悠遊ドライブ&てくてく散歩

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前回の光明皇后は、聖武天皇と力を合わせ
 
日本中に国分寺と国分尼寺をたてた
 
ところまででしたね。
 
 
 今日はその続きです。
 
ゆっくりして行ってね、
 
 
 仏教が インドで起こり日本に伝わったの
 
は、1450年ほど前 と言われています。
 
 はじめのころは、力と富のある、一部の人々の間で、仏教は信じられ
 
ていました。
 
 しかし、行基という おぼうさんが、まずしいひとびとにも  仏教をわかり
 
安く、優しく教えました。
 
 奈良の都で教え始めたころは、役人に おいたてられましたが、 多くの人は
 
行基を うやまい、仏の教えを学びました。
 
 
 このような行基の うわさを聞いた 聖武天皇と 光明皇后は 行基を
 
まねいて 僧侶として高いくらいを さずけました.。
 
 そして、国中の人々が 自分から進んで 力を合わせて、大仏を作る
 
ように 働きかけました。
 
 
 行基が先頭に立って  大仏のこうじを はじめると、山火事が たびたび
 
起こりました。大きな地震も起きて奈良から離れたしがらきで
 
つくることをあきらめました。
 
 次に大仏は 奈良のみかさやまのふもとで つくることになりました。
 
亡くなった 男の赤ちゃんを とむらう  お寺が建っていたところでした。
 
 大仏を 作るため、 延べにして 二百数十万人もの人々が
 
力を合わせて はたらきました。
 
光り輝く大仏を つくるために 金を塗らなければ なりません。  
 
 しかし金は なかなか集まりませんでした。
 
 聖武天皇の 病気が 重くなり、大仏の完成を 見ずに 天皇は
 
亡くなってしまうのではないかと、みんなが心配しました。
 
 そのとき、陸奥の国(宮城県)で 金が見つかり、 奈良へ届けられたの
 
です。
 
 
 おおよろこびされた天皇は 少し元気を取り戻し、光明皇后と 娘とともに
 
大仏の前で額づきました。
 
 そのあと、 天皇の位を むすめに 譲ることに しました。
 
娘は 「孝謙天皇」と呼ばれるようになりました。
 
 
 
 
 
        つづく
 
 
   * 資料  奈良教育大学 梶田 幸恵教授
            〈光明皇后〉  より
 
 
 
 
 
 
 
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  聖武天皇と光明子の間にできた
 
男の子が天皇の一番えらい大臣であ
 
る長屋王によって呪い殺されるという
 
物語の続きです。
 
 御用とお急ぎで無い方は、見て行って
 
ね。
 
 
  長屋王が死んだあと、日照りや洪水が発生、たべものもなくなり
 
道ばたには飢え死にした人や、病気にかかったひとびとが ごろごろよこたわ
 
っていました。
 
  悪いことが立て続けに、おこるのは、つみのない  長屋王を殺した
 
たたりではないかと、 ひとびとはおそれました。
 
  その噂は 聖武天皇の耳にも 伝わり ねむれない日々が つづき
 
ました。 天皇は身も心も よわり、 とうとう病気になってしまいました。
 
  光明子は 聖武天皇をたすけ 励まして支えました。
 
  そこで聖武天皇は 光明子に 皇后の位を、さずけたのです。
 
 
  光明皇后は 病気で苦しんでいる人に くすりをあたえました。
 
また、風呂を沸かして、ひふびょうの 人の からだをあらい うみもとって
 
なおしました。
 
  さらに、地震などで 親を亡くした子供の世話をしたり、 うえでくるしむ
 
人に食べ物を与えたりしました。
 
  
 
  このころ 天然痘 というおそろしい伝染病 がはやり、皇后の
 
四人のお兄さんたちも 天然痘にかかり、次々に亡くなってしまいました。
 
  光明皇后は 悲しみのあまり きが弱くなり 病気になりました。
 
  聖武天皇は、 仏の教えで 国をよくしようと かんがえ、
 
日本中に 国分寺を たくさんたてることにしました。
 
  国分寺の中心は 東大寺としました。
 
  光明皇后も、女の人のために 力を合わせて 国分尼寺をたて
 
中心となる尼寺を 法華寺としました。
 
 
 
      つづく
 
 
   * 画像
  奈良の平城京あと
 
 
 
 
 
 
 
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    藤原不比等の娘として生まれた安宿媛(あすかべ姫)は、幼くして
 聡明、光のように輝き、人々から光明子と称されたたえられたのでした。
   (以上が前回まででしたね。)
 
   光明子が 15歳になったとき、皇太子と 結婚しました。
 
  同じ年の皇太子には、何人かのお妃がすでにいました。
 そのお妃の中で、皇后の位につけるのは、皇族の姫ぎみだけという
 きまりがあったのです。
 
  光明子は 皇族ではなく 大臣の姫ぎみでした。
 
  皇太子は のちに 「聖武天皇」と よばれるようになりました。
 
  光明氏は 17歳の時、女の赤ちゃんを 生みました。この赤ちゃんは
 元気に育ちました。
 
  光明子が26歳になったとき まちにまった 男の赤ちゃんがうまれました。
 この男の赤ちゃんは 大きくなったら 天皇になる というので
 国中の人々は おおよろこびを しました。
 
  ところが、男の赤ちゃんは 1歳の お誕生日を 前にして 亡くなって
 しまいました。
 
  男のあかちゃんが亡くなって 5ヶ月目のこと。
 
  『長屋王が 赤ちゃんを のろいころした。』
 と、二人の男が 聖武天皇に つげにきました。
  聖武天皇は あとつぎの 男の赤ちゃんを 亡くして 悲しんでいました。
  そこでよく調べないまま、長屋王に おおくの兵を さしむけました。
 
  長屋王は、一番えらい大臣で、聖武天皇の 先生でした。
  長屋王は 身におぼえのないことで、
 『わたしはしていない。』と いいました。
 
  疑われた長屋王は 毒を飲んで 自殺しました。
  長屋王の きさきと 4人の子供たちも あとをおって
 死んでしまったのです。
 
  長屋王が死んだあと、奈良の都では、地震が起こり、 ひでりや
 洪水が つづいておきたのです。
 
 
     つづく   期待してね!! 
 
 
  * 画像   〈 三河国分尼寺 〉
  聖武天皇の勅願により741年に全国60か所に建てられた国分寺と国分尼寺
 
 
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   光明皇后さま
 
 
 
 いまから 千三百年ほど前、大和の国
 
(現在の奈良県)で女の赤ちゃんが生まれまし
 
た。その赤ちゃんは大きくなるに従い光り輝くような姫君になりました。
 
 人々はその姫君を 「光明子」(こうみょうし)といっって たたえました。
 
 光明子が九才になったとき、飛鳥から奈良の平城京に、都が遷りました。
 
 
 光明子の お父さんは大臣、お母さんは 天皇にお仕えする仕事をして
 
いました。 
 
 天皇をはじめ、人々は 住み慣れた家を離れ、新しい都へ引っ越し
 
したのです。
 
 
 光明子は 美しいだけでなく とても賢い子でした。
 
 ある日、中国から伝わった「ものさし」をもって、光明子は 多くの人が集まる
 
市場に出かけました。
 
 市場では たべもの うつわ 布などいろいろなものが売られていましたが
 
誰もものさしの使い方を知りませんでした。
 
 そこで光明子は「ものさし」のつかいかたを みんなに教えてあげました。
 
 
 
       つづく
 
 
 
 
    参考資料     奈良教育大学教授  梶田 幸恵 著
 
                     「 光明皇后 」 より
 
                 
                     
   
 
 
    

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