高村光太郎連翹忌運営委員会のブログ

4/2は高村光太郎(1883〜1956)の命日、連翹忌(れんぎょうき)です。

全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全515ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

豊福知徳氏訃報。

予定では、智恵子の故郷、福島二本松に聳え、智恵子が「ほんとの空」があると言ったという安達太良山の山開きの件をレポートするつもりで居ましたが、急遽、訃報が入りましたのでそちらをご紹介します。 

彫刻家の豊福知徳さんが死去 楕円の穴特徴

 楕円形の穴を幾つも開けた抽象的な作品で知られる彫刻家の豊福知徳(とよふく・とものり)さんが18日午後11時57分、福岡市の病院で死去した。94歳。福岡県出身。葬儀・告別式は近親者で行う。後日、お別れの会を開く予定。喪主は長女夏子(なつこ)さん。
 国学院大在学中に旧日本陸軍に志願し、終戦後は復学せず、彫刻家の冨永朝堂氏の下で木彫を学んだ。1959年に高村光太郎賞を受賞。60年にイタリアのミラノに拠点を移し40年以上活動した。2003年に帰国後は日本とイタリアを行き来しながら創作を続けた。
(共同通信) 

世界的彫刻家の豊福知徳さん死去 「那の津往還」などイメージ 1

 世界的な彫刻家の豊福知徳(とよふく・とものり)さんが18日、福岡市内の病院で死去した。94歳だった。葬儀は近親者で行う。喪主は長女夏子さん。後日、お別れの会を開く。
 福岡県久留米市出身。59年に高村光太郎賞を受賞し、60年のベネチア・ビエンナーレ出品を機にイタリアへ移住。ミラノにアトリエを構え、40年以上にわたり現地で制作を続けた。楕円(だえん)形の穴をいくつも開けた独特な造形作品で知られ、ローマ国立近代美術館や東京国立近代美術館など、国内外の美術館に作品が所蔵されている。
 福岡市の博多港引揚(ひきあげ)記念碑「那の津往還」などの作品も手がけ、昨年には福岡市早良区百道浜に専門ギャラリーが開設された。
(朝日新聞)


昭和34年(1959)、木彫「漂流」により、第2回高村光太郎賞を受賞した彫刻家の豊福知徳氏の訃報です。ここに挙げた以外の各紙の報道でも、「高村光太郎賞受賞」が氏の経歴に必ずと言っていいほど記載されていました。

「高村光太郎賞」は、筑摩書房さんの第一次『高村光太郎全集』が完結した昭和33年(1958)から、その印税を光太郎の業績を記念する適当な事業に充てたいという、光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった眤舎周の希望で、10年間限定で実施されました。造形と詩二部門で、歴代受賞者には、造形が柳原義達、佐藤忠良、舟越保武、黒川紀章、建畠覚造、そして豊福氏など、詩では会田綱雄、草野天平、山之口獏、田中冬二、田村隆一ら、錚々たる顔ぶれ。審査員は高田博厚、今泉篤男、谷口吉郎、土方定一、本郷新、菊池一雄、草野心平、尾崎喜八、金子光晴、伊藤信吉、亀井勝一郎など、これまた多士済々でした。

当初から10回限定と決め、昭和42年(1967)で終了。同44年(1969)には、求龍堂さんから大判厚冊の『高村光太郎賞記念作品集 天極をさす』が刊行されました。歴代受賞者や審査員の作品等を紹介し、さらに高村光太郎賞の開始の経緯、年譜などが掲載されています。

そちらに載った豊福氏の彫刻が右画像です。イメージ 2

そして氏の言葉。

受賞作「漂流」は、私にとって殊に思い出深い作品であった。それは受賞作ということからではなく、その頃の自分の仕事の一くぎりを為した作品であったと思うからである。
処でこの重要なるべき作品の記録が手元にない。作品の所有者や所在地に加えて写真すらもないというのは私の不精のせいで、一九六〇年のヴェニス・ビエンナーレに出品して、そのままあるイタリアのコレクショナーに買取られたまではわかっているが、その後の消息は一切不明である。
この作品は受賞作ではなく、その頃しきりに制作していた漂流シリーズの中の一点である。

1950年代後半というと、ヘンリ・ムーアなどの影響もあって、彫刻の世界にも抽象がかなり入り込んできていましたが、この頃の氏の作風は完全な抽象でもなく、さりとて具象とも言えず、双方の良いところをバランスよく取り入れているように感じます。

当時の連翹忌は、高村光太郎賞の授賞式も兼ねていましたので、豊福氏、受賞された昭和34年(1959)と翌年の連翹忌に参加なさっています。受賞の年には豊福和子さんというお名前も参加名簿に残っており、おそらくご夫人なのでしょう。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

とにかく日本人の趣味、教養はいま実におくれている。四等国以下、野蛮人といつてよい。敗戦の混乱で日本人の正体が分つたわけで、実に徳川時代そのままなんだ。こうしたひどい状態で全然絶望かといえばそうでないとやはり考えたい。

談話筆記「ラジオと私」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

敗戦の傷跡がまだ色濃く残っていたこの頃を憂えての発言です。光太郎が亡くなった昭和31年(1956)には「もはや戦後ではない」と言われ、文化的な部分でも新しいものがどんどん出てくるようになりました。豊福氏などもそうした新時代の旗手だったわけで……。重ねて謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

今日、5月20日は智恵子の誕生日です。明治19年(1886)生まれですから、満で133年ということになります。

そんなこんなで、一昨日、昨日と1泊で智恵子の故郷、福島二本松に行っておりました。2回に分けてレポートいたします。

5月18日(土)、まずは智恵子生家/智恵子記念館さんに。生誕祭ということで、のぼりや立て看。

イメージ 1イメージ 2






























イメージ 3

智恵子の居室を含む2階部分の公開期間は終わっていましたが、地元の上川崎和紙を使った紙絵制作体験が行われていました。

イメージ 4イメージ 5















物販コーナーも。

イメージ 6

こちらは智恵子クイズだそうで(笑)。

イメージ 7

生家裏手の記念館さんでは、智恵子紙絵の実物公開期間。10点の実物が出ていました。実物を見るたびいつも思うのですが、複製ではなかなか感じられない、ほんの僅かながら紙が重なっていることによって生じる立体感が見て取れ、感心しました。

その後、徒歩数分の鉄扇屋さんへ。築140年という蔵があり、生誕133年の智恵子も、この前を通って小学校に通っていたと思われます。

イメージ 8
イメージ 12












イメージ 11












こちらがサウンドシステムのスタジオ的になイメージ 9っており、こちらでシャンソン系歌手・モンデンモモさんと舞踊家の増田真也さんのコラボによるコンサート「モモの智恵子抄」が開催されました。光太郎詩にオリジナルの曲を付けて歌われているモモさん、この蔵でのコンサートは3回目くらいでしょうか。昨年も行われましたが急な話だったので当方は欠礼、平成27年(2015)以来でした。

モモさんと増田さん、東北各地を廻られてコンサートや病院の慰問講演等を開催されたとうです。5月15日(水)には花巻郊外旧太田村スポーツキャンプむらでの第62回高村祭でも。ただ、その際は増田さんは出演されず、モモさんのみでした。

増田さんは今年の連翹忌にもいらして下さり、そして花巻高村祭でもお会いしたのですが、そのダンスを拝見したことがなかったので、それが楽しみでした。モモさんとはもう20年来のおつきあいになりますが(笑)。

午後4時開演。光太郎智恵子の軌跡をほぼ年代順に追う構成で、トータル1時間半近いステージでした。伴奏は鉄扇屋さんで販売しているスピーカーを通し、打ち込み系DTM。

イメージ 10

イメージ 13
イメージ 14












イメージ 15












イメージ 16イメージ 17






























イメージ 21

会場が狭いということもあったからでしょうか、増田さん、ダンスといいつつ激しい動きはほとんど無く、モモさんともども、折り紙をいろいろなモチーフとしての幻想的な世界を演出。折り紙が時に花となり、雪となり、千鳥が智恵子にねだる貝殻となり、智恵子の紙絵となり、トパアズ色のレモンの香気となり……。

イメージ 18イメージ 19






























光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」的な。

イメージ 20

なかなかに面白いステージでした。

今後、やはり光太郎智恵子ゆかりの場所でやりたいということですので、期待したいと思います。

この後、当方は智恵子の愛した「ほんとの空」の広がるる安達太良山中腹の岳温泉さんに宿泊。昨日は山開きで登って参りました。以下、明日。


【折々のことば・光太郎】

一体では出せない或る雰囲気がこの二イメージ 22体の四肢胴体の交錯で出るわけなのだ。彫刻全体の面(めん)から起る明暗の処理、彫刻体量の比例の按排、構造上の煩簡の分布、離れた二体の造形的連絡、雰囲気醸成の基となる対向と親和とのかね合ひ、一切がこの組合せから来る。

散文「工房にて」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

「乙女の像」の小型試作2体を石膏取りしてもらい、その2体の組み合わせ方をいろいろ試行錯誤している際のことです。ちなみに石膏に取ってくれた職人は、光太郎と交流のあった道具鍛冶・千代鶴是秀の娘婿・牛越誠夫でした。

右はこの頃書かれた、「乙女の像」構想スケッチ。反故になった原稿用紙の裏に書かれたものです。わずかな前のめりのポーズで二体を向き合わせ、全体で三角形の円錐空間を作る意図が見て取れます。

下の画像はもう少し後、中型試作(左)も石膏取りし、本体(右)の制作も進んでいる頃のものです。

イメージ 23

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

安達太良山頂なう。

昨日から智恵子の故郷、福島二本松に来ております。昨日は智恵子生家・智恵子記念館にほどちかい鉄扇屋さんの蔵で、シャンソン系歌手モンデンモモさんのコンサートを拝聴。岳温泉さんに宿泊しました。

今日は安達太良山の山開きということで、登って参りました。

イメージ 1

けっこうガスっていて分かりにくいと思いますが、山頂です。

このブログ最高地点、標高1,700メートル付近での投稿です(笑)。

このあと下山して千葉の自宅兼事務所に帰ります。

詳しくは帰りましてから。

開く コメント(4)[NEW]

開く トラックバック(0)

5月15日(水)、第62回高村祭に出席のため、光太郎第二の故郷ともいうべき花巻郊外旧太田村に行って参りまして、ついでというと何ですが、高村光太郎記念館さんの別館的な森のギャラリーで開催中の「美しきものみつ―光太郎と智恵子の息吹―」を拝見して参りました。

まずは5月14日(火)、記念館さんの職員の方にご案内いただき拝見、さらに翌日、高村祭に出演なさったシャンソン系歌手・モンデンモモさんと舞踊家の増田真也さんをご案内。

イメージ 1
イメージ 2















森のギャラリーは、昭和41年(1966)竣工の旧高村記念館です。現・高村光太郎記念館さんの方で展示しきれない収蔵品や、地元の方々の作品等の展示、時にはワークショップ的な活動、市民講座等でも活用されています。

で、現在は地元ご在住、多田民雄氏のポスター作品、安部勝衛氏の陶芸・書作品の展示がメインです。看板的な書も安部氏が揮毫。

「美しきものみつ」というのは、光太郎が好んで揮毫した短句。「この世界には美しいものが満ちている」的なニュアンスです。「み」を変体仮名的にカタカナの「ミ」とした揮毫もあり、それを漢字の「三」と誤読、「美しきもの三つ」と勘違いし、「三つのうちの一つは○○、次は××……」と、むちゃくちゃな解釈がされる場合があり困っているのですが……。

多田氏のポスター作品。最近の作品なのですがレトロ感が溢れています。

イメージ 3

イメージ 4

展示作品を元にしたポストカードも作成されていました。記念館さんで販売中です。

イメージ 5イメージ 6

























モチーフは、戦後の7年間を光太郎が過ごした山小屋(高村山荘)です。正確に言うと、その套屋(カバーの建物)で、農家の納屋風のこの建物の中に、光太郎の山小屋が保存されています。イメージとしては中尊寺金色堂のような保存法です。

安部氏の書。下の方には陶芸作品も。

イメージ 7イメージ 8















光太郎の詩句等から言葉を選んで書いて下さっていイメージ 9ます。


過日、その存在が報道された、光太郎遺品のホームスパン毛布。世界的に有名なイギリスの染織家エセル・メレ(1872〜1952)の作と確認された逸品。ただし現物ではなく、画像をロール紙にプリントアウトしたものです。目に入った瞬間は本物かと見まがいましたが。

以前にも書きましたが、大正末か昭和初め、メレの作品展が日本で開催された際、智恵子にせがまれで購入したと、この地でホームスパン制作に従事していた女性が光太郎から聴いたとのことです。

昭和20年(1945)、東京(4月13日)と花巻(8月10日)で2回の空襲に遭った光太郎ですが、この毛布、奇跡的にその難を回避しました。

ちなみに下の方は、記念館スタッフの方のご自宅にあったという糸車と糸。直接光太郎に関わるものではありませんが、このあたりでこうしたものが使われていたということでの展示です。

来年度あたり、記念館さんの方で、こちらにまつわる企画展示を行うという計画が進行しているようです。ぜひ実現してほしいものです。

記念館さんの企画展といえば、昨年開催された「光太郎と花巻電鉄」の際に、品川在住のジオラマ作家・石井彰英氏に制作していただいた、昭和20年代花巻町とその周辺のジオラマ。現在も記念館さんで展示中です。

イメージ 10

モンデンモモさんと増田真也さんをご案内して登った智恵子展望台。山荘裏手です。ここから光太郎が夜な夜な「チエコー」と叫んでいたという伝説が残っています。

イメージ 11

いちめんの新緑と、赤いのはツツジ。「山青くして花然(も)えんと欲す」ですね。この日はあいにくの雨模様でしたが、晴れた日には抜群の展望でしょう。


森のギャラリーでの「美しきものみつ―光太郎と智恵子の息吹―」は、5月26日(日)までの開催です。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

あれは智恵子といふ純真な女性に接したいろいろな時期にまつたく唯夢中で書いたもので、それを愛の精神とおよみ下すつた事をありがたく思ひます。ほんとに高い愛といふものこそ此の厳しい人生に真に人間を人間たらしめるものでございませう。
ラジオ放送「たのしい手紙」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

文京区在住だった松林忠という人物(詳細が不明です)からの書簡に対しての返信が、おそらくそのままラジオで放送されまして、その一節です。

「あれ」は『智恵子抄』。光太郎自身、智恵子に対する愛情がそうだったとは書いていませんし、光太郎が実践できていたかもあやしいのですが、「ほんとに高い愛」……言い換えれば「無私の愛」とでもいうことになるのでしょうか。

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

第62回高村祭報道。

5月15日(水)、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻郊外旧太田村で開催されました第62回高村祭。今日は高村祭自体ではなく高村光太郎記念館さんなどの状況をレポートしようと思っておりましたが、ありがたいことに地元メディア各社さんで高村祭の模様を取り上げて下さっていますので、そちらをご紹介します。

まず、地元紙『岩手日日』さん。 

芸術家の生涯思いはせ 「雪白く積めり」朗読 花巻、高村祭 光太郎遺徳しのぶ

詩人で彫刻家の高村光太郎(1883〜1956年)をしのぶ高村祭は15日、花巻市太田のスポーツキャンプむら屋内運動場で開かれた。光太郎の詩の朗読や合唱、講演などが行われ、来場した市民らが花巻に大きな足跡を残した芸術家の生涯に思いをはせた。

花巻高村光太郎記念会(大島俊克会長)と高村記念会山口支部(照井康徳支部長)が主催。戦禍を逃れて光太郎が花巻に疎開してきた1945(昭和20)年5月15日を記念して58年から開かれており、今年で62回目。雨天のため高村山荘碑詩前広場から屋内に変更して開催され、市内外から約500人が参加した。

光太郎の写真が飾られた祭壇に、太田小学校年の照井彩笑さん、照井莉心さんが花を手向け、花巻東高茶道部による献茶で開会。西南中学校の1年生が先導し、高村山荘の碑詩に刻まれた「雪白く積めり」の詩を参加者全員で朗読した。

大島会長と藤原忠雅副市長のあいさつに続き、太田小2年生17人が「かっこう」の器楽演奏、詩「案内」を朗読。児童たちは光太郎が詩人草野心平と共に作詞を指導した「旧山口小学校校歌」も歌って会場を和ませた。

西南中の1年生48人は、光太郎の「心はいつも あたらしく 日々何かしら 見いだそう」の言葉が盛り込まれた同校精神歌を合唱。花巻南高3年の三浦莉奈さんが「岩手山の肩」 、同じく横田遥奈さんが「激動するもの」の朗読に続き、花巻高等看護専門学校の1年生40人が「最低にして最高の道」「リンゴの詩」「花巻の四季」を会場に響かせた。

45年8月10日の花巻空襲で、身をていして負傷者を救護した医師や看護師に光太郎が贈った詩「非常の時」を朗読した同専門学校1年の佐々木優花さんは「花巻空襲時に働いていた人たちへの尊敬の思いを込めて朗読した。私も患者に寄り添うことができる看護師になりたい」と話していた。

発表後は、総合花巻病院の後藤勝也院長が「高村光太郎と花巻病院」と題して講演した。

イメージ 1


続いて、NHKさんのローカルニュース。 

光太郎しのぶ「高村祭」

詩人で彫刻家の高村光太郎が、戦中から戦後にかけて7年間を過ごした花巻市で、15日光太郎をしのぶ催しが開かれました。

イメージ 2イメージ 3









高村光太郎は、昭和20年4月、62歳の時に空襲で東京のアトリエが焼け、宮沢賢治の弟、清六を頼って花巻に疎開して、69歳までの7年間を過ごしました。
花巻市では、光太郎が疎開してきた5月15日に合わせて毎年「高村祭」が開かれていて、ことしで62回目になります。
光太郎が暮らした山荘近くの施設には地元の人や光太郎のファンなどおよそ500人が集まり、花を供えたあと、光太郎が疎開したときに作った詩、「雪白く積めり」などを朗読したり歌を歌ったりしました。

イメージ 4イメージ 5









昭和20年の花巻空襲を詠んだ「非常の時」の詩を朗読した、花巻高等看護専門学校1年の佐々木優花さんは、「戦争を知らない世代なのでこの詩を読んで戦争の恐さを感じた。人は強い時も弱い時もあるが、もしもの時には強い心で向かっていきたい」と話していました。
また昭和25年、中学3年生の時に山荘で光太郎と話したという83歳の女性は、「友達と連絡もしないで山荘に行くと光太郎先生に声をかけられ、父親の光雲さんや妻・智恵子さんの話を聞きました。次元が高くすごい人だなと感じました」と話していました。

イメージ 6イメージ 7











さらに、岩手めんこいテレビさん。 

高村光太郎しのび「高村祭」 ゆかりの花巻市で

花巻ゆかりの芸術家に思いをはせました。
詩集「智恵子抄」などで知られる、詩人で彫刻家の高村光太郎をしのぶ「高村祭」が、15日、花巻市で開かれました。
高村光太郎は、1945年の15日、花巻市に疎開し、太田地区で7年を過ごしました。
「高村祭」は今年で62回目を迎え、県内外からおよそ500人が集まりました。
式では、地元の児童や生徒たちが、光太郎ゆかりの歌や詩の朗読などを披露しました。


イメージ 8イメージ 9










岩手山の肩
「岩手山があるかぎり、南部人種は腐れない。新年はチャンスだ、あの山のやうに君らはも一度天地に立て」
花巻南高校 3年・三浦莉奈さんは、「地域の人たちにも、高村光太郎先生の詩はすてきなものだと、自分の口で伝えていきたい」と話しました。


イメージ 10イメージ 11










また、サンタクロースの光太郎と記念撮影をした、当時の小学生にも話を聞きました。
高村光太郎と記念撮影した高橋征一さん(76)は、「毎日、正直で、みんなといっしょに仲良く暮らしてください(と言われ)、『正直親切』という言葉が、一番記憶に残っている」と話しました。
参加した人たちは、花巻を愛した芸術家・高村光太郎に思いをはせていました。


イメージ 12イメージ 13











高村祭、毎年5月15日です。まだ行かれたことのない方、来年以降、ぜひよろしくお願いいたします。


【折々のことば・光太郎】

山口部落で畑をいぢつてばかりゐた八年間のブランクがブランクになつてゐなかつた事を知つた。マイナスであるべきものがむしろプラスになつてゐるのを知つた。恐らく人間の潜在意識といふものが内で造型意識を眠らせずにゐたものと思へるし、頭の中にたまつてゐたものが今堰を切つて流れはじめたやうな感じである。
散文「制作現況」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した直後の文章です。高村祭が開催される旧太田村での生活(正確には丸7年ですが、それ以前に旧花巻町の宮沢家、佐藤家などで過ごした半年間を含めれば、足かけ8年です)が、彫刻制作の上でも決してマイナスに作用していないとの発言。多分に強がり的な要素や、発表された文章を目にするであろう花巻や太田村の人々に対する配慮などもあるのでしょうが、作りたい彫刻を作りたいように作れる喜びは、実際、ブランクを埋めて余りあるものだったと思われます。

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

全515ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事