高村光太郎連翹忌運営委員会のブログ

4/2は高村光太郎(1883〜1956)の命日、連翹忌(れんぎょうき)です。

智恵子

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昨日は山梨県に行っておりました。『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』著者で、太平洋美術会、高村光太郎研究会に所属なさっている坂本富江さんが講演をなさるというので、そのお手伝いでした。

講演は、曹洞宗の山梨県寺族会(寺院ご住職奥様の会)平成30年度総会の一環で、会場は、甲府市に隣接する笛吹市石和温泉のホテル古柏園さん。

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玄関前には観賞用の花桃の大きな鉢。いかにも山梨です。

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参加者は90名ほど。坂本さんが山梨韮崎のご出身なので、その関係で白羽の矢が立ったようです。

何かお手伝いすることはないかと申し出たところ、パワーポイントのスライドショーを作ってくれ、というので作成し、ついでに会場でのパソコンの操作も致しました。

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休憩をはさみ、90分ほど。智恵子の生涯、光太郎とのからみ、そしてそれらから坂本さんがご自身の人生にどういう影響を受けたか、というようなお話でした。

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山梨県ということで、現存が確認されている智恵子油絵3点のうちの一つ、「樟」が所蔵されている北杜市の清春白樺美術館さん、そこからほど近い、戦時中の昭和17年(1942)に「日本の母」顕彰運動のため光太郎が訪れた富士川町上高下(かみたかおり)地区のお話も。

サプライズのゲストもいらっしゃいました。平成27年(2015)、ノーベル生理学・医学賞を受賞された、大村智博士。大村博士、坂本さんと同郷、さらに年度は違いますが、同じ韮崎高校さんのご出身で、以前からお知り合いだそうです。一昨日から新宿のヒルトピアアートスクエアさんで開催されている坂本さんの個展にもいらっしゃり、古柏園さんでのご講演の件を知って、ご実家に帰られる途中に立ち寄られたとのこと。

せっかくですのでご挨拶を賜りました。

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さらに記念撮影。

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分野は違えど、世界的な研究者の方のお隣で写真にイメージ 11
収めていただき、光栄の至りでした。

ちなみに大村博士、美術にもご造詣が深く、長年に渡って収集してきたコレクションを郷里の韮崎市に寄贈され、韮崎大村美術館として一般公開されています。また、光太郎の盟友・岸田劉生のご子孫の方から、光太郎彫刻「裸婦坐像」(大正6年=1917)を譲っていただいたそうです。

可能であれば連翹忌にもご参加いただきたいものです。

思わぬところでいろいろな方のご縁がつながるものだな、と思いました。仏教用語で言うところの「結縁(けちえん)」ということなのでしょう。


明日はその坂本さんの個展、さらに文京区千駄木の旧安田楠雄邸庭園で開催中の「となりの眤爾気鹽限2弾補遺「千駄木5-20-6」高村豊周邸写真展」を拝見して参ります。


【折々のことば・光太郎】

まるで税関の倉庫のやうに思もよらない貴重な雑多なものが、見かけはとんとがらくたじみて積込んである田夫の頭の中を本当に理解してくれる人は日本に少いやうであつた。
   につぽんは まことに まことに 狭くるし
   田夫支那にゆけ かの南支那に
と曾て私も歌つて彼の支那行を送つた事がある。

散文「宅野田夫を珍重す」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

宅野田夫(たくのでんぷ)は、初め洋画家としてスタートし、のちに南画に転じた画家です。光太郎も言うように日本という枠に収まりきらないスケールの大きな人物でした。

大村博士にしてもそうですが、いったいにノーベル賞を受賞された日本人研究者の多くも、そういう感じですね。スケールの小さい日本では正当に評価されて来ず、ノーベル賞を受賞されてから、慌てて日本の文化勲章などが授与されるような。

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春の恒例となりつつあります。智恵子の故郷、福島二本松市での智恵子顕彰イベント「高村智恵子生誕祭」。智恵子の誕生日は5月20日ですが、4月、5月と2ヶ月かけて、さまざまな企画が予定されています。

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まずは4月7日(土)から、「智恵子の生家2階特別公開」。平成27年(2015)に始まり、春と秋の観光シーズン、年によっては夏休み期間などに、通常は非公開の、智恵子の生家の2階部分――智恵子の居室があった――に上がれます。

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当方、なんだかんだで5回くらい上がらせていただきましたが、襖を開ければそこに智恵子が座っているような、そんな感じでした。


それから、4月の二本松といえば、桜。『広報にほんまつ』の4月号がこちら。

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智恵子の生家/智恵子記念館周辺にも、見事な桜が点在しています。

そこでこの時期、「二本松の名所旧跡を巡る春さがし号(市内循環臨時バス)」が運行されます。

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ぜひご利用下さい。

それから、「高村智恵子生誕祭」としては、他にもいろいろ企画されていますが、また近くなりましたらご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

深遠な思想と不惑の意志とのある処にのみ芸術はある。

散文「彫刻に就て」より 大正3年(1914) 光太郎32歳

必死の思いで考えに考え抜き、精魂傾け尽くして制作されたものでなければ芸術の名に値しない、というわけですね。

この文章、本来は文部省美術展覧会(文展)と、国民美術協会展覧会の評ですが、そうでない出品作の多さを嘆く一節です。

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東京六本木から、公開講座の情報です。 

2017年度連続講座・シンポジウム「生と死の物語 高村光太郎 ―智恵子抄 心の病に寄り沿うということ―」

期   日 : 2018年2月17日(土)
会   場 : 東洋英和女学院大学大学院 201教室 東京都港区六本木5-14-40
時   間 : 16:20-17:50
料   金 : 500円 
申   込 : 不要 先着100名
講   師 : 福田周(東洋英和女学院大学人間科学部教授)

高村光太郎は明治生まれの日本を代表する彫刻家です。彼は彫刻だけではなく、画家として、また随筆家としてもその才能を発揮しています。しかし、彼をより有名にしたのは詩集の『道程』や『智恵子抄』でしょう。そのうち『智恵子抄』は心の病に罹り亡くなった妻である智恵子への想いを詩にしたものです。この講座では、心の病をもつ妻に、夫の光太郎がどのように寄り添って生きたのかを考えていこうと思います。

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大学さんでこうした取り組みというのは、ありがたいですね。それこそさまざまな分野で、専門的に語れる人材はたくさんいらっしゃるわけですから。

たまたまでしょうが、今年は昭和13年(1938)に亡くなった智恵子の歿後80周年の節目の年です。各地で智恵子を語るイベント等、催されて欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

毎日見慣れて平凡だと思ふものに在る斯かる真の美を又新しく発見するのはたのしい。美は到るところにあるのである。

散文「野菜の美」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

初出掲載誌は『婦人之友』第35巻第4号。「日本的美について」ということで原稿依頼があり、光太郎の提案で、野菜の美しさを取り上げることとなり、光太郎のアトリエに編集者が筵(むしろ)一面を覆い尽くす野菜を持ち込み、写真撮影。その写真グラビアに添えられた文章です。

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昨年の6月号から「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されている『月刊絵手紙』の2月号が届きました。

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連載「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」、これまでは全1ページでしたが、今号は3ページも取って下さっています。

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大正2年(1913)の1月と推定される、光太郎から智恵子への長い手紙の全文を掲載して下さいました。これは、現在、ほぼ唯一確認できている結婚前の智恵子宛です。光太郎智恵子の結婚披露は翌大正3年(1914)でした。

全文を紹介しようと思いましたが、長いので、こちらのリンクをご参照下さい。平成25年(2013)に放映されたNHKさんの「探検バクモン「男と女 愛の戦略」」で、この手紙が取り上げられた際のレポートです。ついでに言うと、この手紙が紹介されている書籍、CDの情報はこちら

智恵子に宛てた光太郎書簡は、5通しか現存が確認できていません。

1通目は、大正元年(1912)と推定され、これも結婚前ではありますが、智恵子と同居していたすぐ下の妹・セキとの連名で宛てたもの。そこで、先ほど、「ほぼ唯一」と書きました。

此の間の夜はあまり突然のこととて何の御愛想もいたされませんでしてまことに失礼いたしました それに折角お目にかゝりながらろくろくお話さへも出来ませんで本意ない事に存じました どうぞあれにおこりにならず御暇もございましたら又遊びにおいで下さいますやう うまい紅茶やお好きなあづきもたんとさし上げますから 同封にて失礼の段おゆるし下さいまし 十月五日 高村光太郎 光 長沼ちゑ子様お妹様御座下

この次に、今回のものが入り、続いて大正5年(1916)夏。

いろんなものを写真にとりました 此は少し黒く焼きすぎました。もつとよく出来るでせう。 東京はまだ暑さ烈し

こちらは絵葉書、というか、写真を絵葉書として使ったもので、写真は智恵子の首を作った光太郎彫刻です。この時智恵子は、新潟の友人宅に滞在していました。

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次いで、時期的にはずっと飛んで、心を病んだ智恵子が療養していた千葉県九十九里浜にいた五番目の妹(セツ=節子)の家に送ったハガキ。昭和9年(1934)5月、同地に移った直後のものです。

節子さんによんでもらつて下さい。 真亀といふところが大変よいところなので安心しました。何といふ美しい松林でせう。あの松の間から来るきれいな空気を吸ふとどんな病気でもなほつてしまひませう。 そしておいしい新らしい食物。 よくたべてよく休んで下さい。 智恵さん、智恵さん。

「節子さんによんでもらってください」とは、もはや夢幻界の住人となっていた智恵子は自分で読むことが出来なくなっていたからでしょう。末尾の「智恵さん、智恵さん。」には、心打たれます。

最後に、同じ年の12月、やはり九十九里に送ったものです。

さつきはいそいだので無断で帰りました、無事に帰宅しました。 今度参上の時は多分東京から自動車を持つてゆけるでせう。それまで機嫌よくしてみんなに親切にして下さい。 心のやさしいのは実に美しいものですね。お天気がよいので暖かです。

「自動車」は、結局、九十九里にも置いておけなくなった智恵子の迎えの車です。「田村別荘」として平成11年(1999)まで残っていたセツの家には、姉妹の母・セン、セツの夫、さらにセツの幼い子供がおり、その子供への教育上の配慮から、ふたたび智恵子を光太郎が引き取ることになりました。翌年には南品川ゼームス坂病院へ入院することになります。

この5通以外は、先述の彫刻「智恵子の首」などとともに、昭和20年(1945)の空襲で、アトリエもろとも灰燼に帰したと推定されます。ただ、なにがしかの事情で、今回の5通同様に、他所に保管されているものがまだあるかもしれません。それを祈ります。


【折々のことば・光太郎】

美とは生活の附加物でなくて、生活の内部から人間を支へてゐる精神的基礎である。美を感ずる事は能力に属する。此の能力ある時美は到る処に充満する。此の能力の発動なき時この世は如何につまらない愚痴の世界であるか。

散文「戦時、美を語る」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

日中戦争が泥沼化しつつある時期の発言です。こうした時代にも「美」を忘れるなという提言で、国民の心の荒廃を防ごうとしていたことがわかります。

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新刊情報です。 

永井和子随想集 日なたと日かげ

2018年1月11日 永井和子著 笠間書院 定価2,500円+税

更新されてゆく日々の陰影をスケッチした著者初の随想集。
平安古典を軸に、歌舞伎・演劇評、序文、追悼、ほか 「オノ・ヨーコさんの力」等、文学者としての眼が捉えた
縦横無尽の短文58篇で構成。

【本書はこれまで折々にふれて様々な立場から記した短文の中から幾つかを選び、まとめて一冊としたものである。全体を、Ⅰ随想的なもの・Ⅱ日本の平安文学に関するもの・Ⅲ先生方・先輩方の思い出・Ⅳそのほかの短文・Ⅴ追悼の記、におおまかに分け、ほぼ執筆年時順に配列した。そのため表記その他に統一性を欠くが、明らかな誤脱等を改めたほかは、もとのままとした。
 本書の『日なたと日かげ』はこうしたこれまでの日々・時間を象徴する言葉として書名としたものであり、具体的には原子朗氏の詩による。巻頭の一文〈「老い」と「日なたと日かげ」と〉を参照されたい。多くの方々と出会い、豊かな「時」に恵まれたことを思うと感謝は盡きない。】......「まえがき」より

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「たじろぐ――高村智恵子のこと 智恵子の切り絵――レモン会」というエッセイが掲載されています。初出は平成14年(2002)の『レモン会報』。毎年10月の、智恵子を偲ぶ「レモン忌」をはじめ、福島二本松で智恵子の顕彰に当たられている「智恵子の里 レモン会」さんの会報で、現在のレモン会は渡辺英雄会長ですが、その前に会長を務められていた、故・伊藤昭氏の頃のものです。

平成11年(1999)に伊藤氏の案内で、智恵子生家・智恵子記念館を訪れられたこと、翌年の「レモン忌」で、ご主人の故・永井克孝氏がご講演をされたこと等が描かれています。当時の「レモン忌」は、智恵子の実家・長沼家の菩提寺である満福寺さんで開催されていたそうで(現在は結婚式場的なJAさんの施設)、ご住職の追悼供養、地元の方々のご詠歌などもプログラムに入っていたとのこと。

「たじろぐ」というのは、智恵子の紙絵を眼にされてのご感想です。

なんという新鮮な美しさであろう。本物の切り絵はおだやかな初々しさに満ち、そのまま暖かく落ち着きながら精気がみなぎりわたって、それ自体が躍動している。私は、作者が生命の深淵に極めて自然に降ろした無垢の眼と、そこからさらりと汲み上げた純度の高い「形と色」に直対して、言葉もなかった。たじろぐ、というのはこのことか、と思った。

当方も実物の紙絵を初めて見た学生時代、同じようなことを感イメージ 1じました。おそらく、そういう方は多いのではないでしょうか。「智恵子の紙絵、あるある」的な(笑)。しかし、このようにうまく言葉に表すことができるのは、『枕草子』、『源氏物語』等の古典文学の研究がご専門ゆえのことでしょう。

そういうわけで、本書の大半はご専門の古典文学に関するものですが、そうかと思うと、歌舞伎やシェークスピア、果てはオノ・ヨーコにまで話題が及びます。ぜひお買い求め下さい。


ところで、当時のレモン会伊藤昭会長は、旧油井村の智恵子生家近くに育ち、昭和23年(1948)には、花巻郊外太田村の山小屋の光太郎に会いに行かれました。平成3年(1991)から翌年にかけ、『毎日新聞』福島版に連載されたものを、近代文藝社から自費出版、さらに地元福島の出版社・歴史春秋社から同7年(1995)に再刊した『愛に生きて 智恵子と光太郎』という御著書がおありでした。入門編の智恵子評伝として好著ですが、平成11年(1999)に再版された後、絶版となっているようです。復刊が待たれます。


【折々のことば・光太郎】

飛行家が飛行機を愛し、機械工が機械を愛撫するやうに、技術家は何によらず自分の使用する道具を酷愛するやうになる。われわれ彫刻家が木彫の道具、殊に小刀(こがたな)を大切にし、まるで生き物のやうに此を愛惜する様は人の想像以上であるかも知れない。

散文「小刀の味」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳


この後、名工と呼ばれる鍛冶職人の手になる小刀のすばらしさが語られます。

ちなみに智恵子が紙絵制作の際に使っていたのは、マニキュア用の先の曲がったハサミ一丁だったそうです。

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