高村光太郎連翹忌運営委員会のブログ

4/2は高村光太郎(1883〜1956)の命日、連翹忌(れんぎょうき)です。

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昨日は埼玉県東松山市に行っておりました。現在、市立総合会館において「高田博厚展2018」が開催中です。

光太郎を深く敬愛し、光太郎もその才を認めた高田。光太郎に関わる展示も為されていました。

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昨年、鎌倉にあった高田のアトリエが閉鎖されることとなり、そこにあった品々が、高田と縁の深い東松山市に寄贈され、その寄贈品が展示の中心でした。昨年2月に亡くなった、同市の元教育長・田口弘氏のご遺徳です。

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メインは高田の彫刻群。

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左は光太郎、高田、ともに敬愛し、高田は滞仏中に本人にも会ったロマン・ロラン。右はやはり光太郎、高田共に交流のあった武者小路実篤。

光太郎関連では、前述の田口弘氏所蔵だった「大倉喜八郎の首」(大正15年=1926) 、光太郎令甥の故・高村規氏撮影の光太郎遺影、光太郎から高田宛の献呈署名入り『ロダン』(昭和2年=1927)。

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『ロダン』は、鎌倉の笛ギャラリーさんで先月から今月初めに開催された「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その七」に並んだもの。ギャラリーオーナーで、光太郎の妹・しずの令孫に当たる山端夫妻がたまたま入手されたそうです。東松山市の担当者に、こんなものが並んでいましたよ、とお伝えしたところ、早速拝借したそうで。

鎌倉の高田アトリエの様子的な展示。

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市内の中学生による、高田の彫刻に関しての学習の成果や、高田から諸家宛の書簡なども並んでいました。

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それから、昭和32年(1957)、高田からパリ郊外のアトリエを引き継いだ、画家の野見山暁治氏の作品。

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その野見山氏と、作家の堀江敏幸氏による対談が、午後1時半から開催されました。

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堀江氏は高田の『フランスから』の講談社文芸文庫版の解説を執筆なさっています。主にその堀江氏がインタビュアー的な役割で、野見山氏から高田の思い出を引き出す感じで進みました。

野見山氏、大正9年(1920)12月のお生まれで、もうすぐ満98歳です。まったくそれを感じさせない程、しっかりした口調で(矍鑠、というわけでもなく)、記憶もはっきりされていましたし、何より「人間」高田博厚の様々な側面を、ユーモラスに語って下さいました。

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スクリーンには古写真などもふんだんに映し出され、興味深く拝見。下の画像は野見山氏も加盟されていた「在仏日本美術家協会」のメンバーですが、中央には、明治末の東京美術学校で光太郎の同級生でもあった藤田嗣治も写っています。

当方、来年1月に、今年に引き続き、同市の図書館さんで講演をさせていただくことになっております。今年は前述の故・田口弘氏と光太郎の交流についてでしたが、来年は高田と光太郎について、さらに田口氏もからめてお話しするつもりで居ります。それに向けて、貴重なお話を伺うことができ、非常に有意義でした。

昨日の対談の模様、おそらく追って東松山市さんのHPに動画等がアップされることと思われます。

講演会終了後、別室で、名刺交換会。

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この時になって初めて気づきましたが、野見山氏、何とジーンズ姿でした。失礼ながら、もうじき98歳というお年でジーンズを履きこなされている点に驚きました。

お世話になっている小平市平櫛田中彫刻美術館さんの学芸員・藤井明氏もいらしていました。最近、行った先々でお世話になっている方々に思いがけずお会いするケースが多く、不思議な感覚です。

さて、「高田博厚展2018」、来週末18日(日)までの開催です。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】イメージ 20

竹内勝太郎はおそらく日本で詩を構成したと言ひ得る最も大きな詩人であらう。言葉の機能を素材として、ヴアレリの謂ふ意味に於ける詩の能力量の極限にまでこれを発力せしめるための構成を組織しようとして歩々透脱、つひに晩年の生成的渾沌を含む超数学的詩法を創造するに至つたものと思はれる。

散文「竹内勝太郎遺稿詩集「春の犠牲」後記」より 
昭和16年(1941) 光太郎59歳

竹内勝太郎は、明治27年(1894)生まれの詩人。滞仏経験があり、彼の地でポール・ヴァレリーに傾倒、その影響を受けて日本に於ける象徴詩を確立したと評されています。

昭和10年(1935)、転落事故で死亡。弟子筋に当たる富士正晴の尽力で、『春の犠牲』が刊行されました。光太郎はその題字2種(表紙、扉)と後記に筆を振るいました。

光太郎にしても、高田博厚にしても、野見山暁治氏にしてもそうですが、かつてはフランスの影響というのが実に多大でした。

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