山内一豊が勢多城に居た
一豊は天文14年(1545)盛豊の第二子として尾張で誕生した。幼名を辰之助といった
辰之助は父が賊徒に襲われたとき、兄を失い、13歳の幼少の身で、九歳の弟吉助(後の
康豊)や四歳の妹合たちと岩倉に逃れた。しかし、岩倉城も永禄2年(1558)、織田信長に
攻められて落城したので辰之助たちは浪々の身となり苦難の大海へ投げ出されたのであった。
辰之助は弟妹たちとともに母につれられて岩倉を退去し、ひとまず尾張の苅安賀城主浅井
政高のもとにおちついた。
この永禄2年は苦難の年であったがまた記念すべき元服の年でもあった。辰之助も年既に
15歳。通称を伊右衛門と改め、これより一豊と名乗ることとなった。
ところで、信長は桶狭間の合戦で今川義元を打倒したのち、美濃の斉藤氏の征伐を計画し、西美濃への攻撃を企てた。このころ一豊が身を寄せていた牧村政倫は斉藤龍興の家臣として
信長の侵入軍と戦った。一豊は永禄3年(1560)牧村のもとを去って山岡道阿弥の子息で勢多の城主山岡景隆に仕え、児小姓をつとめたと伝えている。そしてこれは、景隆が一豊の智あり勇ある人柄を聞いて二百石で抱えることになったという。
景隆は、永禄12年(1569)44歳のとき織田信長上洛の際、自軍に参加するように勧められたが断ったため攻められ大和国柳生に逃亡した。その後信長と和睦し松永久秀と戦って勝利を収めた。
後に本能寺の変「天正10年(1582)」にあたり、明智光秀の催促に応ぜず、勢多橋を焼いて光秀を苦しめ、徳川家康が畿内から伊賀を通って三河へ退去するのを援助した人であるが一豊はこの景隆に近習として仕えることになったという。
永禄年間の約10年にわたる一豊の動静については詳しくないが、多分景隆が信長に攻められ柳生に逃亡するまでの(永禄3年〜12年)10年間は勢多城に居たのではないか。
一豊16歳からの多感な青春時代に勢多城にあって、日頃周辺を巡り歩いたことだろうし、
神社、仏閣をはじめ幾多の史跡をも訪ねたことだろう。壬申の乱の歴史にも触れ、今でこそ1330年前になるが、一豊は900年前の瀬田川を挟んでの皇位継承争いを深く偲んだのでは
ないかと思いを寄せるのである。
小山 昭三 記
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