琵琶湖歴史倶楽部

琵琶湖瀬田川界隈の歴史と文化について紹介します。

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多羅尾村災害の惨状

多羅尾村災害の惨状

災害情況
 大戸川水系の水害の歴史のなかで昭和28年8月の集中豪雨は翌9月の台風13号の襲来と合わせて記録的な大惨事をもたらした。この水害は地元でも{28水(すい)}と呼ばれ、人々の記憶にまだ鮮明に残り、他の水害を圧倒している感がある。
 昭和28年(1953年)8月14日は、祖先を祭るお盆の中日であった。この年はお盆の
前頃より雨降りの日が多く、14日も夕方から雨が降って来て、午後10時頃には相当降っていたが、11時頃は夕立のようにひどい大雨となった。それから引き続き翌15
日午前4時半頃迄大変な大雨となり午前5時丁度、夜の引き明け時には、天から雨の棒が降ってくるように見えた猛烈な豪雨となり15日早朝数時間に400ミリ以上になる殺人的降雨量を示し、その時、紫のいなびかりのような光がはしり鳴動とも、地震とも大きな雷ともわからないものすごい大音響が起こり、それと同時に、山の斜面が樹木の立ったまま、川や田や谷間に「ズウンズウン」と崩れ落ち、崩れ落ちた山のため川はせき止められ、一面の泥海となり、またそれが切れて波の如く流れて行く正に山津波に逃げ出す暇もなく、さながらの生き地獄と化し、その惨状は筆舌につくせず、目を覆わせるものがあった。
 
雨量については300ミリとか400ミリとか言われたが、実際に多羅尾にある彦根測候所多羅尾観測所の雨量器は300ミリで満配になっており、雨量器より外へ洩れた雨量はわからず、多分400ミリ、或いはそれ以上降っていたであろうといわれている。このため橋という橋は皆流され、道は寸断され、稔りを待つ田地は泥海の下に埋没、家は流されるか埋没し、見る影もない大修羅場と化してしまったのであります。
 夜が明け雨は止む、自然の猛威に村人はただ唖然とするばかりでありました。消防団ではいち早く午前零時頃に非常召集され警戒にあたっていましたが自然の猛威には如何ともなすすべもなかったのであります。

 夜明けとともに家屋の下敷きとなった人の救助を求める報や、行方不明者の報告、
家が流れてない、あそこの家も流れている。家の下敷きになって助けを求めている。
早く来てくれと矢継ぎ早に役場へ急報される。責任の立場にある村長を初め役場吏員
村議、農協各団体長など、道が寸断され橋なきため中々集まらない。漸く午前7時頃
責任の立場にある者役場に揃うも、ただ災害が大きいため呆然自失するのみでありました。次々と惨状を聞くが、実際どうしてよいかただ呆然とするのみでありました。
 そうこうしている内にも、家が流された、家が埋没した家の下敷きになり大怪我を
したとの惨状報告が続き、ただお互いに右往左往するのみでありました。

 村長は電話が不通のため、とにかく他に救助を求めるべく、消防団に信楽警察署迄この惨状を報告、救助を求めるよう指示される。消防団では数名の団員を選抜し出発させられたのでありました。道なきため山を登り川を渡り漸く小川にたどりつくのに三時間を要したとか。とにかく村長は今やるべきことは生存者の救出、次に犠牲となられた人々を掘り出すことを指示される。小学校は一段高い所にあり被害はなかったので、とりあえず負傷者や被災者の収容に当てられる。正午頃になり大体の被害の状況が判明。今更ながら被害の甚大さに驚く。村長は午後より村民総出で、埋没死者の發掘と、流失行方不明者の捜索に全力を集中するよう指示され、役場吏員、村議各団体長を召集、炊出し、死者の収容、負傷者や被災者の応急の処置について協議される。
 
死者収容の棺が間に合わず、取敢えず農協にある空茶櫃を当てることとなる。夕方迄に次々と掘り出された無残な遺体が、消防団員により小学校講堂に運び込まれる。悲惨なることこの上なし。死者の姿を見た遺族はそれに取りすがり悲嘆、嗚呼、残酷
見るに忍びなし。全く生き地獄、阿鼻叫喚の巷を現出する。
 夕方より又大雨の報飛び、電灯なく、ローソクの火のもとに不安の一夜を明かす。

 8月16日
 夜中国警県本部機動隊と日赤、甲賀病院両救護班は雲井より徒歩にて道なき山や川の中を這い乍ら救援のため来村。大雨一過晴れやかな朝を迎え復旧作業は力強く開始さる。隣接町村の消防団続々応援に来る。早朝より応援に力を得て死体発掘に全力を集中午後3時に二十四死体の仮埋葬を行う。夜10時江田まで流失の一死体が運ばれ八体を講堂に収容す。午後5時電通局必死の努力により応急仮工事をして市外線開通。

 8月17日
 本日も死体発掘に全力を集めし結果午後十五体の仮埋葬をなし、これで三十九体を
発見、五体が未発見となる。
 地方事務所よりの手配による救援米その他の物資の運搬が雲井より徒歩によって郡内の消防団、青年団等によって開始され生死の境に立つ村民に暖かい救援の手がさしのべられる。
 電通水口施設区の不眠不休の作業により本日早くも全村に電話開通す。

 8月18日
 死体発見二体、早死亡してより4日を経過、見るも悲惨な姿あわれを極む。島田国警隊長が訪れ救援に出動せる特別機動隊や署員を激励した。

 8月19日
 これだけ被害甚大なるに知事の見舞及び視察なきは如何。なぜ救助法を適用せないのか。村民の不満は高まり相当の動揺を来たす。知事が信楽町まで来られしため村長及び村会議長は知事を追い迫る。



8月31日迄に判明せし被害状況、次の通りである。
1、	人的被害
   死者                      44名
   重傷者                     9名
   軽傷者                   121名

2、	住居の被害
   全  壊         40戸  208名
   流  失          8戸   38名 
   半  壊          6戸   39名
   一部損壊         18戸   92名
   埋  没         13戸   73名  

3、	その他の被害
   橋梁           全滅
   道路決壊        殆全滅
   バス路線       全線不通
   牛の埋没          5頭 
   河川          殆埋没
   山林山崩        未調査のため不明なるも被害甚大

 最終的に死者44名、全半壊流失戸数が全村の4割という甚大な被害をもたらした。 

海抜536米、東西3里、南北2里の高台山村でありながらなぜこれほどの大被害を受けたか、その原因を追究すると、戦争中の乱伐と山の土質が花崗岩砂質である上、梅雨期からの長雨で地盤がゆるみ、これに大量の雨が集中的に降ったためと見られる。
大戸川流域では、上流信楽町一帯で285mm以上の降雨があり、危険水位を突破、最高期(8時頃)は7mに達した。瀬田川に至る全流域にわたり各所で氾濫・決壊し、橋梁の流失と家屋の倒壊・流失等の被害があった。

郷土史こぼれ話(5)

「わが旗をば瀬田にたて候へ」  武田信玄の遺言

第四次川中島合戦のきっつき作戦失敗で苦戦し、謀将山本勘助を戦死させた武田信玄は、それでも信濃の領国化に成功し元亀3年(1572 )10月精鋭を率いて甲府を出発、信州伊那から遠江に入り、要衝二俣城を攻略後、12月22日、三方が原の合戦に家康の軍を大破して 翌元亀4年には、三河野田城を攻略したが、信玄はここで病を発した。病は重く、もはや軍を進めることができなくなるほどだった。療養のため武田軍勢の長篠城に入った。再起を断念した信玄は、軍団に引き揚げを命じた。そして途中息子の勝頼以下諸将を集めると、信玄は長い遺言をするのである。
わしの運命は今日で終った。旗を京都に揚げずに死ぬのは無念である。信玄が死んだと聞いたら敵が蜂起するのははっきりしている。三、四年間は死をかくし、国の備えを固め必ず一度は京都に攻め上るようにせよ。
なお、自分の葬儀は無用である。遺体はいまから3年後の亥年4月12日に諏訪湖に甲冑を着せて沈めてもらいたい。
遺言のなかでは、信玄は3年間死を秘すことのほかに上杉謙信と和睦すること、信長にはよくよく注意することなどを言い、側臣の山形昌景に「明日は其の方旗をば瀬田にたて候へ」といって死んだ。五十三歳であった。だがこの側臣は戦死し約束は果たせなかった。
信玄の約430年前の遺言を果たそうと山梨市の観光協会は、瀬田の唐橋に「風林火山」の旗を立てている。

19年3月1日   小山昭三 記

勢多城に関わった人々

山内一豊が勢多城に居た

 一豊は天文14年(1545)盛豊の第二子として尾張で誕生した。幼名を辰之助といった 
辰之助は父が賊徒に襲われたとき、兄を失い、13歳の幼少の身で、九歳の弟吉助(後の
康豊)や四歳の妹合たちと岩倉に逃れた。しかし、岩倉城も永禄2年(1558)、織田信長に
攻められて落城したので辰之助たちは浪々の身となり苦難の大海へ投げ出されたのであった。
 辰之助は弟妹たちとともに母につれられて岩倉を退去し、ひとまず尾張の苅安賀城主浅井
政高のもとにおちついた。
 この永禄2年は苦難の年であったがまた記念すべき元服の年でもあった。辰之助も年既に
15歳。通称を伊右衛門と改め、これより一豊と名乗ることとなった。
 ところで、信長は桶狭間の合戦で今川義元を打倒したのち、美濃の斉藤氏の征伐を計画し、西美濃への攻撃を企てた。このころ一豊が身を寄せていた牧村政倫は斉藤龍興の家臣として
信長の侵入軍と戦った。一豊は永禄3年(1560)牧村のもとを去って山岡道阿弥の子息で勢多の城主山岡景隆に仕え、児小姓をつとめたと伝えている。そしてこれは、景隆が一豊の智あり勇ある人柄を聞いて二百石で抱えることになったという。
 景隆は、永禄12年(1569)44歳のとき織田信長上洛の際、自軍に参加するように勧められたが断ったため攻められ大和国柳生に逃亡した。その後信長と和睦し松永久秀と戦って勝利を収めた。
 後に本能寺の変「天正10年(1582)」にあたり、明智光秀の催促に応ぜず、勢多橋を焼いて光秀を苦しめ、徳川家康が畿内から伊賀を通って三河へ退去するのを援助した人であるが一豊はこの景隆に近習として仕えることになったという。
 永禄年間の約10年にわたる一豊の動静については詳しくないが、多分景隆が信長に攻められ柳生に逃亡するまでの(永禄3年〜12年)10年間は勢多城に居たのではないか。
 一豊16歳からの多感な青春時代に勢多城にあって、日頃周辺を巡り歩いたことだろうし、
神社、仏閣をはじめ幾多の史跡をも訪ねたことだろう。壬申の乱の歴史にも触れ、今でこそ1330年前になるが、一豊は900年前の瀬田川を挟んでの皇位継承争いを深く偲んだのでは
ないかと思いを寄せるのである。
                                  小山 昭三 記

  テーマ:長束正家と水口城の歴史を探る


  講 師:郷土歴史家 冨永藤吉氏

  場 所:水のめぐみ ウオーターステーション琵琶
           (旧 南郷洗堰跡横) 大津市黒津4−2−2   


  時 間:13時30分〜(2時間程度を予定)

  対 象:中学生以上

  定 員:30名程度(要予約)

  申 込:ウオーターステーション琵琶 077−536−3520

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