歩こう!仙台の遺跡

いつのまにか雨の季節です(2015年6月25日)

青葉区

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もう先週のことですが、
10月18日(土)に東北大学川内北キャンパスで行われた、
仙台城跡二の丸北方武家屋敷地区第15地点現地説明会に行ってきました。

この日は快晴。

東北大学埋蔵文化財調査室長の阿子島先生の挨拶のあと、
調査員である藤沢先生から調査内容について説明がありました。
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調査区は以前プールがあった場所で、この地区の中でも遺構面の残りが良い場所でした。

後方に見えるサークル会館建築の事前調査では、屋敷の建物を構成するとみられる多数のピット(柱穴)が発見されたそうです。
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調査では溝によって分けられた4つの区画(屋敷地)がみつかりました。

溝は区画の他に排水の機能を持ち、写真手前にある沢跡に合流します。
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屋敷地は区画ごとに平らに造成されており、写真左上の区画と右上の区画で高低差があるのがわかります。

現在丘陵地で造成される、ひな壇状の宅地と同じような構造です。

調査の結果、2つの屋敷地の大きさが復元されました。

その大きさはおよそ1000坪。
伊達氏一門や片倉氏などの重臣を除けば、仙台藩でもかなり上級の家臣たちの屋敷です。
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調査では、左の写真にあるような塀跡(掘立柱列)の他は、屋敷を構成する建物跡は見つからりませんでした。

屋敷を区画する溝の内側は、ある程度の面積を生垣や屋敷林占めていたため、遺構の見つからない空間があるのではないかと考えられています。

木々に囲まれたお屋敷が並ぶ、当時のたたずまいがしのばれます。
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出土遺物の見学コーナー。

平箱で30箱ほどの遺物がみつかりました。

17世紀の遺物として、織部の皿や信楽焼とみられる四耳壺のほか、中国・漳州窯系の皿がありました。

他には18世紀の肥前の碗皿や大堀相馬の皿など。

上級武士のくらしを想像させます。

【参考文献】
東北大学埋蔵文化財調査室 2014 「仙台城跡二の丸北方武家屋敷地区第15地点現地説明会資料」
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平成26年6月14日、
東北大学の川内キャンパスで、仙台城跡二の丸の発掘調査成果を公開する現地説明会がありました。

今回の発掘調査は、東北大学の被災した講義棟建物の建て替えにともなうものです。
建て替えに際しては、二の丸の重要な遺構群が存在する場所にあるため、既存建物の基礎杭等を利用し、新たな掘削が伴わないような建築工法が採用されました。

このため、調査は古い時期の層まで掘り下げるのではなく、近代以降の層を掘り下げ、江戸時代の最終的な遺構の状況を確認することに基本的に留められています。

当日は快晴。
風もあり、暑すぎない素晴らしい天気でした。
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仙台城二の丸は、寛永15年(1638)に二代藩主伊達忠宗により造営されました。

それまでこの場所は重臣の屋敷などが置かれていましたが、二の丸造営以降は、特別な儀礼等以外の政務や儀式はこの二の丸で行われるようになり、本丸に代わって仙台城の中心となりました。

文化元年(1804)に火災により焼失しますが、その後復興され、それら再建された建物群は明治15年(1882)に再び火災で失われるまで残されていました。

今回発掘調査されたのは、その文化元年の火災以後に再建された建物群です。

さらに下まで掘り下げれば、より古い時期の建物跡などが見つかる可能性がありますが、遺跡の保存のため発掘は最小限に留められています。

上の写真は、調査区1B区の様子。

ちょうど、政務が行われる「表」と、藩主の生活の場である「中奥」の間に位置し、
造営計画の絵図をみると「下大所」とされる場所にあたります。

建物跡の礎石や、石敷きなどがみつかっています。
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こちらは、1B区の西側に設定された2B区。

礎石建物跡や、石組溝などがみつかりました。

また、一部後世に上の遺構面が削られた箇所では、古い時期の溝跡が発見されました。
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こちらは、その南に位置する6A区。

こちらでも石組溝がみつかっています。

絵図を見ると、先ほどの2B区から屈曲を伴いながらのびてくる溝が描かれており、6A区でみつかった石組溝は2B区のものにつながるとみられています。
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こちらは、その東側にある6B区。

調査区西側で、礎石建物跡がみつかっています。

写真では柱列は三列ありますが、
このうち左側の柱列はしっかりと基礎を固めており、大きな礎石が据えられていたとみられます。

それにくらべて、調査員の方が指し示している柱列は残された礎石が小さく基礎固めもさほど入念ではありません。

このような礎石の様子の違いは、そこにのせられた柱の役割の違いによるもので、建物自体を支える柱はしっかりと、床などを支えるだけの柱はそれなりに、というような使い分けがされていたそうです。
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こちらは、出土品の見学コーナー。

この場所に陸軍の施設が置かれた明治時代の陶磁器のほか、
中国から輸入された染付や、宴席で用いられた素焼きの器など、江戸時代の焼き物も出土しています。


今回の発掘では、
これまで大規模に調査されていなかった仙台城二の丸の様子が一部明らかになり、
江戸時代の仙台藩中枢であった二の丸を考古学的に明らかにする上でとても貴重な成果となりました。


【参考文献】
東北大学埋蔵文化財調査室 2014 「仙台城跡二の丸第18地点現地説明会資料」
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伊達政宗により創建された大崎八幡宮。
その門前の八幡町通りから南に折れ、広瀬川にかかる牛越橋へと続くゆるやかな坂道は、滝前丁通りと呼ばれています。

この通りに面して、板塀に囲まれた境内をもつのが浄土宗の来迎寺です。
ここには、「モクリコクリの碑」と呼ばれる中世の板碑があります。
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板碑は元々2基あったそうですが、弘安十年の銘があったとされる1基は現在所在不明となっています。

いま境内にある1基は、一時道路建設のため民家の庭先に移設されていたものを、1996年に小堂を建てて保存されるようになったものです。
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碑には、一番上に梵字の「ア」があり、その下に、

苦人求佛恵 通達菩提心 父母所生身 速證大覚位

とあり、その下中央に、

延元二年大歳丁丑八月二日

と年月日が記され、その左右に、

右志者為過去悲母 亡霊乃至法界平等利益

と記されています。
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この碑の通称「モクリコクリの碑」の「モクリコクリ」については、
「蒙古・高麗(高句麗)」の事とされ、仙台市内にいくつかある蒙古の碑の一つとされています。

この、「モクリコクリ」という言葉は、仙台という一地域にある言葉というわけではなく、全国各地にみられる言葉で、片倉穣氏が全国的な集成をしています。

地域によって、「ムクリ」「モクリ」「ムクリコクリ」「モックリコックリ」などの言葉があり、「蒙古・高麗(高句麗)」との関連性が考えられています。

「モクリコクリ」や「ムクリコクリ」は恐ろしいもののたとえとして用いられることがあり、長崎や和歌山などでは地域に伝わる妖怪の名前とされています。
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このうち、「ムクリ」という言葉は、14世紀に成立した『増鏡』に「蒙古」の読みとして登場しています。

しかし、今井秀和氏が指摘しているように、「ムクリ」という単独の用例は中世にも存在しますが、「ムクリコクリ」と連称されるようになるのが確認されるのは近世に入ってからで、中世の史料では確認できないようです。

今井氏は、「ムクリ」→「ムクリコクリ」→「モクリコクリ」という言葉の時系列的変遷を考えており、「モクリコクリ」は近世以前の史料にはみられないため、近代に入ってからの成立を想定しています。

近世に入ると、「ムクリコクリ」という言葉は、
「むくりこくりの鬼が来る」
と、子供が泣き止まない時などに用いる脅し文句として広く用いられるようになります。

仙台の沙門梅国が宝永七年(1710)に著した『桜陰腐談』でも、そのような子供への脅し文句として記されているそうです。

このように、近世に入ると「ムクリコクリ」は鬼と同じような、現実から離れたものへと変化していきます。
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文永の役・弘安の役(元寇)による恐ろしい侵略者としての「蒙古・高麗(高句麗)」という存在は、「ムクリコクリ」という言葉を通じて、中世から近世への歴史の流れの中、いつしか得体のしれない妖怪のようなイメージへと変わっていきました。

来迎寺の「モクリコクリの碑」も、これ自体が蒙古・高麗に直接的に関係があるというよりも、かつて境内にあったとされるもう一基の板碑にある「弘安」銘からの連想や、近世以降の「ムクリコクリ」という言葉の広がりとともに、「モクリコクリの碑」と呼ばれるようになったとも考えられないでしょうか。


◆アクセス
仙台駅西口バスプール10番乗り場から「市営バス川内営業所前行」に乗車し、牛越橋バス停下車、すぐ


【参考文献】
今井秀和 2008 「モクリコクリについて」『日本文学研究』47(大東文化大学日本文学会)
片倉穣 1998 『日本人のアジア観 前近代を中心に』 明石書店
仙台市史編さん委員会 1998 『仙台市史 特別編5板碑』
田中健夫 1982 『対外関係と文化交流』 思文閣
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仙台の市街地北西部、いくつもの寺社が連なり緑の豊かな北山地区があります。

戦争・地震・再開発によって、古い家々や道路の多くが失われてしまったこの街にあって、わずかに北山周辺は落ち着いた雰囲気が残され、歩くのが楽しい場所です。

北山から南に向かって、新坂通とよばれる細い道がのびており、その道沿いにもいくつかの古刹が並んでいます。

その一つが荘厳寺です。

荘厳寺の創建年代は不明ですが、寛延二年(1749)に火災にあい、本堂等の主要な建物が失われています。

その中で唯一燃えずに残ったのが、今回ご紹介する山門です。
この山門は、江戸中期に起こった仙台藩最大の政治的事件である「伊達騒動」により失脚した、原田甲斐宗輔の屋敷門であったと伝えられています。
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山門は三間一戸の薬医門で、桁行6.11m、梁間2.91m、高さ5.05mの大きさです。
近世初期の上級武家門の様式を伝えるものとして、昭和61年(1986)に市指定有形文化財に指定されています。

この門については、前述した伊達騒動にまつわる話が伝えられています。
江戸城下の大老酒井忠清邸で刃傷事件を起こし失脚した原田宗輔は逆臣とされ、逆臣である原田氏の表門であるこの門の移建にあたって、裏返しに建てて「逆さ門」としたとされています。
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平成5年(1993)、この山門は解体修復の際の調査が行われました。

調査では、原田氏に関係する直接的な証拠は得られませんでした。
しかし、本柱・脇柱が、もとの門の柱材の木元・木末を上下逆さにし、さらに左右の位置を交換して再建されている事が明らかになりました。

通常このような形で移建・再建をすることはなく、何らかの意図をもって、あえて逆転させ「逆さ門」としたとしか考えられません。

調査報告では、直接的証拠がないため、この門が原田甲斐宗輔屋敷門かどうかは断定せず、慎重な態度がとられていますが、伝承との一致をみた貴重な調査成果と言えます。
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事件の後、原田宗輔の4人の息子たちは切腹。嫡子宗誠の5歳と1歳の息子も処刑され、原田氏の男子は根絶やしにされました。

山門の調査成果報告書では、同じく伊達騒動で処分(高知藩主山内豊昌お預け)を受けた伊達兵部宗勝の城門を移建したとされる、中尊寺本坊表門との比較が行われています。

伊達騒動によって廃絶させられた原田甲斐と伊達兵部、2つの家の屋敷門と伝えられるものが、ともに寺院の門として残されていることは、いろいろと想像を喚起させるものがあります。
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残念ながら、現状では原田甲斐の屋敷門との確証はありませんが、近世初頭の上級家臣の屋敷門の遺構として、この荘厳寺山門は重要です。

仙台城や若林城の門とされるものは市内に残されていますが、重臣の屋敷門は他にありません。

現在、仙台城下の家臣の屋敷跡で発掘調査が行われたのは、仙台城追廻地区にあった片倉氏の屋敷跡や、二の丸北方にあったいくつかの屋敷跡など、数えるほどしかありません。

原田氏の屋敷跡があった片平丁の場所にはいま、仙台高等裁判所が建っています。


◆アクセス
JR仙山線の北山駅から徒歩約10分


【参考文献】
宮城県教育委員会 1992 『宮城県の古建築』(宮城県文化財調査報告書第151集)
佐藤巧・田中正三 編 1995 『仙台市指定有形文化財 荘厳寺山門解体修復工事報告書』
平川新 2003 「第一章 伊達騒動」『仙台市史 通史編4近世2』

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11月17日(日)

仙台城石垣に引き続いて、
片倉家屋敷があった仙台城跡追廻地区の見学会も行われました。


仙台城跡の追廻(おいまわし)地区は、
いま仙台市博物館のある三の丸跡の東側(本丸からみて外側)に広がる場所です。

仙台城の一部として、
侍屋敷や馬場がおかれていました。

寛文年間には佐沼を治めた津田氏の屋敷がありましたが、
伊達騒動の後の延宝5年(1677)、片倉家3代当主の片倉景長のときから片倉家仙台屋敷となりました。


今回の発掘調査は、
青葉山公園の(仮称)公園センターの建設に伴うもので、
昨年度調査区の隣接部分を対象に行われました。

調査主体は仙台市教育委員会ですが、
実際の調査業務は民間調査機関のテイケイトレード(株)に委託して行われています。


上の写真は調査区の南西部、
石敷遺構などがみつかっています。
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調査では、
片倉家の屋敷やそれ以前の屋敷跡の遺構群、
幕末の弘化3年(1846)に起こった火災後のかたづけに関連する遺構群、
火災後の再建された屋敷跡の遺構群、
などがみつかっています。

さまざまな時期の遺構が複雑に重なり合っています。

上の写真は調査区の東側、
火災前の屋敷に伴う区画溝とみられる23号溝跡。

東西方向の溝跡です。
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こちらは、調査区北東部でみつかった21号溝跡と7号礎石建物跡。

21号溝跡は火災前の遺構で、底面に瓦を敷いており、建物を囲んでいたとみられています。

そして火災後、
この21号溝跡を一部こわして7号礎石建物跡が建てられています。
建物の方向は、江戸時代に描かれた絵図の建物とほぼ同じであることが分かっています。
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こちらは、上の7号礎石建物跡などのそばでみつかった2号井戸跡。

円形に石を組んでいます。
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こちらは出土遺物見学のコーナー。

片倉屋敷のあった17世紀後半から幕末までの時期の陶磁器が多数出土しています。

肥前・瀬戸美濃・信楽・大堀相馬・堤など各地の製品があります。

また、1点だけですが、
13世紀代に中国でつくられた梅瓶の破片が出土しています。


発掘調査は12月でいったん終了し、
来年度さらに南側の隣接した場所を対象に行われるそうです。

伊達家重臣の片倉家の屋敷跡。
遺構の重複や近現代の建物による破壊などがあり非常に難しい調査ですが、
すこしずつその実態が明らかになりつつあります。
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【参考文献】
仙台市教育委員会 2013 「仙台城跡追廻地区発掘調査(第5次)遺跡見学会資料 続・片倉家仙台屋敷を発掘する!」

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