高村光太郎連翹忌運営委員会のブログ

4/2は高村光太郎(1883〜1956)の命日、連翹忌(れんぎょうき)です。

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先週のテレビ朝日さん系列のニュースから。 

災害の教訓活かせ! 13年ぶり「地図記号」で減災へ

 どこにどんな施設があるかなどを地図上に示す「地図記号」。現在、130種類以上もあるが、今回、13年ぶりに新たな地図記号が制定された。そのきっかけとなったのは1年前のあの災害だった。
 地図記号を定める国土地理院はなぜ新たな記号を誕生させたのか。自然災害伝承碑。過去に起きた地震や津波など自然災害の教訓を後世に伝えるためのものだ。
 1年前、300人近くが亡くなった西日本豪雨。被害の大きかった広島県坂町には約100年前の水害を伝える石碑があったのだが、存在を知らない住民も多かったという。ウェブ上にはすでに180基以上の情報が載っている。
 9月からは紙の地図にも順次、反映していくといい、その数も増えていく見込みだ。なかには、宮城県女川町のいのちの石碑。東日本大震災の教訓を伝えようと当時、小学生だった地元の有志が町内に設置した。この石碑も記号となり、今後、地図に掲載されていく予定だ。

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そして、昭和6年(1931)に紀行文執筆のため光太郎が訪れ、それを記念して光太郎文学碑を建立、さらに毎年女川光太郎祭を開催して下さっている宮城県女川町に建てられ続けている、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」。

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実際に国土地理院さんの当該ページを覗いてみました。

残念ながら、女川町に関してはまだ情報が登録されていませんでしたが、隣接する石巻市の部分では既にアップされています。

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昭和8年(1933)の昭和三陸大津波、そして平成23年(2011)の東日本大震災。

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まさしく「温故知新」。大切なことだと思います。


【折々のことば・光太郎】

芸術の郷土性と世界性との関係には実に汲めどもつきぬ妙味があります。

雑纂「岩手県立美術工芸学校第一回卒業式祝辞」より
昭和26年(1951) 光太郎69歳

生粋のパリジャンだったロダンに対し、フランス南部モントーバンの出身であるブールデルを引き合いに出し、ロダンの都会芸術とは別種の風を吹き込んだことを紹介してからの流れです。

昨日のこの項で紹介した、同じ岩手県立美術工芸学校の開校式祝辞(昭和23年=1948)では、岩手に新渡戸稲造や石川啄木、宮沢賢治などの稀有な才能が排出したことにもふれています。

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十和田湖ウオーク2019。

昨日は「第54回十和田湖湖水まつり」の模様をお伝えしましたが、同じく十和田湖でのイベントです。 

十和田湖ウオーク2019

期    日  : 2019年7月21日(日
会    場 : スタート・ゴール 十和田湖ウォーク特設会場 青森県十和田市奥瀬十和田湖畔休屋486
時    間 : 1周コース(約50㎞) 集合5:30 開会式5:40 スタート6:00
          ファミリーコース(約12㎞) 集合9:50 開会式10:00
料    金 : 大人3,000円  中高生2,000円  小学生1,500円  小学生未満無料

十和田湖の湖畔1周(約50キロ)を踏破するイベント。湖畔の観光名所・休屋を発着点として起伏の多い約50キロに挑む一周コースと、遊覧船で湖上からの景観を楽しんだ後、子ノ口−休屋の約12キロを歩くファミリーコースを実施する。

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ぐるっと十和田湖を1周する「1周コース」(約50キロイメージ 3メートル)、休屋地区から遊覧船で奥入瀬渓流の入り口である子の口まで行き、そこから休屋地区に戻る約12キロメートルの「ファミリーコース」の2本立てだそうです。

1周、ファミリー両コースとも、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ、湖畔休屋地区の特設会場からスタート。ゴール地点も同じ。

これまでもこのイベントは開催されていました(ちなみに昨年は2コースで1,000人以上が参加したそうです)が、光太郎との絡みは無いだろうと思い、紹介せずにいました。しかし今年、フライヤーに「乙女の像」が描かれているのを見て、紹介せねば、と思った次第です(笑)。

ただ、おそらく像のかなり手前にある、冬場に「十和田湖冬物語」会場として使われる広場がスタート/ゴール地点なのでしょう。

参加申し込みは終わっているようですが、こういうイベントもあるんだということで。ことによるとキャンセル等で空きがあるかもしれませんし。

同じく光太郎ゆかりの地・花巻でも、来月「第22回 いわて花巻 イーハトーブの里ツーデーマーチ」が行われます。また近くなりましたらご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

一般に岩手県といふと地方の中の地方、田舎の中の田舎のやうに都会の人は考へてゐるやうですが、どういたしまして、その岩手県は美の宝庫のやうなところであると小生は考へてゐます。天然自然に於いてもさう。民衆文化の集積に於てもさう。又現にこの県民一般の美に対する感受性と美に於ける創造性とを考へても、さう思はずにゐられません。

雑纂「岩手県立盛岡美術工芸学校開校式祝辞」より
昭和23年(1948) 光太郎66歳

県立美術工芸学校は、現・岩手大学教育学部芸術文化課程造形コースさんです。そこで、多分にリップサービスも入っているような気がしますが、かけていた期待の大きさはこういうものでした。

開校当初の校長は森口多里、教授陣には深沢省三・紅子夫妻、舟越保武、堀江赳などがいました。

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過日開催された「第54回十和田湖湖水まつり」の模様が報道されていますのでご紹介します。

まず、青森の地方紙『東奥日報』さん。 

十和田湖湖水まつり14日まで/カヌー体験はデートにぴったり?/夜は迫力打ち上げ花火

 十和田湖に夏の訪れを告げる「十和田湖湖水まつり」が13日、青森県十和田市の休屋地区で開幕した。好天に恵まれた初日、観光客が湖畔を巡るツアーやカヌー体験などを満喫。夜は湖上から打ち上げられた花火を楽しんだ。まつりは14日まで。
 汗ばむ陽気になった初日、十和田湖に伝わる物語を聞きガイドと歩く「夏さんぽ」や、占い場を巡るツアー「占い場クルーズ」、十和田ビジターセンターでのクラフト体験、カヌー体験と多彩な催しが繰り広げられた。約1時間、カヌー体験をした東京都の実躍華(じつやくか)ちゃん(4)は「楽しかった。疲れなかったよ」と話した。夏さんぽでは、十和田奥入瀬観光機構の山下晃平さんが、湖に伝わる話を説明しながら十和田神社や乙女の像などのポイントを巡り散策した。
 午後6時から乙女の像がライトアップされ、会場の雰囲気を演出。花火観覧船4隻が運航され、同8時から船上からの打ち上げ花火を楽しんだ。今年は大曲花火大会などで活躍する秋田県大仙市の花火職人が手掛けた大迫力の大輪が湖面を彩った。
 14日はペダルボートレース(午前10時半〜)やバルーンアート体験(午後2時〜)も予定している。花火は午後8時から打ち上げられる。まつりは実行委員会が主催し、54回目。問い合わせは実行委(電話0176-75-1531)へ。

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続いてRAB青森放送さんのローカルニュース。 

十和田湖 湖水まつり(青森県)

夏の十和田湖観光の幕開けを告げる「十和田湖 湖水まつり」が始まり、訪れた観光客が湖畔を散策したり花火大会を楽しみました。
「十和田湖 湖水まつり」は十和田湖畔の休屋地区できのう13日開幕しました。
午後から青空が広がった湖畔には多くの観光客が訪れ、乙女の像までの遊歩道を散策したりボートに乗るなどして十和田湖の雄大な自然を満喫していました。
★観光客は
「すごくいいです。自然が豊かで」
「2人とも初めて来たんですけど、すごく透明度が高くてボート乗ったりしたんですけど」
「楽しかったね、きれい、すごくきれいでした。来てよかったです」
日が暮れると恒例の花火大会が開かれました。
ことしは秋田県大仙市の花火師が製作した大型花火など色とりどりの1200発が湖畔の夜空を彩りました。
「十和田湖 湖水まつり」はきょう14日まで開かれ、カヌー体験や夜には花火が打ち上げられます。

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最後に、秋田大曲に本社を置く『北鹿新聞』さん。 

湖上彩る大輪2400発 十和田湖「湖水まつり」 夏観光の幕開け告げる

 小坂町と青森県十和田市にまたがる十和田湖に夏イメージ 9の観光シーズンの幕開けを告げる「湖水まつり」(実行委主催)が13、14の両日、湖畔休屋で開催された。観光客らが湖畔の散策やカヌー体験、湖上花火など、昼夜を通してのイベントを楽しんだ。
 夏の十和田湖の活性化を目的に行われており、今年で54回目。呼び物の湖上花火は、大仙市の花火師による直径300㍍まで花開く10号玉を含め、1日約1200発、2日間で計約2400発が初夏の夜空に打ち上げられた。
 初日の13日は、整備された桟橋前広場や散策路、県境付近の桂ケ浜、「乙女の像」へと続く御前ケ浜などに国内外から訪れた家族連れや、カップルなどが陣取った。
 水面いっぱいに広がる水中花火、豪快な10号玉、スターマインなど数々の仕掛け花火が台船を使って湖上から打ち上げられると、詰めかけた見物客からは大きな歓声。夜空に広がる花火が湖面に反射し、美しさと豪快さを堪能していた。


ご紹介した各社報道、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」に触れて下さり、ありがたく存じます。

夏の観光シーズンとなります。ぜひ十和田湖へも足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

一時のやうなばかばかしい褒貶の議論もなくなつて、彼の彫刻はいま一つの静かな歴史的クリテリオムの壇上に立つて、遠い古代に於いてのみならずこの近代の現実に於いても尚ほ人力が人力以上をおもはせる境にまで到り得ることのあかしを示してゐる。
雑纂「「ロダン」後記」より 昭和24年(1929) 光太郎67歳

この年、昭和2年(1927)に刊行された光太郎著の評伝『ロダン』が白玉書房から再刊されることとなり(結局、ポシャりましたが)、そのために書かれた後書きから。

彫刻のみならず美術界全体に多大な影響を与え、いい意味で時代を「席巻」したロダン。毀誉褒貶の嵐は存命中、そして大正6年(1917)に没してからもしばらく続きました。戦後ともなるとほぼほぼその評価も定まり、そのあたりのことを言っているわけです。「クリテリオム」はラテン語で「基準」を表します。

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7月13日(土)、村民体育センターで行われた、当会の祖・草野心平を顕彰する第54回天山祭り会場を後に、千葉の自宅兼事務所に向かいましたが、帰りがけ、少し寄り道をしました。

洞秀山泰亨院長福寺さん。村はずれの山の麓にありました。

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昭和28年(1953)、「モリアオガエルを見てみたい」という心平が新聞に書いた文章を読んだこちらの矢内俊晃住職が、川内村の平伏(へぶす)沼がモリアオガエルの繁殖地だと心平に教え、招きました。これが以後、昭和63年(1988)に心平が亡くなるまで続いた心平と川内村との縁の始まりでした。

昭和53年(1978)撮影の矢内住職と心平。

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そうした関係で、同寺には心平揮毫の石碑などが建っているというので、拝見しておこうと思った次第です。

山門脇の駐車場に愛車を駐め、降り立つと、心平碑ではありませんが、目の前に「東日本大震災被災物故者供養塔」。調べてみましたところ89名という決して少なくない数が川内村の震災による死者数として記録されていました。山間部なので津波の被害はなかった川内村ですが、いわゆる関連死などなのでしょうか。線香を手向けさせていただきました。

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山門には、レトロな自転車が。昭和55年(980)に亡くなった矢内住職の愛車だそうですが、あえてそのままここに置いてあるとのこと。

山門をくぐり、山の斜面を本堂目指して登って行くと、ほどなく碑が。

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「長福寺雨蕭々 心平」。光太郎のそれもそうですが、心平の筆跡、かなり遠くからでもそれとわかります。昭和34年(1959)の建立だそうです。

近づいてみて、驚きました。『歴程』同人の山本太郎の添え書きもある、という情報は事前に得ていたのですが、山本以外にも錚々たるメンバー。心平を中心とした寄せ書き的な書をそのまま碑に写したもののようです。

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鳥見迅彦。詩集『けものみち』(昭和30年=1955)の題字イメージ 8を光太郎が揮毫しています。

會田綱雄。昭和32年(1957)、詩集『鹹湖』で、第一回高村光太郎賞を受賞しました。心平との縁は中国南京で知り合ったことがきっかけでした。

島崎蓊助(おうすけ)。藤村の三男で、光太郎と書簡のやりとりをしていました。新潮社で『島崎藤村全集』編集に当たり、同書付録の『藤村研究』に光太郎が「夜明け前」雑感(昭和25年=1950)を寄稿した際に橋渡しをしたと推定されます。光太郎再帰京後の昭和28年(1953)には、新宿のバーで光太郎、心平、蓊助の三人で呑んだことも。

山本太郎。昭和54年(1979)、筑摩書房から刊行された『智恵子紙絵』の編集に当たり、光太郎智恵子への頌詩を寄せました。父は版画家の山本鼎。東京美術学校、新詩社、パンの会などで光太郎と縁が深い人物でした。村山槐多のいとこにあたります。母は光太郎の盟友・北原白秋の妹でした。

以上、『歴程』同人です。それ以外にも、心平の長女・碧、そして矢内住職などの名も刻まれていました。

なぜかは知らねど、涙が出そうになりました(笑)。

碑の前を過ぎ、さらに斜面を上がると本堂や鐘楼。

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その裏手が墓地になっており、そちらにも心平の筆跡が残されているというので、行ってみました。

やはり『歴程』同人で、昭和50年(1975)に亡くなった画家の辻まことの墓です。妻の良子も合葬されているようです。

辻の父はアナーキスト・辻潤。やはり光太郎とも交流がありました。大正13年(1924)刊行の陶山篤太郎詩集『銅牌』の序文を光太郎が書き、英訳を潤が手がけています。また、昭和14年(1939)に刊行された西山勇太郎詩集『低人雜記』では、光太郎が題字を、潤が序文を担当しました。後の西山宛の光太郎書簡には潤の名が頻出します。また、昭和29年(1954)に刊行された『辻潤集』全二巻の編集委員には、光太郎も名を連ねました。

ちなみにまことの母は関東大震災のどさくさで憲兵大尉・甘粕正彦に殺された伊藤野枝です。野枝は智恵子がその表紙絵を描いた『青鞜』の発行を平塚らいてうから受け継いだ人物でした。

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辻の墓と対を為すように、先述の會田綱雄の墓もありました。こちらは事前に存じておらず驚きました。會田の死は心平より遅く平成2年(1990)。したがって、こちらは心平の筆跡ではありませんが、ここに墓があるというのは心平と無関係ではあり得ないでしょう。

この2基にも線香を手向けさせていただきました。


長福寺さんを後に、帰路に就きました。

川内村、東日本大震災に伴う福島第一原発の事故による全村避難から8年。8割方の世帯が帰還したそうです。実際、久しぶりに訪れてみて、以前にゴーストタウン的だった一角に、住民の方々の姿が見え、復興が進んでいる様子が垣間見えました。こんなの以前はなかったんじゃないかな、という施設も散見されました。

しかしまだまだ復興途上。ぜひ皆様、足をお運びいただき(訪れるだけでも復興支援となります)、心平や光太郎、そして2人を取り巻く人々に思いを馳せていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

実をいふと、自分の旧作をよんでゐて感ずるものは、あれもこれも消してしまひたいやうな衝動である。
雑纂「岩波文庫版「高村光太郎詩集」はしがき」より
昭和29年(1954) 光太郎72歳

交流の深かった美術史家・奥平英雄が編集にあたり、現在も版を重ねる岩波文庫版『高村光太郎詩集』が刊行されまして、それに寄せた文章の一節です。

もはや自らの生命の火が消えかかっていることを認識していた光太郎、やはり自らの来し方には手厳しかったといえるでしょう。

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昨日は福島県双葉郡川内村に行っておりました。同村の名誉村民で当会の祖・草野心平が生前に愛し、歿後はその顕彰を兼ねて行われ続けている、天山祭り。今年で54回目だそうで。しばらく欠礼しておりましたが、久しぶりにお邪魔いたしました。

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本来の会場は、心平の川内村での別荘的な天山文庫でしたが、一昨日の時点で天気が怪しいというので村民体育センターに変更。

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当方到着時にちょうど始まったところで、主催者挨拶の最中でした。

実行委員長・井出茂氏。かつてご自宅の小松屋旅館さんで、心平を偲ぶ「かえる忌」も主催されていました。今年、復活させるそうで。

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遠藤雄幸川内村長。ご挨拶の中で光太郎にも触れて下さいました。

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来賓挨拶。心平が主宰していた同人誌『歴程』の新藤凉子代表。

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心平遺影に献花。

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その後、さまざまな皆さんによる心平詩等の朗読。

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まずは川内小学校の6年生児童が自作の詩を。

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詩人のいとうのぼる氏、声優の本間ゆかりさん、同じく栗原康子さん。ライヤーという楽器を伴奏に、心平詩を中心に。

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いとう氏と本間さんは、昨年山梨県立文学館さんで開催された「歿後30年 草野心平展 ケルルン クックの詩人、富士をうたう。」の開会式にもご出演されました。

いとう氏、自作の詩の朗読も。「私の獏は」と題する詩で、光太郎智恵子にも触れて下さっています。

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『歴程』同人の皆さんも、心平詩を。画像は連翹忌にもおいでいただいた事のある伊武トーマ氏。

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この後、樽酒の鏡開きが行われ、お弁当が配布、それをいただきながら懇親会的な。当方、遠藤村長、井出氏、伊武氏など、旧知の方々と久闊を除させていただきました。

アトラクション的に、郷土芸能「西山獅子舞」。詩の朗読をした川内小児童も再度獅子頭をかぶって登場。頼もしい限りです。

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東京芸術大学邦楽部ご出身で、福島大学などで講師をなさっているという、尺八奏者のブルース・ヒューバナー氏。すばらしい演奏でした。

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というわけで、大盛り上がりの天山祭。泉下の心平も喜んだことでしょう。というか、どさくさに紛れてゴザの上にあぐらをかき、ドブロクの茶碗を傾けていたのでは、と思いました(笑)。

末永く続けて行っていただきたいと存じます。


【折々のことば・光太郎】

「智恵子抄」は徹頭徹尾くるしく悲しい詩集であつた。

雑纂「詩集「智恵子抄その後」あとがき」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

『智恵子抄その後』は、この年、戦時の休業から復興した龍星閣によって刊行されました。一昨年、龍星閣主人・澤田伊四郎にあてた、同書に関わる光太郎書簡等が澤田の故郷である秋田県小坂町に寄贈されています。

「詩集「智恵子抄その後」」とありますが、実際には散文の方がページ数が多く、「詩文集」というべき書物です。

そのあとがきに、昭和16年(1941)刊行の『智恵子抄』が、「徹頭徹尾くるしく悲しい詩集であつた」と書いた光太郎。智恵子に対する贖罪の書、それまでの自分の生き様(世間と没交渉)に対する訣別の書、そしてもちろん最愛の妻・智恵子への挽歌、いろいろな意味合いを含めての万感の思いがこもった一言と思われます。

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