小鶴という地名は、この地に伝わる伝説に語られた、悲劇の女性の名前にちなむと言われています。 その小鶴が入水した池が小鶴池(小鶴沼)と呼ばれ、江戸時代に耕地化されるまで残っていたそうです。 小鶴池は平安時代中期の歌人である源重之により、 「千歳をはひなにてのみや過しけむ こづるの池といひて久しき」 と詠まれています(『重之集』)。 重之は、有名な藤原実方が陸奥守として下向する際、これに随った人物です。 古代の東山道の東側に広がるこの場所が、当時すでに小鶴と呼ばれていたことをうかがわせます。 東山道は中世になると奥大道、さらに戦国期になると東街道と称されるようになりますが、この東街道を見下ろす小丘に築かれた城跡が、今回ご紹介する小鶴城跡です。 最初の写真は、小鶴城跡北側にあるかつての堀跡。 今は公園になっており、仙台東ロータリークラブが建てた城跡の概要を記す標柱が建っています。 こちらは、小鶴城跡の概要図です。 小鶴城跡は西からのびる台原・小田原丘陵の最東端にあり、標高約16mの最高所と周囲の水田との比高差は約11mです。 北側を高野川と呼ばれる小川が流れ、南側には先述した小鶴池(小鶴沼)が広がっていました。 上の図の緑の部分は、平場のおおよその推定範囲です。 一番西側の主郭と考えられる部分は殿上山と呼ばれており、約80×40mほどの平場になっています。 その東側にも2つ程度の平場があったとみられ、現状でも地形の段差としてとらえられるほか、昔の航空写真でもそれをうかがわせる様子が確認できます。 平場を囲むようにして堀が巡っていたとみられ、さらに北西部には土塁が一部残存しています。 小鶴城跡では、これまでに9回の発掘調査が行われており、主郭部分を対象にした第4次調査では、掘立柱建物跡3棟などの遺構や、中世陶器・北宋銭などがみつかっています。 また、堀跡を対象にした調査では、西側の外堀のさらに外で2条の溝跡がみつかっているほか、城の東縁で行われた第6次調査では障壁を伴う溝跡がみつかっています。 このほか、『日本城郭体系』には、城の北東縁および南縁にも土塁と堀があったと記されています。 現在、小鶴城跡はほとんどが宅地化されており、城跡をうかがわせるものはわずかです。 上記の公園に面する城跡北側の斜面も、ほとんどがコンクリの擁壁で覆われています。 ただし一部このように土の部分が残されている箇所もあります。 公園部分からの比高差は数mほどです。 公園西側には、土塁の一部が残されています。 残高は約1mほどです。 このように宅地化される前の小鶴城跡はどのような状況だったのでしょうか。 国土地理院が地理情報空間ライブラリーで公開している、戦後すぐの小鶴周辺を撮影した米軍の航空写真を見てみましょう。 ※航空写真はサイト内でダウンロードできます。引用元を明記すれば利用可能だそうです。 これをみると、小鶴城跡は低湿地上に突き出した、舌状の小丘であることがよくわかります。 主郭の東側に広がる平場も、その形がおおよそ推測できます。 こちらは、同じ地理情報空間ライブラリーの地理院地図3Dを利用した、小鶴城跡周辺の鳥瞰図です。(1970年代の航空写真を利用、高さ設定3倍) 小鶴城は、北へ向かう東街道を東から見下ろす位置にあります。 小鶴城は北にある岩切城とともに、この地を支配した留守氏の城で、留守氏の家臣である逸見氏が城主であったと伝えられています。 小鶴城から、街道と谷を一つはさんで北西には、留守氏と緊張関係にあった国分氏の城とされる笹森城があります。 小鶴城跡の北、高野川の対岸に、羽山神社という小社があります。 境内には、中世の板碑が何基か残されています。 小鶴城内の東部にも板碑が残されているそうですが、民家の敷地内にあるため見学できません。城跡の周辺には、地元で七殿と呼ばれた塚や祠があったそうです(その一つが北西土塁上に建つ地蔵殿)。 中世の信仰をしのばせるものと言えます。 以上、小鶴城跡について概観してみました。 城は標高の低い丘に3つ程度の平場が造られていたようですが、発掘調査でみつかっている堀・溝などをみると、区画施設の構成はやや複雑だったようです。 宅地化されているため困難を伴いますが、今後の発掘調査等の進展を期待したいです。 ◆アクセス JR仙石線の小鶴新田駅で下車、徒歩約15分 【参考文献】
・仙台市教育委員会 2011 「小鶴城跡第4次発掘調査報告」『法領塚古墳他発掘調査報告書』 (仙台市文化財調査報告書第393集) ・仙台市教育委員会 2013 「小鶴城跡(第9次調査)」『仙台市震災復興関係遺跡発掘調査報告I』 (仙台市文化財調査報告書第416集) ・田中則和 2006 「小鶴城跡」『仙台市史 特別編7城館』 ・藤沼邦彦 1981 「小鶴城跡」『日本城郭体系』第3巻 新人物往来社 ・三浦昇 2011 『郷土再発見 我がふるさと岩切』 |
宮城野区
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JR東仙台駅の近く、ちょうど比丘尼坂のあたりで枝分かれする利府街道の旧道に入り、北東へ2kmほど行くと、国道4号線の手前に高圧線の鉄塔が建っています。 ちょうどこのあたり一帯に広がっているのが、今回ご紹介する燕沢遺跡です。 燕沢遺跡は、おもに平安時代を中心とした遺跡で、寺院とみられる建物群がみつかっています。 遺跡は、標高20〜30mほどの河岸段丘上に立地しており、北は船形連峰、東は岩切や多賀城方面を遠望し、南方は水田の広がる仙台平野を見下ろす高燥の地にあります。 写真は、南東方向の水田地帯を撮影したもの。 これまで、12次にわたる調査が行われており、いくつもの掘立柱建物跡が発見されています。 特に、遺跡南東部で行われた第8次調査でみつかったSB2掘立柱建物跡は、南北4間(総長9.6m)、東西7間以上(総長14m以上)の東西に長い大型の建物跡です。 南北2面に廂(ひさし)がつき、内部は3間おきに柱穴が配置されて仕切られていたと考えられています。 多賀城の付属寺院である多賀城廃寺でみつかっている僧坊跡と構造が類似する部分があることから、この建物は寺院の僧坊であった可能性が指摘されています。 出土遺物から、建てられた年代は10世紀前半と推測されています。 周辺の調査区では、「読院□」と墨書された須恵器の坏も出土しており、遺跡南東部には寺院が存在した可能性が考えられています。 燕沢遺跡の出土品の中で特に注目されるのが、宝相華文軒丸瓦。 燕沢遺跡の宝相華文軒丸瓦は、この遺跡独特のものとされています。 多賀城跡でも類似した文様のものが出ていますが(多賀城軒丸瓦422型式)、燕沢遺跡のものの方がより精緻な文様で、燕沢遺跡の宝相華文軒丸瓦を基にして造られたと考えられています。 その多賀城の瓦は、貞観11年(869)の貞観地震からの復旧に使用された瓦です。 多賀城の復旧瓦のモデルになるような瓦が、なぜ燕沢遺跡から出土するのか。 いまだ議論のあるところですが、多賀城の復旧の拠点的なものが燕沢遺跡に置かれていた可能性について推測する説も提出されており、とても興味をひかれます。 まだまだ遺跡のごく一部が調査されたにすぎない燕沢遺跡。 全体像の解明には、これからの調査・研究の進展が期待されています。 ◆アクセス JR東北本線東仙台駅から徒歩約40分 または、 仙台駅前から市営バス「原町・宮城野区役所・東仙台経由 岩切駅」行、または「花京院・国立病院経由 小鶴新田駅・東仙台(営)」行に乗車し、燕沢東バス停下車、徒歩10分 【参考文献】 佐川正敏 2001 「平安時代前期陸奥国・出羽国の宝相華文軒丸瓦の研究」『東北学院大学東北文化研究所紀要』第33号 佐川正敏 2013 「貞観地震復旧瓦生産における新羅人の関与について」『平成25年度宮城県考古学会総会・研究発表会予稿集』 仙台市教育委員会 1995 『仙台平野の遺跡群XIV』(仙台市文化財調査報告書第195集) 仙台市教育委員会 2010 『仙台平野の遺跡群XX』(仙台市文化財調査報告書第371集) 長島栄一 1995 「古代530 燕沢遺跡」『仙台市史 特別編2考古資料』 |
旧街道のおもかげが残る原町本通り。 人通りのおおい商店街から脇道を入った駐車場の真ん中に、立派な松の木が生えています。 この木は、かつてここにあった「宮城郡役所」ゆかりの松とされているものです。 江戸の世が終わり明治に入ると、近代的な地域支配のための行政区画は、さまざまな変遷をたどりました。 明治4年(1871)、それまで使われていた郡町村制を廃止し、郡を「大区」に、町や村を「小区」に改める、大区・小区制が始まりました。 このとき、藩政時代この原町の地に置かれていた宮城郡国分御代官所を利用して、「第二大区事務取扱所」が設置されました。 ところが、それぞれ数字による名称が割振られた大区・小区制は、地域の人々の暮らしになじまず、評判がよくありませんでした。 (たとえば、この原町の場所は、「第2大区小5区」となります) そこで、明治11年(1978)に大区・小区制は廃止され、旧来の郡町村を復活させる郡区町村編制法が制定されることになりました。 その際、この場所に宮城郡を管轄する宮城郡役所が設置されたのです。 明治35年(1902)には郡役所の建物が新築されました。 上の写真は、現地説明版に紹介されている、新築された郡役所の様子。 正面の玄関先に生えている立派な松が、現在もこの地に残っている「ゆかりの松」です。 そんな宮城郡役所も、大正15年(1926)に郡制が廃止されると、その半世紀ちかく続いた役目を終えました。 建物は戦後まで残り、授産所などに使用されたそうですが、いまは何の変哲もない駐車場になっており、かつて広域的な地方行政の中心だったことを伝えるのは、ただ一本の松の木だけとなりました。 ◆アクセス JR仙石線の宮城野原駅から徒歩約15分 【参考文献】 榎森進 2008 「第二章第一節 地域の統合」『仙台市史 通史編6近代1』 |
東仙台の燕沢2丁目には、仙台藩3代藩主伊達綱宗が元禄10年(1697)に開山させた古刹、善応寺があります。 利府街道からまっすぐ参道がのびており、門をくぐってすぐ左手に大きな板碑があります。 この碑は、通称「蒙古の碑」と呼ばれており、仙台市域にある中世板碑の中では最も有名なものの一つです。 こちらが「蒙古の碑」です。 釈文については諸説ありますが、鎌倉時代に当時の中国である元から帰化した僧の無学祖元が、元寇における元軍の戦没者のために建てた碑ではないかと推測されています。 元々は近在の別の場所にあったのですが、昭和16年(1941)に「東亜新秩序」アピールのために政治的に利用され、当時の蒙古連合自治政府主席の徳王が来訪した際に、いまの善応寺境内に移されました。 最初の2枚の写真は2011年1月に撮影したもの。 先日、改めて行ってみると、碑が横に倒されていました。 震災以降はこのように横倒しにしたままだそうです。 地震で倒れたのかどうかは分かりませんが、碑には特にダメージは見られません。 境内にはこのほか、「比丘尼塚」と記された碑があります。 ここからやや東に行くと「比丘尼坂」と呼ばれる坂があり、平将門の妹が尼となってこの地にたどり着き、甘酒を作って道行く人々に売り評判になったという言い伝えがあります。 その比丘尼を葬ったとされるのが、この比丘尼塚です。 「蒙古の碑」は、謎の多い碑文も含め、仙台を代表する板碑といえます。 また周辺には伝説にまつわる比丘尼坂などがあり、深い歴史を感じさせる興味深い地域です。 ◆アクセス JR東北本線の東仙台駅から徒歩約15分。 【参考文献】
仙台市史編さん委員会 編 1998 『仙台市史 特別編5板碑』 |
仙台の桜の名所として知られ、市民の憩いの場となっている榴岡(つつじがおか)公園。 公園の中心部には広い芝生の広場がありますが、この広場を中心にして、かつて旧陸軍第2師団歩兵第4連隊の兵舎が建ち並んでいました。 兵舎が建てられたのは明治7年(1874)とみられ、終戦まで使用されました。 戦後は進駐軍のキャンプ・ファウラーが置かれ、米軍に使用されました。 その後、昭和52年(1977)に榴岡公園を整備するにあたり、保存の良い1棟が移築され、現在は仙台市歴史民俗資料館として活用されています。 この建物は、宮城県でもっとも古い木造洋風建築です。 内部は2階が展示室となっています。 仙台の農村生活や町場の暮らしに関する民俗資料が収められていますが、その一角に第4連隊のコーナーがあります。 こちらでは、兵舎内の様子が再現されています。 兵営内生活の最小単位である内務班の様子です。 第4連隊には13個中隊(1個中隊は昭和初期には200名ほどが在籍)があり、内務班の1個班は40名くらいだったそうです。 資料館から芝生広場をはさんで反対側には、昭和35年(1960)に建てられた、「歩兵第四連隊之跡」碑があります。 碑が建てられたのは9月9日ですが、この日は明治8年(1875)に歩兵第4連隊へ軍旗が授与された日でした。 この碑のそばには、旧陸軍省の所轄地を示す標柱が建っています。 かつては、この標柱の東側が第4連隊の敷地で、西側が躑躅ヶ岡公園(つつじがおかこうえん)でした。 この第4連隊兵舎は、今に残る貴重な明治期の建築であるとともに、仙台にいくつかある戦争遺跡のうちの象徴的な存在としても大切な建物です。 ◆アクセス JR仙石線の榴ヶ岡駅から約5分 【参考文献】
仙台市歴史民俗資料館 2008 『ガイドブック 仙台の戦争遺跡』 |







