仙台の市街地北西部、いくつもの寺社が連なり緑の豊かな北山地区があります。 戦争・地震・再開発によって、古い家々や道路の多くが失われてしまったこの街にあって、わずかに北山周辺は落ち着いた雰囲気が残され、歩くのが楽しい場所です。 北山から南に向かって、新坂通とよばれる細い道がのびており、その道沿いにもいくつかの古刹が並んでいます。 その一つが荘厳寺です。 荘厳寺の創建年代は不明ですが、寛延二年(1749)に火災にあい、本堂等の主要な建物が失われています。 その中で唯一燃えずに残ったのが、今回ご紹介する山門です。 この山門は、江戸中期に起こった仙台藩最大の政治的事件である「伊達騒動」により失脚した、原田甲斐宗輔の屋敷門であったと伝えられています。 山門は三間一戸の薬医門で、桁行6.11m、梁間2.91m、高さ5.05mの大きさです。 近世初期の上級武家門の様式を伝えるものとして、昭和61年(1986)に市指定有形文化財に指定されています。 この門については、前述した伊達騒動にまつわる話が伝えられています。 江戸城下の大老酒井忠清邸で刃傷事件を起こし失脚した原田宗輔は逆臣とされ、逆臣である原田氏の表門であるこの門の移建にあたって、裏返しに建てて「逆さ門」としたとされています。 平成5年(1993)、この山門は解体修復の際の調査が行われました。 調査では、原田氏に関係する直接的な証拠は得られませんでした。 しかし、本柱・脇柱が、もとの門の柱材の木元・木末を上下逆さにし、さらに左右の位置を交換して再建されている事が明らかになりました。 通常このような形で移建・再建をすることはなく、何らかの意図をもって、あえて逆転させ「逆さ門」としたとしか考えられません。 調査報告では、直接的証拠がないため、この門が原田甲斐宗輔屋敷門かどうかは断定せず、慎重な態度がとられていますが、伝承との一致をみた貴重な調査成果と言えます。 事件の後、原田宗輔の4人の息子たちは切腹。嫡子宗誠の5歳と1歳の息子も処刑され、原田氏の男子は根絶やしにされました。 山門の調査成果報告書では、同じく伊達騒動で処分(高知藩主山内豊昌お預け)を受けた伊達兵部宗勝の城門を移建したとされる、中尊寺本坊表門との比較が行われています。 伊達騒動によって廃絶させられた原田甲斐と伊達兵部、2つの家の屋敷門と伝えられるものが、ともに寺院の門として残されていることは、いろいろと想像を喚起させるものがあります。 残念ながら、現状では原田甲斐の屋敷門との確証はありませんが、近世初頭の上級家臣の屋敷門の遺構として、この荘厳寺山門は重要です。 仙台城や若林城の門とされるものは市内に残されていますが、重臣の屋敷門は他にありません。 現在、仙台城下の家臣の屋敷跡で発掘調査が行われたのは、仙台城追廻地区にあった片倉氏の屋敷跡や、二の丸北方にあったいくつかの屋敷跡など、数えるほどしかありません。 原田氏の屋敷跡があった片平丁の場所にはいま、仙台高等裁判所が建っています。 ◆アクセス JR仙山線の北山駅から徒歩約10分 【参考文献】
宮城県教育委員会 1992 『宮城県の古建築』(宮城県文化財調査報告書第151集) 佐藤巧・田中正三 編 1995 『仙台市指定有形文化財 荘厳寺山門解体修復工事報告書』 平川新 2003 「第一章 伊達騒動」『仙台市史 通史編4近世2』 |
全体表示
[ リスト ]





仙台藩の歴史を遡る時、寛文事件は避けて通れない大きな出来事であります。深層は闇の中ですが今でも甲斐を偲ぶ人は多く彼への興味は尽きないものがあります。
きょうは歴史小説で申し訳ありませんが動画入り関連記事をトラックバックをさせて頂きたいと思いますので宜しくお願い致します。
2014/3/23(日) 午後 8:28
>ミックさま
コメント&トラックバックありがとうございます。
このような歴史のある建物が、細い通りに静かに佇んでいるのが、北山周辺の魅力だと思います。
2014/3/23(日) 午後 11:34 [ kroraina2 ]
ご無沙汰しております。kroraina様に於かれましてはいつもは格別なお引き立てを頂き感謝しております。
さて昨日は逆さ門と原田甲斐屋敷跡地(現:仙台高等裁判所敷地内)を訪ねて参りました。
貴兄の記事に共通する多くの記事を見出し感慨に浸っております。いつか歴史研究会の場などでお会いできる日が来ることを祈念しております。
この記事をトラックバックをさせて頂きたいと思いますので宜しくお願い致します。
2014/5/4(日) 午前 6:05
>ミックさま
トラックバックありがとうございます。裁判所敷地内のコウヤマキには気づきませんでした。勉強になりました。
2014/5/4(日) 午後 7:37 [ kroraina2 ]