高村光太郎連翹忌運営委員会のブログ

4/2は高村光太郎(1883〜1956)の命日、連翹忌(れんぎょうき)です。

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光太郎を巡る人々を取り上げるテレビ番組が相次いで放映されます。 

美の巨人たち ボーグラム『マウント・ラシュモア・ナショナル・メモリアル』

テレビ東京  2017年2月4日(土)  22時00分〜22時30分
BSジャパン 2017年3月1日(水) 23時00分〜23時30分

新大統領の動向に注目が集まるアメリカ。その中西部ラシュモア山に、偉大なる4人の大統領の顔が彫られた巨大彫刻があります。一体どのように彫られたのか?その苦闘の物語。

今回の作品は、アメリカ中西部サウスダコタ州ラシュモア山に彫られた巨大彫刻。4人の大統領の顔が彫られた、壮麗で精密な作品です。そのうちの一人、ワシントンの顔の長さは18m30cm、7階建てのビルとほぼ同じ高さです。作者はアメリカの彫刻家ガッツォン・ボーグラム。53歳の時依頼を受け、驚きの工法で作り上げました。しかしなぜこの4人?なぜこの並び?また、山頂にある謎の小部屋、そこに秘められた思いとは?彫刻家と作業員たちの苦闘の物語、お見逃しなく。

ナレーター 小林薫  蒼井優


毎回一つ(時折複数)の美術作品を取り上げ、その背景や人間ドラマを掘り下げる番組で、平成12年(2000)のスタートですから、もう長寿番組の範囲に入ったといっていいでしょう。

今回取り上げられるのは、アメリカの彫刻家・ボーグラム。たしか、この番組では初めて取り上げられるはずです。番組説明では、「ガッツォン・ボーグラム」となっていますが、フリー百科事典ウィキペディアでは「ガットスン・ボーグラム」で登録されています。また「ガットソン・ボーグラム」と表記する場合もあります。

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ファーストネームのカタカナ表記が定まっていないほど、日本ではなじみの薄い人物ですが、この作品は「ああ、これか」という方が多いのではないでしょうか。

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明治39年(1906)、3年半にわたる欧米留学に出た光太郎、まずはニューヨークに落ち着きます。まずアメリカで経済的にめどを付けるのが、当時の私費留学生の多くが辿った道で、碌山荻原守衛などもそうでした。

光太郎は東京美術学校教授・岩村透が書いてくれた紹介状を手に、彫刻家のヘルモン・アトキンス・マクニールやダニエル・チェスター・フレンチを訪ねますが、皆歓待はしてくれるものの、雇うとは言ってくれません。そこで、メトロポリタン美術館でその作品を見て感心したボーグラムに体当たり的に求職。すると、日給1ドルで助手として採用してくれました。ボーグラムは光太郎以前にも、光太郎の先輩に当たる本保義太郎という彫刻家を雇っていた時期があり、日本人には慣れていたようですし、困っている者を抛っておけない義侠心の持ち主だったようです。

ここで光太郎は実践的な彫刻制作を学びます。木彫は幼少時から父・光雲に叩き込まれてきた光太郎ですが、粘土による塑像制作は、東京美術学校で経験があるものの、教える方のレベルも低く、まだまだ不十分でした。それが、ボーグラムの仕事を目の当たりにし、非常に役に立ったといいます。

しかし、光太郎はボーグラムの彫刻を、それほど高く評価しませんでした。スケジュール通りにこなすビジネスライクな仕事ぶりには失望したと回想していますし、のちに取り組む岩壁の巨大彫刻もキワモノと見ていたようです。

ボーグラムは「美の巨人たち」で今回取り上げられるマウント・ラシュモアの大統領群像(1927〜1941)以前にも、ジョージア州ストーンマウンテンの岩壁に南北戦争の英雄、リー将軍やジャクソン将軍などの巨大レリーフを手がけています。この制作の際には、光太郎やロダンにも声をかけたとのこと。

僕が日本に帰つてから、先生から手紙で、南部のストーン マウンテーンの絶壁の、一マイルも離れた場所から見える一枚岩の平らなところに、南軍のリー将軍だのジヤクソン将軍だのの像を彫るから、手伝いに来いと言つて来た。クレーンのようなものを山の上からつつて、彫る人はそのクレーンから鎖でぶら下る。電気仕掛けののみで、どこを何フイート彫れと下から電話があれば、そこをダダダダダダダとやつて、後それをこなしてゆけば彫れるという仕組である。フランスのロダンにも加勢してくれと頼んだからと、手紙には書いてあつたが、もちろんロダンは直ぐ断つたらしい。僕には、そんなことを考えるアメリカ人というものは不思議な気がした。(「青春の日」 昭和26年=1952)

ところが光太郎、人間的にはボーグラムを敬愛し続けていたようで、大正6年(1917)、ニューヨークでの個展を企画し、そのための資金集めに彫刻頒布の会を立ち上げます。入会者を募り、当時の金額で300円から5,500円の範囲で彫刻の注文を受けるというものです。その趣意書にはボーグラムの名も。

わたくしは彫刻家であります。親ゆづりの彫刻家であります。幼少の比から彫刻の中で育ち、やがて東京美術学校彫刻科卒業後、アメリカに往つて紐育の彫刻家ボーグラム先生の内弟子兼助手となつて働らき、技倆に就てもかなりの信用を得ました。(略)今度の戦争終結後、適当の時に、紐育市で個人展覧会を開かうと言ふ気になりました。ボーグラム先生も喜んでゐてくれます。

「幼少の比」は「幼少の頃」或いは「幼少の日」の誤植ではないかと思われます。「今度の戦争」は第一次世界大戦です。

そして最後に22名の賛同者の名が挙げられていますが、ボーグラムの名も入っています。

ちなみにこの彫刻頒布会は、結局入会者が少なくものにならず、ニューヨークでの個展も幻と終わりました。しかし、これを機に、代表作の「手」、「裸婦坐像」などの秀作が生まれました。

しかし、恩人とはいえ、やはり彫刻家としての評価はあまり高くなかったというのが正直なところのようです。昭和8年(1933)に岩波書店から光太郎の書き下ろしで刊行された、世界の彫刻事情を紹介する『現代の彫刻』には、

アメリカからはまだ然るべき人が出ない。もつと地面から生れた彫刻が欲しい。

という一節があります。


実を言うと当方、ほとんど光太郎の書いたものを通してしかボーグラムという彫刻家を存じません。「美の巨人たち」で勉強しようと思います。

皆様もぜひご覧下さい。


もう1件、光太郎にも触れる宮沢賢治についてのテレビ番組放映もありますが、長くなりましたので明日に廻します。


【折々のことば・光太郎】

僕等はいのちを惜しむ 僕等は休む事をしない 僕等は高く どこまでも高く僕等を押し上げてゆかないではゐられない

詩「僕等」より 大正二年(1913) 光太郎31歳

「僕等」はむろん、光太郎と智恵子です。恋愛が成就し、共に手を携えて芸術の道に精進していこうという高揚感に溢れています。画家として歩み始めていた智恵子も当初はそのように考えていたのでしょうが、しかし、途中で脱落。デッサンやデザインには特異な才能を持っていた智恵子でしたが、油絵の具で彩色する段になると、どうしても自分で納得の行くものが出来ませんでした。それが後の大いなる悲劇の最も大きな要因だったように思われます。

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