「わが旗をば瀬田にたて候へ」 武田信玄の遺言
第四次川中島合戦のきっつき作戦失敗で苦戦し、謀将山本勘助を戦死させた武田信玄は、それでも信濃の領国化に成功し元亀3年(1572 )10月精鋭を率いて甲府を出発、信州伊那から遠江に入り、要衝二俣城を攻略後、12月22日、三方が原の合戦に家康の軍を大破して 翌元亀4年には、三河野田城を攻略したが、信玄はここで病を発した。病は重く、もはや軍を進めることができなくなるほどだった。療養のため武田軍勢の長篠城に入った。再起を断念した信玄は、軍団に引き揚げを命じた。そして途中息子の勝頼以下諸将を集めると、信玄は長い遺言をするのである。
わしの運命は今日で終った。旗を京都に揚げずに死ぬのは無念である。信玄が死んだと聞いたら敵が蜂起するのははっきりしている。三、四年間は死をかくし、国の備えを固め必ず一度は京都に攻め上るようにせよ。
なお、自分の葬儀は無用である。遺体はいまから3年後の亥年4月12日に諏訪湖に甲冑を着せて沈めてもらいたい。
遺言のなかでは、信玄は3年間死を秘すことのほかに上杉謙信と和睦すること、信長にはよくよく注意することなどを言い、側臣の山形昌景に「明日は其の方旗をば瀬田にたて候へ」といって死んだ。五十三歳であった。だがこの側臣は戦死し約束は果たせなかった。
信玄の約430年前の遺言を果たそうと山梨市の観光協会は、瀬田の唐橋に「風林火山」の旗を立てている。
19年3月1日 小山昭三 記
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