余りかかったというのもうなずけます。目次だけでも10ページ、それも二段組みで(本文も二段組み)です。

編集は、小平市平櫛田中彫刻美術館学芸員の藤井明氏。氏からご労苦のさまを伺っておりましたが、実物を手にとって、改めてこれは大変だったろうな、と実感させられました。

「彫刻篇」「絵画篇」「工芸篇」に分かれ、国立博物館付属美術研究所(現・国立文化財機構東京文化財研究所)
に勤務されていた故・中村氏が、さまざまな新聞雑誌や展覧会図録などに発表された文章の集成です。ご専門が近代彫刻史だったため、「彫刻篇」の分量がもっとも多く、随所で光太郎や光雲に触れられています。その他、ロダンや荻原守衛、平櫛田中をはじめ、光太郎・光雲ゆかりの彫刻家が一堂に会している感があります。また、ともに光太郎と交流のあった鈴木政夫、土方久功など、一般にはほとんど知られていない彫刻家もしっかり紹介されているのには舌を巻きました。これを読まずして近代日本彫刻史を語るなかれ、という感がしました(当方もまだ読了していませんが(笑))。

なかなか個人では入手しにくいとは存じますが、およそ彫刻に関係する大学さんや美術館さん、それから公共図書館さんなどでは必ず置いてほしいものです。よろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

私は美術家としての生活を聊か変へた。もつと変へるであらう。従来の美術家の生き方がだんだん堪へられなくなつて来た。もう自分にはロダン流の、(又従つて日本の九分通りの、或は全部の美術家の、)生活態度が内心の苦悶無しには続けてゆけない。
散文「近状」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

元々展覧会への出品をほとんどしなかった光太郎ですが、さらに、注文を受けて作品を作る、という行為にも疑義を感じ、このような発言をしています。それではいったいどうやって生活して行くんだ、ということになります。結局は、「内心の苦悶」を抱えながら、注文仕事やら光雲の代作や下職(肖像彫刻をやや苦手としていた光雲のための原型制作など)やらを続けて行かざるを得ませんでした。

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成人式。

今日は成人の日。しかし、今日よりは、この土日に成人式を開催した自治体さんが多いようです。各地の成人式について、新聞各紙から。

まず、『岩手日日』さん。 

花巻市成人式 大人の自覚新た

 花巻市の2018年度成人式は12日、同市若葉町イメージ 1の市文化会館で行われた。男性409人、女性426人の合わせて835人が出席。華やかな振り袖や真新しいスーツに身を包んだ若者たちが、旧友との再会を喜ぶとともに式典や記念行事を通じて大人としての自覚を新たにした。
  市主催の式典では国歌斉唱、新成人代表4人による市民憲章の朗読に続き、上田東一市長が花巻で過ごした高村光太郎の詩「道程」を引用しながら「皆さんは小学校の卒業を目前に控えた時に東日本大震災を経験し、主体的な行動と自分で考えることの大切さを学んできたと思う。新しい時代を築いていく皆さんには柔軟なアイデアと大胆な行動力を持ち、光太郎のような道を進んでいくことを期待している」と式辞。小原雅道市議会議長が祝辞を寄せた。
  新成人2人の決意表明では、記念行事実行委員会委員長の佐々木小梅さん(大迫中学校出身)が専門学校卒業後に看護師になる目標を述べながら「これまで学んだ知識を生かし患者に寄り添いながら信頼される看護師になりたい。両親や成長を温かく見守ってきた地域の方々、友人に感謝の気持ちを忘れずに人生を歩みたい」、副委員長の町中大悟さん(西南中出身)は「大学卒業後にメディアの記者として働き、岩手の良さを伝えられる記者になりたい。大人の自覚を持ち社会に貢献できる人になりたい」と力強く語った。
  式後は実行委が企画した記念行事、出身中学校ごとの記念撮影が行われた。

他にも全国の首長さんで、「道程」などを引用された方がいらっしゃるのではないかと存じますが、光太郎第二の故郷ともいうべき花巻市の上田市長が引用されるのは、重みが違うように思われます。上田市長のお父様は生前の光太郎と交流がありましたし、上田市長ご自身、毎年5月15日の花巻高村祭にはほぼ欠かさずいらして下さっています。


続いて、『朝日新聞』さんの宮城版。先週の記事です。 

宮城)女川・21基目「いのちの石碑」 刻む句を募集

 東日本大震災の津波の記憶を後世に残イメージ 2そうと、女川町内21の浜に「いのちの石碑」の建立を目指す女川中学校の卒業生らが、最後となる21基目の石碑に刻む句を13日の成人式で募集することを決めた。
 取り組むのは2011年春に中学校に入学した生徒たちで、今年成人式を迎える世代だ。中学校の社会科の授業をきっかけに、「千年後の命を守ろう」と町内すべての浜で、津波到達点より高い場所に石碑を建てることを計画。13年11月に第1基を女川中学校前に建立して以来、現在までに17基が完成した。
 21基目は、20年に完成予定の町立女川小・中学校内に同年秋ごろの設置を目指す。これまでの石碑には、震災直後に生徒が詠んだ句の中から一句ずつを選び刻んできた。
集大成となる石碑には、新成人として一堂に会する同級生から募ることで意見がまとまった。石碑の設置場所を示した地図も作り、成人式会場で配布する。
 大崎市の専門学校生勝又愛梨さん(19)は、「募金など多くの人の支えでここまでやってこられた。石碑が一人でも多くの人の命につながるよう、これからも活動を続けたい」と話した。(山本逸生)

このブログでもたびたびご紹介してきた、女川町にかつて建てられた高村光太郎文学碑の精神を受け継ぐプロジェクト「いのちの石碑」関連です。

イメージ 3イメージ 4






























その女川町の成人式の模様、仙台に本社を置く『河北新報』さん。 

<成人式>夢見る思い未来紡ぐ 県内各地で成人式

◎いのちの石碑建立の元生徒/教訓の伝承 イメージ 5心に刻む・女川

 宮城県内の多くの自治体で13日、成人式が行われた。東日本大震災の被災地では、多くの新成人が、復興が進む古里への貢献を誓った。県によると、今年の対象者は県内で2万4018人。前年と比べ294人増えた。
 女川町の成人式が町生涯学習センターであり、東日本大震災の教訓を記した「いのちの石碑」を町内21の浜に建てる活動に取り組む女川中の卒業生約60人が出席した。今も続くプロジェクトの合言葉は「1000年後の命を守る」。会場で最後となる21基目の石碑に刻む俳句を募り、新成人が自分と古里の未来に思いをはせた。
 今はまだ あの日の夢の 道なかば
 作歌した大学2年の山田太介さん(20)は今、地球物理学を学ぶ。2013年11月に建立された1基目に刻まれた作品「夢だけは 壊せなかった 大震災」は、山田さんが作った。
 鉱物学者を夢見る思いは津波に遭っても揺るがない、との思いを込めた。山田さんは「震災後も夢に向かって勉強を続けてきたことをみんなに会って思い出した。自分は夢の途中にいる」と改めて気付いた。
 学業などが多忙でプロジェクトの集まりにはあまり参加できないが「津波の教訓を伝承していくという思いは変わらない」と話す。
 進んでく あの日のことを 忘れずに
 山下脩(しゅう)さん(20)は今、海上保安官として働く。震災から約8年がたち、古里の風景は様変わりした。
 「昔の街に戻ってほしい思いもあるが、未来に進むためには仕方がない」と語り「震災を心に刻み、これからの人生を歩んでいきたい」と力を込めた。
 プロジェクトは、本年度成人した11年度の入学生が中学の社会科の授業をきっかけに始めた。津波対策を話し合い、石碑の建立を進めてきた。
 後世の町民が津波で命を落とさぬよう、津波到達地点より高い場所に石碑を建立。費用は寄付金などで賄う。完成した石碑には、震災直後に生徒たちが詠んだ句が刻まれている。
 中学卒業後も有志が集まり、活動を続けた。プロジェクトの一環として作った震災の教訓集「女川いのちの教科書」は、この日の式典会場で配布された。
 教科書作りに携わった勝又愛梨さん(19)は「震災で一番つらい時期に支えてくれたメンバーと一緒に成人式を迎えられてうれしい。たくさんの大人に支えてもらったので、私もそんな大人になりたい」と話す。
 震災後、避難所で気丈に振る舞う看護師に憧れ、大崎市の看護学校に通う。「これからも自分のできることで貢献していきたい」と思いを語った。
 石碑はこれまでに17基が建立された。21基目は20年秋に完成する予定。

『毎日新聞』さん。 

「津波の碑に刻む、最後の句を君たちから」女川町、成人式で募る

 宮城県女川町で、東日本大震災の津波の到達点に「イメージ 6いのちの石碑」を設置する活動を続ける町立女川中の卒業生が13日、同町の成人式に臨み、碑に刻む俳句を会場の同級生に向けて募った。句は、来夏に建立する最後の21基目の碑に刻む予定で、「1000年後の命を守るため、震災を経験し新成人となった今の思いを込めてほしい」と呼び掛けた。
  「いのちの石碑」の活動は、震災時小学6年で、2011年4月に女川一中(現女川中)に入学した生徒たちが、中1の社会の授業をきっかけに「古里のためにできることをしよう」とスタート。20歳になるまでに、町内21地区の津波最高到達点に石碑を建てることを目標とした。
 メンバー67人は自ら募金活動をするなどして約1000万円を集め、現在までに17基の設置が完了した。各碑には、地震発生時には碑より高台へ避難するよう呼び掛ける定型のメッセージと、メンバーが震災を通じて感じたことを表現した俳句を刻んできた。最後の21基目は、来夏に町中心部に完成予定の女川小中一貫校の新校舎の敷地内に設置されることが決まっている。
  メンバー以外から募集するのは初めてで、メンバーが詠んだものも含めて集まった句から選ぶ。この日の式では、出席した新成人一人一人に用紙が配られ、さっそく真剣な表情で句を書き込む新成人もいた。
  活動に取り組む看護学校生の勝又愛梨さん(19)は、「碑を見る人に『生きていることは幸せなんだ』と思ってもらえるような俳句を書きたい」と話す。震災で曽祖父母と2人のいとこが犠牲になったといい「震災で命の大切さを知った。看護師になり、誰かのために行動できる成人になりたい」と決意を新たにしていた。【本橋敦子、百武信幸】


かつて光太郎文学碑の建立に奔走し、あの津波に呑み込まれて亡くなった、女川光太郎の会事務局長であらせられた故・貝(佐々木)廣氏も、喜ばれていることでしょう。

新成人の皆さんの、輝かしい未来に幸多かれ、と存じます。


【折々のことば・光太郎】

青春の爆発といふものは見さかひの無いものだ。若さといふものの一致だけでどんな違つた人達をも融合せしめる。パンの会当時の思出はなつかしい。いつでも微笑を以て思ひ出す。本質のまるで別な人間達が集まつて、よくも語りよくも飲んだものだ。自己の青春で何もかも自分のものにしてしまつてゐたのだ。銘々が自己の内から迸る ( ) 強烈な光で互に照らし合つてゐたのだ。いつ思ひ出しても滑稽なほど無邪気な、燃えさかる性善物語ばかりだ。

散文「パンの会の頃」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

パンの会」は、木下杢太郎、北原白秋、吉井勇などが興した芸術至上主義運動の会。欧米留学から帰った光太郎もすぐに合流し、その若さを爆発させました。

しかし、同じ文章にはこんな一節もあります。

爆発は爆発だ。爆発してしまふと、あとはもつと真摯な問題が目をさます。人生のもつと奥の大事なものが幾層倍の強さで活動し始める。

新成人の皆さんも、爆発だけでなく、「いのちの石碑」に関わってこられた女川の若者たちのように、「真摯な問題」、「人生のもつと奥の大事なもの」に目を向けていっていただきたいものです。

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昨日は、都内に出ておりました。当会顧問・北川太一先生を囲む新年会でした。

会場は、東大前のフォーレスト本郷さん。当方、昨年は同じ日に埼玉県東松山市で講演を仰せつかっており、2年ぶりに参加させていただきました。

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右上は北川先生のご自筆です。

主催は、「北斗会」さん。北川先生が高校の教員をなさっていた頃の教え子の皆さんです。教え子といっても、戦後すぐの話ですので、皆さんだいぶご高齢。最高齢の方は92歳だそうです。何人かの方は、連翹忌や女川光太郎祭にもいらして下さっています。

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北川先生ご自身は、この3月で94歳となられます。

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昨年は白内障やヘルニアの手術をなさったそうですが、奥様ともども、お元気でご参会。数年前は車イスが欠かせなかったのに、現在はご自分のおみ足で歩かれています。例年、子息の光彦氏もいらっしゃるのですが、昨日はご都合によりご欠席。代わりにお孫さんの浩平君がお付きの人としてご参加なさいました。

今年、文治堂書店さんから、新刊を刊行されるとのことで(さまざまな雑誌等にご発表なさった旧稿の再編だそうですが)、まだまだお元気でご活躍。

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上記は文治堂さんからの年賀状の一節です。

旧稿といえば、昨年末にコールサック社さんから刊行された野澤一詩集『木葉童子詩經』復刻版。別冊で「解説」が付いており、北川先生を含む9名の方々の玉稿が掲載されています。北川先生のものは、平成元年(1889)の雑誌『峨眉』に載った「大竜のおとずれ――野沢一と高村光太郎」。光太郎と野沢との交流の様相がまとめられています。

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光太郎を敬愛し、山梨県の四尾連湖畔に独居生活を送り、膨大な量の書簡をほぼ一方的に送り続けた詩人・野沢一の生前唯一の詩集で、元版は昭和9年(1934)。その後、文治堂書店さんから2回覆刻されており、今度が3回目です。今回のものは、限りなく元版に近い形での復刻だそうです。野沢の子息である、俊之氏から献呈ということでいただいてしまいました。恐縮です。

北川先生の新刊に関しては、また詳細が判りましたらご紹介いたします。併せてご購入下さい。


【折々のことば・光太郎】

今でもはつきり思ひ出すが、その時細かな霰が急に白く降つて来て人力車の泥よけにぱちぱちあたつた。「おしるしがやつて来た。」と私の降り性を諷した父のさそくの言葉が一同を少し笑はせた。

散文「遙にも遠い冬」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

明治39年(1906)の2月、3年半にわたる欧米留学のため、駒込林町の実家を出た時の回想です。

降り性」とありますが、今で言う雨男。光太郎は本当に何か節目の時には必ずといっていいほど、雨や雪、霰を呼ぶ男でした。有名なところでは、大正3年(1914)の智恵子との結婚披露宴、昭和28年(1953)の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の除幕式、そして亡くなった昭和31年(1956)4月2日は、季節外れの大雪でした。

不思議と光太郎没後もそれが続き、当方、光太郎関連のイベント等でどこかに出かけるたび、ほとんど雨や雪です(笑)。昨日も都内で初雪が降りました。

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映画「この道」。

昨日公開の映画「この道」、早速、拝見して参りました。イメージ 1

昨年末に小学館さんから刊行された大石直紀氏著『この道』、ほぼその通りのストーリーで(映画のノベライズと謳っていますので当然ですが)、北原白秋と山田耕筰を軸に、物語が進んでいきます。

前半は、隣家の人妻にして、後に白秋の妻となる俊子ともども姦通罪で逮捕されたり、入水自殺を企てるも結局は勇気が無く思いとどまったりといった、ダメ人間・白秋(笑)が描かれます。白秋役は大森南朋さん。

やがて白秋は、EXILEのAKIRAさん演じる山田耕筰とタッグを組み(最初の出会いは乱闘に発展)、関東大震災で力を落とす人々を、白秋の詩と山田の音楽を融合させた童謡で力づけていく、という展開。

その後、日中戦争勃発後は、否応なしに戦時体制に組み込まれてゆく二人……。幼い頃に白秋の家によく遊びに来ていた男の子がが立派な青年となり、兵士として出征してゆくシーンには、じーんと来ました。そして、やがて来るであろう、自由に歌が作れる時代を夢見ながら、白秋は先立ち、残された山田が白秋の分までその思いを背負って生きていく、というストーリーです。

『明星』の与謝野寛・晶子夫妻や、光太郎、萩原朔太郎、石川啄木、鈴木三重吉なども登場します。光太郎のそれには触れられませんでしたが、晶子に関しては、やはり大政翼賛の方向に行かざるを得なかった苦悩が描かれていました。

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関連するテレビ番組が、明日、放映されます。昨年5月に初回放映があったものの再放送ですが。 

昭和偉人伝 「山田耕筰・北原白秋」

BS朝日 2019年1月13日(日) 11時00分〜11時55分

国家壊滅の状態から未曾有の成長を遂げた時代・昭和。そこには、時代を先導したリーダーがいた。そんな偉人たちを、独自取材と真実のインタビュー、さらには貴重な映像を交じえてつづる、波乱万丈の偉人伝。

2018年で童謡が生まれて100年。番組では、今も愛される童謡の名曲を数多く生んだ、詩人・北原白秋と作曲家・山田耕筰の足跡をたどり、日本人の心に残る原風景を探る!

「からたちの花」「この道」など、今も愛される童謡の名曲を生んだ、詩人・北原白秋と作曲家・山田耕筰。今回は偉大な芸術家2人の足跡を童謡を中心にたどり、日本人の心に残る原風景を探る。白秋と耕筰は、日本語が持つ美しさを生かした音楽を作り、子どもはもちろん、大人たちにも豊かな心を育んでほしいと願っていた。1918年に鈴木三重吉が「赤い鳥」を創刊し、童謡が生まれて100年以上。詩を読み、旋律にじっと耳を傾ければ、無心で遊んだ幼い頃の気持ちがよみがえるだろう。誰もが持つ“日本心の情景"を探る。

語り 國村隼

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白秋、山田、それぞれの人物像のアウトラインが紹介され……

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映画「この道」の映像も。

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山田耕筰を演じたAKIRAさんや、歌手の秋川雅史さんがゲスト出演。

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ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

人間の首ほど微妙なものはない。よく見てゐるとまるで深淵にのぞんでゐる様な気がする。其人をまる出しにしてゐるとも思はれるし、又秘密のかたまりの様にも見える。さうして結局其人の極印だなと思はせられる。

散文「人の首」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

性格やその時々の精神状態など、顔に表れる情報は隠そうにも隠しきれないということなのでしょう。ある意味、恐ろしいことです。

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埼玉県から市民講座の情報です。手前味噌で恐縮ですが、当方、講師を仰せつかっております。 

図書館講座「高田博厚、田口弘、高村光太郎 東松山に輝いたオリオンの三つ星」

期    日 : 前期 2019年1月19日(土)
会    場 : 東松山市立図書館 埼玉県東松山市本町2-11-20
時    間 : 13:30〜15:00
講    師 : 小山弘明 (高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
料    金 : 無料
申 し 込 み : 直接または電話で市立図書館 0493−22−0324

東松山市とゆかりの深い三人の文学と芸術、人生について学びます。

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同市元教育長の故・田口弘氏は、戦時中から光太郎と交流があり、戦後には花巻郊外太田村に蟄居中の光太郎を2回ご訪問、さらに昭和26年(1951)から刊行が始まった中央公論社版『高村光太郎選集』編集のため、戦前から作成されていた光太郎に関するスクラップブックを、当会の祖・草野心平に貸与なさいました。そこで、昭和59年(1984)に、市内の新宿小学校さんに建てられた「正直親切」碑の建立に奔走されたり、平成28年(2016)には、光太郎から贈られた書や署名本、書簡などを同市に寄贈されたりなさいました。氏の没後、寄贈された資料は、市立図書館さんに「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」が設置され、無料で公開されています。

さらに、やはり光太郎と交流のあった彫刻家・高田博厚とも親しくされ、光太郎胸像を含む高田の彫刻32点を配した同市の東武東上線高坂駅前から延びる「彫刻プロムナード」整備にも力を注がれました。そうしたご縁から、鎌倉にあった高田のアトリエの閉鎖に伴い、アトリエにあった彫刻その他も同市に寄贈されています。昨年には、それらを展示する企画展も開催されました。

というわけで、田口氏、高田博厚、そして光太郎、3人の交流と東松山との関わりについて、お話をさせていただきます。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

高田君の彫刻の写真は中々見事である。まだ実物は見ないが、此だけでも見当がつく。今知らん顔をしてゐる人達も今に否応無しに此彫刻家を認めねばならない時が来るであらう。実力といふものは面白い。

散文「雑誌「大街道」の事」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

「天才は天才を知る」と申しますが、まだ世間からほとんど注目されていなかった高田の彫刻を、光太郎はいち早く素晴らしいものとして認識していました。

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東京都三鷹市より、企画展示の情報です。智恵子を主人公とした小説『智恵子飛ぶ』(平成9年=1997)で芸術選奨文部大臣賞を受賞され、2016年には文化功労者にも選ばれた津村節子さんに関わるものです。 

「吉村昭と津村節子・井の頭に暮らして」展

期    日 : 前期 2019年1月12日(土)〜2月2日(土)   後期 2月5日(火)〜2月24日(日)
会    場 : 前期 井の頭コミュニティ・センター図書室  三鷹市井の頭二丁目32番30号
          後期 三鷹図書館(本館)  三鷹市上連雀八丁目3番3号
時    間 : 前期 正午〜20時(土曜は10時から、日曜日は10時〜16時30分、最終日は15時まで)
          後期 9時30分〜20時(土曜、日曜・祝日は17時まで)
料    金 : 無料
休 館 日 : 前期 月曜日・祝日  後期 月曜日・第3水曜日(2月20日)

三鷹市ゆかりの文学者顕彰事業の一環として、ともに作家であり、夫婦でもある吉村昭と津村節子を取り上げ、市内2ヵ所で巡回展示を開催します。
両者が作家として築き上げてきた文学の世界を多彩な著作から紹介しつつ、二人が夫婦として長年暮らした三鷹とのゆかりを紹介します。
本展では、初版本や、自筆原稿、色紙など数々の資料をご覧いただけます。展示内容に違いもありますので、お時間のある方は両施設にぜひ足をお運びください。

展示予定資料
 吉村昭・津村節子 自筆色紙
 吉村昭 自筆原稿「わがふるさと三鷹 文学散歩」
 津村節子 自筆原稿「私の青春・二十歳で洋裁店のマダムだったが」ほか

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『朝日新聞』さんの東京版に紹介記事が出ました。  

東京)吉村昭さん津村節子さんに迫る 三鷹で巡回展

 東京都三鷹市で1〜2月、巡回展「吉村昭と津村節子――井の頭に暮らして――」がある。ともに作家で夫婦の吉村さん(1927〜2006)と津村さん(1928〜)は長年、市内で暮らした。資料の展示などを通じ、2人の文学や市とのゆかりを紹介する。
 現在の東京都荒川区で生まれた吉村さんは、学習院大学を中退後、1953年に同人仲間だった津村さんと結婚。66年に「星への旅」で太宰治賞を受賞し、同年の「戦艦武蔵」で記録文学に新境地をひらいた。「ふぉん・しいほるとの娘」「冷い夏、熱い夏」「破獄」「天狗(てんぐ)争乱」などを発表。数多くの文学賞を受けた。
 福井市出身の津村さんは学習院短大卒。65年に「玩具」で芥川賞を受賞した。自伝的小説や歴史小説、エッセーなどで幅広く活躍。代表作には「智恵子飛ぶ」「流星雨」「異郷」などがある。
 三鷹市スポーツと文化財団などによると、2人は69年、「都心に近く、自然も残り、創作に理想的だ」などとして市内に転居。都立井の頭公園近くに居を構えた。吉村さんは最晩年、膵臓(すいぞう)がんの手術を受けて、自宅で療養。没後の2006年夏、津村さんはお別れの会で、「ヒグラシが鳴いて井の頭公園の風が吹いてくるのを喜んでいた」と吉村さんについて振り返っている。
 巡回展では「戦艦武蔵」や「玩具」の初版本、2人の色紙や写真などを展示。財団学芸員の三浦穂高さんは「2人にとって、作家としても夫婦生活を送るうえでも、三鷹は大事な場所だったのだろう」と話す。
 巡回展は1月12日〜2月2日が井の頭コミュニティ・センター図書室(井の頭2丁目)、2月5〜24日が市立三鷹図書館(上連雀8丁目)。2カ所で内容が一部異なる。ともに無料。開館時間や休館日の問い合わせは山本有三記念館(0422・42・6233)へ。(河井健)


津村さんに関しては、昨秋、吉村さんの故郷・荒川区の吉村昭記念文学館さんで、。「おしどり文学館協定締結1周年記念 荒川区・福井県合同企画展 津村節子展 生きること、書くこと」、及び、「第2回 トピック展示「津村節子『智恵子飛ぶ』の世界〜高村智恵子と夫・光太郎の愛と懊悩〜」が、同館と「おしどり文学館協定」を結ぶ、津村さんの故郷の福井県ふるさと文学館さんで、「おしどり文学館協定締結1周年記念 荒川区・福井県合同企画展「津村節子〜これまでの歩み、そして明日への思い〜」が開催されましたが、今回は、津村さんが現在お住まいの三鷹市での開催です。

『智恵子飛ぶ』に関する展示もあるかと存じますので、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】イメージ 2

すばらしい大きな雷が一つ、角の牛肉屋の旗竿にお下(くだ)りになつた後、やうやく雨の降りやむ迄の一二時間、裸でみんなの前に坐つてゐるおぢいさんの、確信のあるそのちよん髷頭が、どんなに私の力となつたらう。雷が鳴るといつでも、あの時のおぢいさんが眼に見える。

散文「雷の思出」より 
大正15年(1926) 光太郎44歳

子供の頃から、そしていい大人になった後も、光太郎は雷が大嫌いでした。子供の頃は、同居していた祖父の兼松が、雷が鳴ると直撃を避けるおまじない的なことをしてくれ、それが心強かったというのです。

上記のエピソードは明治16年(1883)生まれの光太郎の幼少時ですから、明治10年代終わりか、20年代初めでしょう。断髪令が出たのが明治4年(1871)、そんなことはお構いなしにまだ髷を結っていた兼松。この頑固さは、光太郎にも遺伝しているようです。

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当会の祖・草野心平を顕彰するいわき市立草野心平記念文学館さんでの企画展です。 

冬の企画展「草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」

期    日 : 2019年1月12日(土)〜3月24日(日)
会    場 : いわき市立草野心平記念文学館 福島県いわき市小川町高萩字下タ道1-39
時    間 : 9時から17時まで
料    金 : 一般 430円(340円)/高・高専・大生 320円(250円)/小・中生 160円(120円)
         ( )内は20名以上団体割引料金
休 館 日 : 毎週月曜日、1月15日、2月12日(1月14日、2月11日は開館)

草野心平は、天性の詩人でしたが、自身と家族のために行った職業は13を数えます。それは何一つ詩人の副業でありませんでした。その一つ、居酒屋「火の車」は、昭和27年(1952)3月に東京都文京区田町に開店しました。同店は昭和30年4月に新宿区角筈に移転し翌31年12月に閉店しますが、この約5年間、ここには「文学仲間との怒号の議論、客との喧嘩、連日の宿酔、そして執筆」と独特のエネルギーが渦巻いていました。
 本展では、「火の車」時代の心平を、①火の車開店まで、②火の車開店以後、③火の車常連客、さらに④草野心平・宮沢賢治・高村光太郎の食のエピソードの4つにわけて紹介します。

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関連イベント

ギャラリートーク   1 月12 日㈯13 時30 分 要観覧料

居酒屋「火の車」一日開店  期日 3月10日(日)
 草野心平が開いていた居酒屋「火の車」で、心平が命名したお品書きにちなんだ料理を試食します。
 ■寸劇「火の車時代」 11 時30 分〜11 時50 分 常設展示室
 ■「火の車」ランチタイム
   料理人 中野由貴氏、文学館ボランティアの会会員 12 時〜12 時30 分 小講堂 要申込
 ■食卓トーク「心平・賢治・光太郎 ある日の食事」
   講師 中野由貴氏(宮沢賢治学会会員・料理研究家) 13 時〜14 時 小講堂
 ●お申し込み方法 電話、往復はがき、FAX、E-mail のいずれか
 ●定 員 先着50 名(2 月10 日より受付開始)
 ●参加料 500 円(所定の観覧料も必要です)


居酒屋「火の車」は、昭和27年(1952)、心平が小石川に開いた怪しげな居酒屋です。のち、新宿に移転しました。最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、再上京した光太郎もたびたび足を運んでいます。

一昨年には同館で「春の企画展 草野心平の詩 料理編」が開かれ、「火の車」に関する展示も為されましたが、今回は「火の車」をメインとするようです。光太郎にも触れて下さるようで、ありがたいところです。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

嵐の通り過ぎた今となつては、首をきられた人も斬つた人も、みんな何だかなつかしい。君達は本気に苦しんだ。さうしてみんな死んだ、何しろみんな死んでしまつたのだ。どつちが強いも弱いもない。

散文「ルイ十六世所刑の図」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

この年、松屋で開催された中世期版画展の際に購入した、フランス革命を題材にした版画に寄せる文章の一節です。「本気に」人生を送ることの尊さを重んじた光太郎らしい発言です。

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一昨日、北千住のBUoYさんに観劇に行く前、同じ下町の蔵前に立ちよりました。自宅兼事務所、東京都に隣接する千葉県ですが、千葉でも田舎の方なのでしょっちゅう都内に出るわけではなく、都内に出る時には複数の用事をこなさいと気が済みません(笑)。

向かったのは、東京メトロ蔵前駅近くの榧寺(かやでら)さん。

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戦国時代に創建されたという古刹です。

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江戸後期、葛飾北斎の浮世絵にも描かれています。

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光太郎の父・光雲が、幕末から明治初めに徒弟修行をした、高村東雲の工房が近くにありました。そのため、昭和4年(1929)に刊行された、『光雲懐古談』にもしばしば登場します。

黒船町(くろふねちやう)へ来ると、町(まち)が少し下つて二の町となる。村田の本家(烟管屋)がある。また、榧寺(かやでら)という寺がある。境内に茅が植つてゐた。
(「名高かつた店などの印象」)

何(な)にしろ、今度の火事は変な火事で、蔵前(くらまへ)の人々は、家が残つて荷物が焼けました。此は、荷物を駒形の方へ出した為です。急(きふ)に西風に変つた為に蔵前の家々は残りました。丁度、黒船町(くろふねちやう)の御厩河岸(おんまやがし)で火は止まりました。榧寺の塀や門は焼(や)けて本堂は残(のこ)つてゐた。
(「焼け跡の身惨なはなし」)

吾妻橋は一つの関門で、本所(ほんじよ)一圓(えん)の旗本御家人が彰義隊に加勢(かせい)をする恐れがあるので、此所(こゝ)へ官軍(くわんぐん)の一隊が固めてゐたのと、彰義隊の一部(ぶ)が落ちて来た為一寸小ぜり合(あ)ひがある。市中警戒という名で新徴組の隊士が十七八人榧寺に陣取(ぢんと)つてゐる。異様の風体(ふうてい)をしたものが右往左往してゐるといふ有様(ありさま)でした。
(「上野戦争当時のことなど」)

さて、この榧寺さんの境内に、光雲が原型を作った地蔵尊が露座でおわすという情報を得、拝観に伺った次第です。都内や神奈川県内等に、やはり光雲が原型を作った、多くは鋳銅の仏像が安置されている例は多く、これまでも折を見て拝観して廻っておりました。鎌倉長勝寺さん、横浜で増徳院さん、浅草の浅草寺さん、巣鴨は妙行寺さん、南千住に円通寺さん、駒込大圓寺さんなど。

榧寺さんの地蔵尊はこちら。

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「厄除け地蔵」だそうです。とても優しいお顔でした。

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通常、地蔵尊は、右手に錫杖、左手に宝珠というのがお約束です。こちらのお地蔵様、左手は宝珠を約束通りにお持ちですが、右手は徒手です。どうも、元は手にされていた錫杖が無くなってしまっているのではないかと思いました。それとも、元々徒手で、何らかの印を結ばれているのでしょうか。

特に縁起等は記されていませんでしたが、昭和25年(1950)に安置されたとのこと。昭和25年といえば、光雲は既に亡くなっています。

お寺の方にパンフレットを頂き、お話をさせていただきましたが、詳しい経緯は不明でした。また、木彫原型等もこちらには残っていないとのこと。

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境内には他にもお地蔵様が。

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左上は「飴なめ地蔵尊」。永井荷風の小説に登場するそうです。右上は「お初地蔵尊」。大正期の児童虐待事件の被害者を供養するために奉納されたとのこと。

それから、いただいたパンフレットを読んでいて、驚きました。「著名人の墓」という項があり、その中に洋画家の安井曾太郎の名が。光太郎は明治41年(1908)から翌年にかけ、海外留学でパリに滞在していましたが、その際、有島生馬、山下新太郎、津田青楓らとともに、やはりパリにいた留学仲間です。

安井は京都系だった記憶があり(あとで調べてみると確かにそうでした)、こちらに墓があるとは存じませんでした。考えてみれば、故郷に墓があるとは限りませんのであり得る話です。

あいにく香華の持ち合わせがありませんでしたが、光太郎の代参のつもりで手を合わせて参りました。「パリでは大変お世話になりました」と。


他にも、光雲の手になる仏像が露座でましますお寺はいくつかあるようなので、今後も折を見て拝観に廻りたいと存じます。

皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

幾度もう仕上げてしまはうと思つたか知れませんが、その度に何かが私を引き止めて、又その先きの道を歩かせました。私は其の何かに導かれながら年を重ねました。さうしてその歩みは私を駆つていつのまにか彫刻の禁苑らしい処へつれて来ました。私は今ふりかへつてみて、自分がこの胸像をいそいで作り上げてしまはなかつた事に対して自分に感謝します。

散文「成瀬前日本女子大学校長の胸像を作りながら」より
 大正15年(1926) 光太郎44歳

過日も同趣旨の文章から言葉を引きましたが、大正8年(1919)に、智恵子の母校・日本女子大学校に依頼された同校創業者の成瀬仁蔵胸像が、なかなか完成しないことへの釈明の文章から。その長い間にも、自分は進化し続けているので、待ってほしい、という趣旨です。結局、像の完成は昭和8年(1933)でした。

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昨日は、今年初めて都内に出ておりました。

メインの目的は、観劇。北千住のBUoYさんという不思議なスペースが会場でした。

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岸井戯曲を上演するinTokyo#1「かり」」。岸井大輔氏という劇作家の方が書かれた同一の「戯曲」を、3組の方がそれぞれの表現で演じられる、といういわば実験的な試みでした。

ただ、それは「PLAYS and WORKS旗揚&新春企画 あそびとつくりごと1 出版記念の2日間」というイベントの一部、という扱いでした。

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先ほど、「戯曲」と書きました。なぜカギカッコつきで「戯曲」なのかというと、通常の戯曲という概念から離れたものだからです。

通常、戯曲というと、ほぼ台本や脚本、シナリオとイコール、すなわち、ト書きがや役者さん達のセリフが書いてあるものだと思いますが、岸井氏の「戯曲」の概念は、違います。

今回、取り上げられた「かり」という戯曲は、以下の通り。

かり
動物を狩り、植物を苅り、カリという語は、自然から借りるからきている。人生も仮住まいというように、生きているのは、何かから借りた、仮の姿であるので、拝借の借りという言葉が、一時的の仮に使われるようになった。
例えば、演技をするとき、私は私をかりている。では私に私をかしているのは誰か。

これで全文、これだけなのです。

ここから、3人の演者の皆さんが、それぞれにイマジネーションを働かせ、自分なりの「かり」を作り上げ、それを披露されたというわけです。

お一人目、キヨスヨネスクさんという方は、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を延々と読まれました。お三方目、佐藤明子さんという方は、葛の葉伝説などを下敷きにした映像作品でした。

そしてお二人目の、辻村優子さんという方。光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」をモチーフにして下さいました。

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ほぼほぼずっとこのポーズです。基本、セリフは事前に録音されていたものをスピーカーから流す形。ただ、後半、肉声も入りました。

辻村さん、俳優としても各種の舞台などにご出演されているそうですが、本業的には、美術作品のモデルさんだそうで、明治末に智恵子が油絵を学んだ太平洋画会の後身・太平洋美術会さんでもモデルを務められているそうです。

そのモデルさんとしての実体験から、今回の内容を思いつかれたそうで、いわば「モデルあるある」的な(笑)。ある時、大きな彫刻のモデルをなさった折、作家の方が席をはずした際に作品を見てみると、作品の足もとにたくさんの紙切れが……。見ると、すべて某多人数アイドルグループの人気メンバーの写真。彫刻の顔を見上げると、まぎれもなくその方の顔……。というエピソードが挿入されましたが、実話だそうです。

「乙女の像」も、顔は亡き智恵子、ということで、まぁ、それにはそこに至るまでの光太郎智恵子の鮮烈な生の試みや、戦後の彫刻封印と自己流謫(るたく)=自分で自分を流刑に処すること、といった長いドラマがあるのですが、そのあたりは、拙稿も載っております『十和田湖乙女の像のものがたり』をお読み下さい。

終演後、お三方と、司会の方でトークショー。

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ここで、先ほどの岸井氏の「戯曲」の定義、的なお話も出ました。また、やはり辻村さんのモデルとしてのいろいろなお話など、興味深く拝聴しました。

更にその後、辻村さんとお話をさせていただきました。今回、「乙女の像」のポーズをずっとなさってみて、見た目には判らないものの、かなり身体に「ひねり」が入っているというお話を伺い、意外に感じました。「乙女の像」のモチーフの一つが観音像なので、同じ仏像でも、天部や明王などのそれとは違い、まっすぐに立っているというイメージでいたものですから。こういう点は、実際にやってみないとわからないことですね。

さて、今後も、光太郎智恵子の世界、様々な表現者の皆さんが、それぞれの解釈で挑んでいっていただきたいものです。


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批評精神に満つるが故に却つて分せき的でなくて包摂的な、明徹であるが故に逆説と順応との入りまじる、抑へ難い闘志に燃えるが故にあらゆる人と物との価を発見せずにおかない、単純であるが故に内に複雑な結構の生れる、微妙のものを感ずるが故に感傷性に曾て墜ちない、この放縦にしてしゆく然たる彼の目にふれるのはよさう。

散文詩「ある首の幻想」より
 大正14年(1925) 光太郎43歳

粘土の塑像で、詩人、新聞記者だった中野秀人の首を作っている際の様子を記したものです。彫刻は、おそらく昭和20年(1945)の空襲で焼けてしまって、現存が確認できません。

ここでいう「彼」とは、確かにモデルの中野を指すとも考えられますが、どうも光太郎本人のことでもあるような気もします。

結局、あらゆる芸術作品は、モデルなりモチーフなりの姿を「借り」て、自分の内面を「仮」にこうだと表出するものなのでは、などと思いました。

ちなみに光太郎には、同じ年に書かれた「首狩」という詩も存在します。彫刻のモデルにふさわしい「首」をさがすという内容です。

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