高村光太郎連翹忌運営委員会のブログ

4/2は高村光太郎(1883〜1956)の命日、連翹忌(れんぎょうき)です。

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新聞各紙から。

まず『朝日新聞』さん。5月に亡くなった彫刻家・豊福知徳氏の追悼記事です。 

(惜別)豊福知徳さん 彫刻家 楕円の穴に見いだイメージ 1した抽象世界 5月18日死去(老衰) 94歳

 楕円(だえん)形の穴がいくつも開いた独特な造形――。シンプルだが一見しただけで豊福さんの作品とわかるほど強烈な個性があった。剣道や居合道を愛した好男子は、西洋の近代彫刻に東洋の精神性を融合させた深遠な表現をひたむきに探求し続けた。
 国学院大学在学中の1944年、飛行兵に志願。終戦後、故郷の和尚の紹介で、福岡・太宰府にいた木彫家の冨永朝堂(ちょうどう)に弟子入りし、木彫の腕を磨いた。
 59年に「漂流’58」で高村光太郎賞を受けたのが転機になった。翌年のベネチア・ビエンナーレに選ばれ、展覧会を見に行くつもりがそのまま滞在し、イタリアのミラノに居を構えて約45年にわたり創作を続けた。
 新たな抽象表現のアンフォルメル(不定形)運動などに刺激され、それまでの具象を卒業して自分の抽象世界を作りたいともがく日々。苦悩の末につかんだのが終生のテーマとなる、木板に穴をうがつ表現だった。
 回顧録には「板の表裏からくぼみをつけたら偶然穴が開いた」とあったが、滞欧時代を知る美術評論家で多摩美術大学長の建畠晢(たてはたあきら)さん(71)は「木塊に穴という空間をうがつ表現がむしろ作品の存在感を際立たせ、強靱(きょうじん)な造形に昇華させることに気づいたからだろう」と話す。
 無数の穴が織りなすリズムに魅了され、平面から立体まで素材を変えて創作を重ねた。作品に哀感や叙情性が感じられるのは「死を覚悟した戦争体験が創作の原点にあったからではないか」と、元福岡アジア美術館長の安永幸一さん(80)は語る。
 福岡市の博多港にある引き揚げ記念碑「那(な)の津(つ)往還」(96年)は、船上に人が立つ姿をイメージした集大成の大作だ。凜(りん)としたモニュメントは、特攻隊の一員として死の影を踏んだ自分と、命からがら引き揚げてきた人々が敗戦の辛苦を乗り越え、再び大海へこぎ出す希望の象徴に見える。(安斎耕一)

10年間限定で実施された高村光太郎賞、大きな意義があったことが再確認されます。


続いて『産経新聞』さん神奈川版。 

【書と歩んで】(3)中国大使館文化部賞・梅山翠イメージ 2球さん 無心に生きる思い込め

「ここまで続けてきてよかった」。梅山翠球さん(71)は受賞の喜びを、こう笑顔で語った。「にはち」と呼ばれる書道紙(約60センチ×240センチ)に書き上げたのは、近現代の日本を代表する詩人、高村光太郎(1883〜1956年)の「冬の言葉」。厳しい冬の情景に人生の苦難や苦悩を重ね合わせ、それらを乗り越えていくことの意義深さをつづった。
 出身の新潟県五泉市は、冬の寒さが厳しい土地だったという。「冬の言葉」には、「冬は凩(こがらし)のラッパを吹いて宣言する 人間手製の価値をすてよと」との一節がある。
 日本海側の冬は、いつ晴れるとも知れぬ鉛色の雲が空を覆い、身を切るような風が吹きすさぶ。書き上げた「冬の言葉」には、そうした自分自身の冬のイメージも投影されているという。「人によって色々な解釈ができる詩だが、自分は『人生は厳しいけれども、自然のように無心に生きなければ』という思いを込めた」と振り返る。
                 × × × 
 筆とすずりで脳裏をよぎるのは、幼少のときの記憶だ。昔ながらの茶の間で、母が小筆を使って手紙などをしたためていた姿が、今でも印象に残っている。
 本格的に書道を始めたのは、長女が小学校に入学したころ。学校の保護者会で、書家の永島南翠氏(全日本新芸書道会常任理事、21世紀国際書会専管理事)と知り合ったことが、きっかけだった。永島氏が書く字の美しさに魅せられ、「ぜひ自分にも書道を教えてほしい」と頼み込み、長女と一緒に教室に通った。
 ときにはまだ小さい次女の育児や家事などに追われ、書道を続けるか悩んだこともあった。だが、永島氏のアドバイスもあり、子供が昼寝をしているときなどの僅かな時間を利用して、根気よく勉強を続けたという。「1枚でも2枚でもいいから、書くことができればと思って頑張りました。その経験があったからこそ、書道を長く続けることができたと思います」
                 × × × 
 30年以上続けてきた書道で、自身が「本当に衝撃的だった」という体験は、食器洗いなどに使われるスポンジで字を書いたときだったという。生き生きとした躍動感を出すため、線によってスポンジの角や面などを使い分け、墨の濃淡も工夫。バケツいっぱいの墨にスポンジを浸し、大きな紙にしたためたのは「動」の一字だった。筆とはまたひと味違った、迫力のある仕上がりとなった。
 「自分が表現したいと思えば、どんなことでも表現できると分かり、書いているときが楽しかった。表現の転換点にもなったと思う」と、目を輝かせながら当時の感動を語った。
 現在は小中学生を中心として、十数人の生徒に書道を教えている。良い字を書く上で欠かせない要素は、書き手がもっている「個性」。「きれいでなくてもいいから、人に何かを伝えることができるような字を書きなさい」と、生徒たちにも指導している。「書いているときに自分自身が楽しいと感じられることイメージ 3が、一番大切なことだと思います」。ほほ笑みながら、書の魅力を語った。  (太田泰)
                   ◇
【プロフィル】うめやま・すいきゅう
 昭和22年8月、新潟県五泉市生まれ。全日本新芸書道会教務理事、21世紀国際書会審査会員。趣味は染紙作りなど。


受賞云々は、同社主催の公募展「第34回21世紀国際書展」。光太郎詩「冬の言葉」(昭和3年=1928)から詩句を選んで、中国大使館文化部賞を獲得されたそうです。

期日は7月10〜14日、横浜市民ギャラリー(横浜市西区宮崎町26の1)で開催。入場無料で午前10時から午後6時(最終日は4時)までとのこと。

昨年ですと、第38回日本教育書道藝術院同人書作展第40回東京書作展などで、やはり光太郎の詩句を書かれて上位入選された方々がいらっしゃいます(調べればもっとあるのでしょうが、ネットでの検索に引っかかるのは一部だと思われます)。書家の方々、今後も光太郎作品を取り上げていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

一、山は重に低山を所々歩きましたが、大正二年夏期二箇月間上高地に滞在して山嶽写生に暮した日夜の詳細な記憶がいまだに昨日の如くあざやかです。其処ではじめて妻の智恵子と婚約をしました。
二、自然と人間との交錯に小生は最大の喜を感じます。自然のみの自然は無慈悲で物凄い絶対力です。

アンケート「印象の山々」全文 昭和10年(1935) 光太郎53歳

設問一は「山の名」、二は「その印象」。このアンケートで初めて智恵子との婚約が上高地だったことが公にされました。その智恵子はこの年2月から、終焉の地となった南品川ゼームス坂病院に入院しています。

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